江戸城を明け渡した15代将軍、徳川慶喜。御用金の行方を知るひとりかもしれない江戸城を明け渡した15代将軍、徳川慶喜。御用金の行方を知るひとりかもしれない

江戸城開城時にこつぜんと消えた徳川幕府の御用金400万両(約20兆円)。当初、群馬県赤城山に隠されていると思われていたが、そこにはなかった......。壮大なプロジェクトから約30年。新たに浮かんだ場所はふたつ。どうする?

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■徳川埋蔵金は赤城山にあるのか?

NHK大河ドラマ『どうする家康』が注目され、今年は〝徳川家康ブーム〟が起こりそうだが、実は今から約30年前にも徳川ブームがあったのだ。

それは〝徳川埋蔵金探し〟という大プロジェクトだった。簡単に説明すると『ギミア・ぶれいく』というTBSのバラエティ番組で、1990年から約2年半にわたって徳川埋蔵金の発掘作業が行なわれた。

数々の証拠や証言などをもとに群馬県赤城山を隠し場所と考え、大規模な発掘調査を行なった。そして、正体不明の空洞などを発見するのだが、最終的に埋蔵金は見つからず、そのプロジェクトは終了した。

約30年前、テレビの企画で掘られた赤城山山中の徳川埋蔵金があると予想されていた場所。しかし、そこに埋蔵金はなかった......約30年前、テレビの企画で掘られた赤城山山中の徳川埋蔵金があると予想されていた場所。しかし、そこに埋蔵金はなかった......

そもそも徳川埋蔵金とはなんなのか? 考古学者で『いっきに学び直す日本史』(東洋経済新報社)の監修を務めた山岸良二氏が解説する。

「徳川幕府には毎年、平均して400万両(現在の価値で約20兆円)の御用金(税金)が納められていたといいます。

しかし、1868年に江戸城が開城され新政府軍が入城したときには蔵の中は空っぽでした。一銭もなかったんです。じゃあ、その400万両はどこに行ったのか?『開城までの間に誰かが運び出したのではないか?』と推測することができます。

では、御用金を運び出したのは誰か? 江戸城が開城される約3ヵ月前まで勘定奉行をやっていた小栗忠順(おぐり・ただまさ)という人物がいます。

彼は横須賀に製鉄所(後の造船所)を造るなど幕府の中でも特に頭の切れる存在でした。そのため、小栗が新政府軍と最後まで戦うための資金として御用金をひそかに運び出し、隠したのではないかと考えられているのです。

では、その隠し場所はどこか? 彼が江戸城を出た後に向かったのが、自分の領地に近い赤城山でした。そこで、赤城山に隠したのではないかということになっているわけです」

この話をもとに、徳川埋蔵金探しは約30年前に大ブームになった。しかし、埋蔵金は見つからないまま、そのプロジェクトは終了した。

群馬県片品村の金山跡を調査する八重野氏(中央)とそのメンバー。この中に徳川埋蔵金が隠されていたという証言がある群馬県片品村の金山跡を調査する八重野氏(中央)とそのメンバー。この中に徳川埋蔵金が隠されていたという証言がある

では、その後、埋蔵金探しはどうなっているのか? 現在も徳川埋蔵金を追い続けているトレジャーハンターの八重野充弘氏に聞いた。

「私は40年以上にわたって徳川埋蔵金の場所を示す証拠になりそうな史料を分析してきましたが、偽物がかなり多いんです。でも、幕府が御用金をどこかに隠そうとした形跡は確かにあります。

実は、日本埋蔵金研究の権威であり、私の師匠でもある畠山清行(はたけやま・せいこう)氏は、昭和の初めまで生きていた元江戸城の御金蔵番(ごきんぞうばん)だったふたりの人物から証言を得ていました。

その内容は『慶応3年(1867年)の10月頃から、夜中に千両箱を2、3個ずつ隅田川沿いの御竹蔵(幕府の倉庫)にひそかに運んだことがある。その合計は数十箱に及んだ』というものです。

ただ、その隅田川沿いの御竹蔵からどこに運ばれたのかがまったくわかりません。史料が残されていないのです。

一方、赤城山より北に位置する現在の群馬県利根郡昭和村、みなかみ町、片品村(かたしなむら)などには『幕末、利根川をさかのぼってきた川舟から大きな荷物が陸揚げされた』とか『牛や馬で荷物が運ばれた』という目撃談が残っています。

すると、隅田川沿いから舟で運ばれた御用金が、群馬県北部にたどり着いたのではという仮説が成り立ちます」

なぜ、上州(群馬県)北部を選んだのか?

「幕府を開いたとき、西から攻められて、江戸にもしものことがあった場合、上州に本拠地を移すことが決まっていたからです。

また、赤城山周辺にも幕府の武士たちが行動していた形跡があるので、幕末に西からやって来た新政府軍と最後の戦いをするために、最初は上州の赤城山に御用金を持っていこうと計画したのかもしれません。

しかし、そのときになんらかの計画の変更があって、最終的には赤城山のさらに北の村々に分散して運ばれたのではないか、中でも片品村が最有力と私は考えています」

埋蔵金のありかが記されているといわれる古文書の写し。地図、方角などが描かれている。果たして、その場所とは?埋蔵金のありかが記されているといわれる古文書の写し。地図、方角などが描かれている。果たして、その場所とは?

■Hさんが残した衝撃のメッセージ

八重野氏は、徳川埋蔵金がある場所は片品村ではないかと考え、実際に発掘調査を行なったこともある。

「30年近く前のことですが、私が埋蔵金探しをしていることを知ったHさん(片品村で炭焼きなどの山仕事をしている人物)から連絡をいただきました。

Hさんは、片品村に伝わる幕末の伝承として『慶応4年(1868年)3月に片品村の中心部で、千両箱と思われる木の箱を1個ずつ左右に振り分けて背負わされた牛8頭が目撃された』『幕末、江戸中期に閉山になった金山跡に千両箱が運び込まれたらしい』と話してくれたのです。

私は話が断片的でつながらない部分も多かったので半信半疑でしたが、Hさんの案内でその金山跡に向かいました。その道のりは険しく、沢伝いに道なき道を2時間以上も歩きました。

そして、ついに金山跡に着いたのですが、金山の坑口(こうぐち)だった場所は急斜面にあり、土砂で埋もれていて中に入れませんでした。

そこで半年後に、その土砂を取り除くためにシャベルやツルハシなどを持って現地に向かいました。そして坑口があるという斜面を掘ったのですが、上からひっきりなしに土砂が落ちてきてまったく先に進めません。そこで泣く泣く坑口を探すのを諦めました」

徳川埋蔵金があると思われる場所① 群馬県片品村 赤城山よりも北に位置する片品村。村の中心部から沢沿いの険しい道を2時間以上登り続けた金山跡で埋蔵金を見たという証言が......徳川埋蔵金があると思われる場所① 群馬県片品村 赤城山よりも北に位置する片品村。村の中心部から沢沿いの険しい道を2時間以上登り続けた金山跡で埋蔵金を見たという証言が......

八重野氏は、その後も何度か金山跡に足を運んだが、現場は斜面の崩落が進み坑口をふさぐ土砂の量がどんどん増えていたため、坑口を開ける作業をしばらく中断していた。

「それから十数年がたった2006年のことです。私はHさんの訃報を聞きました。そして、私たち宛てのメッセージがあることを知ったのです。

そのメッセージは『昭和30年代、坑口がまだある頃、私は仲間とふたりで金山跡の坑道に入り、左奥の立て坑の底に徳川埋蔵金の一部と思われる16個の千両箱を見つけました。

そして、金貨の入った千両箱をひとつ回収することに成功したのですが、そのとき、仲間が誤って穴の底に落ちてしまい、どうしても助けることができませんでした。その仲間の供養をお願いしたいのと、残り15個の千両箱を取り出して世の中の役に立ててほしいのです』という衝撃の内容でした。

それで、2009年から金山の坑口を開ける作業を再開しました。多いときは十数名がかりで、土嚢(どのう)や木枠で上から落ちてくる土砂を止め、坑口のある場所まで掘っていきます。そして、ついに坑口が見つかりました。

人がひとりやっと入れるようなスペースを開け、亡くなったHさんの仲間のためにお線香を持って中に入ると、Hさんから聞いたとおりの坑道がありました。

そして、左奥の立て坑をのぞくと中に水がたまっていて、腐った木のようなものも見えました。日を改めて立て坑の水を抜き、底に下りていくと......そこには、仲間の遺骨も千両箱もありませんでした。

Hさんが、こんな手の込んだ嘘をつくはずがありません。結局、私たちの出した結論は、『死んだと思っていた仲間は死んでいなかった。そして、千両箱を運び出し、坑道の別の場所に隠した』というものでした。

『村まで持って帰ったんじゃないか』という意見もありましたが、小さな村なので持って帰れば噂が立ちますし、15個の千両箱をひとりで運べるような帰り道ではありません。ですから、一番可能性があるのは『徳川埋蔵金は、まだ坑道の中に隠されている』です。

実は後になってから坑道内に1ヵ所だけまだ探していない場所が残っていたことに気づいたのです。現在、この金山跡の調査を再開すべく準備中です」

■外国船を装って出港した仙台藩の船

一方、前出の山岸氏は、別の場所に徳川埋蔵金があるのではないかと推測する。

「まず、400万両といわれる徳川御用金ですが、江戸城が開城される前に城内で働いていた約3000人に退職金を渡しています。

また、新政府軍と戦うため、新選組や榎本武揚(えのもと・たけあき)率いる海軍に軍資金を渡していました。ですから、私は江戸城開城までに御用金はほとんどなくなっていたのではないかと思っているんです。

ただ、それでも残った御用金はあった。実は江戸城開城の5日後、仙台藩が所有する『早丸(はやまる)』という船が江戸湾から仙台に向けて出港しています。

この早丸は、仙台藩の船なのに出港時にブルガリアの国旗を掲げ、外国人をたくさん乗せて外国船を装っていました。しかも、出港したのは見通しの悪い真夜中で水先案内人も乗せていませんでした。

早丸には積み荷のリストが残っていて、何万枚ものメキシコ銀貨(当時の国際通貨)、仙台藩の黄金、武器、弾薬、食料、生糸などが積まれていたようです。もしかしたら、その中にひそかに徳川御用金も積まれていたかもしれません。

江戸城開城直後、仙台藩はまだ新政府軍と戦っている最中でした。そこで、徳川幕府は仙台藩に軍資金として残った御用金を渡したという可能性があるのです」

江戸湾を出発した早丸は、その後、仙台まで無事に到着したのか?

「実は、三浦半島の観音崎を回り、久里浜沖の海獺島と笠島の間にある暗礁に乗り上げ、笠島の南方で沈没したといわれています。座礁したのは、夜中で見通しが悪く水先案内人を乗せていなかったためだったと考えられています。

早丸の沈没後、生糸などの積み荷が近くの浜に漂着したという報告がありました。また、今から約60年前にある人物が沈没地点付近を調査して、重さ約22㎏の銅の塊を21個引き揚げた記録があります。

しかし、これは早丸の積み荷からすればほんの一部です。まだまだ久里浜沖の海底に徳川御用金が眠っている可能性は十分にあるのです」

実は、東京湾には早丸だけでなく多くの沈没船が眠っている。

徳川埋蔵金があると思われる場所② 神奈川県 久里浜沖笠島南方 江戸城開城の5日後、船籍を偽り、夜中にひっそりと出港した仙台藩の船。その積み荷には、当時の国際通貨だったメキシコ銀貨が大量にあった徳川埋蔵金があると思われる場所② 神奈川県 久里浜沖笠島南方 江戸城開城の5日後、船籍を偽り、夜中にひっそりと出港した仙台藩の船。その積み荷には、当時の国際通貨だったメキシコ銀貨が大量にあった

前出のトレジャーハンター・八重野氏が語る。

「2005年の夏に、千葉県館山市の塩見海岸で、散歩中の老人が1枚の小判を拾いました。それは江戸後期の元文小判(時価約30万円)で、沖合に沈んでいる船から流れ出したものにほぼ間違いないと思われます。

小判は重たいのですが、平べったい形のため、水流の影響を受けやすく波にもまれて巻き上がって海岸まで流されてくることがあります。

米フロリダなどでも沖合に沈んだ船から金貨や銀貨が、ハリケーンの後などに見つかることがよくあるようです」

NHK大河ドラマ『どうする家康』が注目され、今年は徳川家康ブームになりそうだが、この徳川家康ブームは、もしかしたら〝徳川埋蔵金探しブーム〟に火をつけることになるかもしれない。

そして、その埋蔵金の有力なありかは、現在「群馬県利根郡片品村の金山跡」と「神奈川県久里浜沖笠島南方」に絞られている。

30年の時を経て、週プレが「令和版・徳川埋蔵金プロジェクト」をスタートさせるのは、もはや時間の問題なのかもしれない――。