「毎度おなじみ、流浪の番組、タモリ倶楽部でございます」。4月1日の放送をもって終了した『タモリ倶楽部』。1982年10月の初回から約41年の歴史を刻んだ深夜バラエティ番組の金字塔、その伝説を今こそ語ろう。
安齋 肇さんに続き、鉄道マニアの存在を広く知らしめた『タモリ倶楽部』で、〝タレントより目立つ鉄オタマネジャー〟として人気となった南田裕介(みなみだ・ゆうすけ)さん。そんな彼が見たタモリさんの素顔とは?
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■初めて企画が通った「埼京線ダービー」
――南田さんが『タモリ倶楽部』に出るようになったきっかけは?
南田裕介(以下、南田) 2001年の「優香のマネジャーはアイドル好き」って企画ですね。打ち合わせで、アイドルのサイン会や聖地巡礼に「快速アクティー」に乗ってとか「ムーンライト高知」に乗ってとか鉄道の説明してたら、スタッフさんが「もしかして鉄道好き?」と。
それで念のため好きな鉄道ランキングを用意したんです。確か1位が京王(京王電鉄)で、5位を京急(京浜急行電鉄)にしたら、タモリさんが「京急は5位っぽくていいね」とか、すごい盛り上がって。
――番組に鉄道に詳しいスタッフがいた?
南田 いませんでした。でも、マネジャーとしてタレントの売り込みに行くと、「何かアイデアない?」って聞かれるんですよ。そこで企画も一緒に考えて売り込むようになりました。
すると「埼京線ダービー」という企画が採用されまして。これは埼京線が見える会議室を借りて、次はどんな電車が来るか当てるゲーム。企画書を出したら数日後に電話がかかってきて、「あれ、会議に通ったからやることになったよ」との返事がありました。僕にとって転換点となる企画です。
――当初は鉄道を鑑賞する企画が多かったですけど、だんだん乗る企画も増えましたよね。
南田 京急が番組にすごく協力的で、品川駅から久里浜工場まで「ドレミファインバータ」って呼ばれるモーター音の特徴的な1000形を使った貸し切り列車を用意してくれた。
タモリさんと原田芳雄さんと「くるり」の岸田(繁)さんらと乗って、最初は景色を見てるんですけど、だんだんエスカレート。最終的にみんなで寝転がって、床に耳を当ててモーター音を聞くという奇行に走りました(笑)。
――貸し切りじゃなかったら怒られてますよ(笑)。最初は私鉄だけでしたが、いつしかテレビ取材のハードルが高いといわれているJRも協力してくれるようになりましたね。
南田 JR東日本の鶴見線に乗る企画はよく覚えています。ロケの3日前にインフルエンザになっちゃって......。どうしても行きたかったので電話でちょっとだけ参加させてもらって。
JR西日本の「大阪環状線一周ツアー」(16年)も印象深いですね。その回は番組にとって15年ぶりの大型地方ロケだったそうですね。
――『笑っていいとも!』が終了して(14年)、タモリさんが遠い場所に行けるようになったことが大きかったんでしょうか? そういえば最初は南田さんとタレントさんがセットで出てましたが、いつの間にかひとりで出るようになりましたよね。
南田 担当していた豊岡真澄(〝元祖鉄道アイドル〟を自称)が引退して鉄道に詳しいタレントがいなくなっちゃったんです。
あとは部署を異動しまして、そのときの上司が「うちらはスターをつくるのが仕事というのと同時に、スターマネジャーをつくるのも仕事だ。だから、どんどんやりなさい」と後押しされました。
■番組のおかげでマニアは胸を張れた
――そもそも、タモリさんは最初から鉄道に詳しかったんですか?
南田 びっくりするほどお詳しかった(笑)。僕が初めて番組に出演したときに「飯田線トロッコ号」の話をしたら、「飯田線はものすごくトンネルがあるよね」と、すぐに返ってきたのは衝撃でした。すごい!って思いましたね。
あと、タモリさんから「津軽鉄道にはかつて西武(鉄道)で使われた車両が走ってるよね」と言われたとき、僕はその場でわからなかった。後で調べたら実際にそうで、そんなことまでご存じなのかと。
――『タモリ倶楽部』の鉄道企画のラストは「見れば幸せになる黄色い新幹線」として有名なJR東海のドクターイエローに乗る企画でした(今年2月、3月に2回に分けて放映)。
南田 ドクターイエローは本来、線路や電気設備を点検するための車両で一般の人は乗れないんですよね。それをJR東海が特別に取材許可を出してくれました。ものすごい貴重な機会になりましたね。
――でも、やった企画が「ドクターイエローの先頭にある点検用カメラを使ったジェスチャーゲーム」ってのは、ちょっとくだらない(笑)。
南田 あれは面白かったですね。ちなみに僕が出した問題は「新幹線でもう名古屋駅かと思ったら、三河安城駅だった人」(笑)。
その後、ドクターイエローの運転台にタモリさんが入って、実際の運転を横で見ていましたが、あんな前のめりなタモリさん見たことはありませんでした。あの回こそ、20年にわたる『タモリ倶楽部』の鉄道企画の集大成ではないでしょうか。
――昔と比べて鉄道会社の姿勢も変わったと思いますか。
南田 はい。テレビ取材に対して柔軟に対応してくれるようになりました。それは『タモリ倶楽部』の功績が大きいと思います。
鉄道マニアは20年前はあまり人に言える趣味じゃなかった。でも、この番組のおかげでカミングアウトできた人も多かったんじゃないですか。
僕も『タモリ倶楽部』への出演で人生がすごい豊かなものになりました。だから、終わっちゃったのは寂しい。まだやりたい鉄道企画がいっぱいあったのにな。
僕はマネジャーだし、『タモリ倶楽部』がないとタモリさんと会える身分じゃないんですよ。でも、またどこかでご一緒したいですね。
●南田裕介(みなみだ・ゆうすけ)
1974年生まれ、奈良県出身。ホリプロ所属の芸能マネジャーでありながら、超がつく鉄道マニアとして、テレビやラジオ、鉄道関連イベントに多数出演している。著書に『ホリプロ南田の鉄道たずねて三千里』(主婦と生活社)など