コロナ禍の影響で芸能界はにわかに代打ブーム。その好機を見事つかんだのが、ものまね芸人・JP。声優、NSC、ナベプロ、ショーパブ......。芸を磨き続けた苦節の19年を振り返る!
■同期のハライチより早くテレビ出演も......
「僕らの世代はみんな松本さんに憧れる。そういう人がお笑いを目指すと、だいたい松本さんとセンスやネタの作り方が似るんですが、僕は声やしぐさが似ていったんです」
1月30日に放送された情報番組『ワイドナショー』(フジテレビ系)で、新型コロナの濃厚接触者となり欠席した松本人志の代役として、東野幸治のものまねで出演した原口あきまさと共に、松本&東野の掛け合いコントを披露。
これが大反響で、2月20日の同番組でも、再び欠席した松本に代わり、オープニングに登場するなど、現在、バラエティに引っ張りだこのJP。しかし、このブレイクを迎えるまでに19年もかかっていた。
「いつか絶対売れると思ってたんです」
そう信じて疑わなかった生粋のものまね芸人、JPの素顔に迫る!
――大評判の松本人志ものまね。やるようになったきっかけは?
JP 20歳の頃、上京資金をためるためにトラックの運転手をやっていて、その車内で何げなく松本さんの声まねをしてみたら「これはいけるのでは......!?」と思って、本格的に練習を始めました。
――もともと、ものまねは得意?
JP 得意だと意識したのは高校生のとき。それまでは人間より動物の鳴きまねをよくしていました。地元は滋賀の田舎。ちょっと行けば牛舎なんかもあったので、そこで牛の鳴き声の練習をしたり。友達がほぼいなかったので、鳴きまねをして牛が集まってくるのがうれしかったんですよね。人間の友達は集められなかったので(笑)。今でいう"陰キャ"な少年時代でした。
――有名人で最初にものまねしたのは誰だったんですか?
JP 人まねを最初にしたのは『裸の大将』の芦屋雁之助(あしや・がんのすけ)さんや『男はつらいよ』の渥美清(あつみ・きよし)さん、『赤かぶ検事』のフランキー堺さんなどです。僕の世代からしたら渋すぎますが、おばあちゃんが好きでいつも一緒に見てたので、自然とものまねするようになりました。まぁ、同級生でわかる人は誰もいませんよね......(苦笑)。
ものまねで受け入れられたのは高校生の頃。勉強も運動もできなかった僕は不良グループにいじめられることもあったんですが、彼らに当時はやっていた『池袋ウエストゲートパーク』の長瀬智也さんのまねを披露したらすごくウケて、それからいじめられなくなった。ものまねは身を守る手段でもあったので、まさに"芸は身を助ける"でした。
――高校卒業後は声優の専門学校に進学していますね。
JP 単純にものまねができるなら声優もできるだろうと。でも、当たり前ですけどそこは声のお芝居を勉強する場所で、自分の想像とはちょっと違っていたんです。なので卒業後、芸としてものまねをやるために吉本のNSC大阪校に入ったんですが、半年で辞めてしまいました。当時の大阪は、ものまね一本でやれる環境じゃないと感じたからです。
――大阪にものまねが根づいてなかったのはちょっと意外。
JP あくまで大阪は漫才。その中の武器としてものまねがあった。大阪のものまねといえば、楽屋の師匠ものまねや中川家さんがやるようなあるある人間がメイン。僕は(松田聖子のものまねをする)まねだ聖子さんや、(玉置浩二のものまねをする)セニョール玉置さんみたいな芸に憧れていたんです。
で、"ものまね=東京のショーパブ"だろうと、上京することにしたんです。当時の大阪にはショーパブ文化がなかったですから。それが22歳の頃。ところが、東京に来てもちょうど募集がなく、ショーパブで働くことができなかったので、バイトをしながらナベプロ(渡辺プロダクション)の養成所に通うことにしたんです。
――そうだったんですね!
JP そこの2期生で同期にはハライチ、サンシャイン池崎、フォーリンラブのバービーがいました。幸先は僕が一番よかったですよ。養成所時代にくりぃむしちゅーさんがMCの『くるくるドカン~新しい波を探して~』というフジテレビの深夜番組で、"砲丸投げをするGACKT"というネタで、あのハライチよりも先にテレビデビューしましたから。
でも、その後はパッタリ。ナベプロも当時はものまねタレントが少なかったこともあり、途中で辞めることにしました。
――なかなかうまくかない。
JP そのタイミングで、赤坂の「ノーブル」というショーパブに雇ってもらえることになって、結局、研音に所属する直前までの14年間もお世話になりました。
――14年......!?
JP その間ずっと昼夜逆転の生活でしたけど、仕事は楽しかったですよ。休みの日もボランティアで仕事を手伝うくらい。今でこそ「(そっくり館)キサラ」(ものまね芸人のショーが楽しめるレストラン)さんが有名になって、ショーパブが世間に認知されましたけど、当時は水商売扱いで、そこで働くことをよしとしない芸人さんは多かった。僕は腹が決まっていたので、水商売をナメるなよって気持ちでやってましたが。
――そこで芸を磨いた。
JP ノーブルはステージがないし、芸をして帰るだけじゃなくてお客さんへの接客もしなくちゃいけない。だから対応力が培われましたよね。お客さんによっては芸能人がわからない人もいるから、ディズニーやジブリのキャラクターのものまねを覚えたりと、ノーブルのおかげでレパートリーが増えました。
――JPさんのレパートリーはすさまじい数ですもんね。しかし、不安になったりはしなかったんですか?
JP もちろん不安だらけでした。ただ、ノーブルには(R-1ぐらんぷり2008準優勝の)芋洗坂係長(いもあらいざかかかりちょう)さんなども働いていて、売れた瞬間を目の当たりにしていたから、「自分もいつか必ず売れる」と思ってました。芸に対して下を向くことはなかったです。
■『浅草キッド』に自分の姿を重ねた
――まるで『浅草キッド』。そして、約3年前に研音に所属することに。
JP ノーブルに研音の関係者の方が遊びに来ていて、「タレント部門をつくろうと思ってるからよかったらどう?」と声をかけてくださって。研音40年の歴史でタレント部門第1号が僕でいいのかなと思いましたけど(笑)。
――露出は増えた?
JP タウンワークのCMで松本さんとの共演や、連ドラ(『私のおじさん~WATAOJI~』)への出演など、さすが研音さんって感じでした。でも僕自身の実力が足らずにあとが続くことはなく、すごく申し訳ない気持ちで......。
"死ぬまで芸人"と誓ってはいましたが、『くるくるドカン』の出演時も、2007年のR-1で準決勝にいったときも、「これで売れる!」と思って結局ダメだったので、もう無理じゃないかと半ば諦めてました。
――そしてコロナ禍。
JP おととしの2月、初のワンマンライブが決まっていて、チケットも完売していました。それがコロナで中止になって。さすがにメンタルがやられましたね......。
――しかし、芸の神様は見捨てなかった。
JP 松本さんの「(『ワイドナショー』の代役は)JPやな」というツイートが僕の人生を変えました。オンエア後の反響が本当にすごかった。ツイッターのフォロワーは4000人から10日で2万人も増えたし、お仕事もバンバン入ってきました。まるで、ジャスティン・ビーバーに動画を「いいね!」されて仕事が激増したピコ太郎さんの現象に似てます(笑)。
――今度こそ売れた。
JP 今回が一番実感がないんですけど、そういうもんなんでしょうか。とにかくこのチャンスをつかむしかないと思ってます。
――ものまね芸人として、今後の目標は?
JP コロナ禍でメンタルがやられていた昨年末に、ネットフリックスの『浅草キッド』を見たんですけど、(ビート)たけしさんが自分に重なってすごく感動しました。もし松本さんバージョンの『浅草キッド』ができたら、特殊メイクした柳楽(やぎら)(優弥)さんに松村(邦洋)さんがたけしさんの声をあてたように、僕が松本さんの声をあてたいです!
●JP(ジェーピー)
1983年生まれ、滋賀県出身の38歳。高校卒業後に声優専門学校やNSC、ワタナベコメディスクール、14年間のショーパブ生活などを経て、研音に所属。2003年デビュー。芸名のJPは本名の前坂淳平の名前(Junpei)から