自身の半生を赤裸々に語るとともに貴重な人生訓を明かした初の単著『居場所。』が大ヒット中の吉本興業・大﨑 洋(おおさき・ひろし)前会長。吉本興業入社直後のエピソードから、60代で一念発起して受けた"包茎手術"の鉄板ネタまで、NGなしで語ってくれました!
■社員時代は「まず社長にはならない」タイプだった?
――『居場所。』すごいおもしろかったです。世間のイメージと違って、大﨑さんがこんなに左遷というか、窓際というか、しんどい場所にいた人だったということに驚きましたよ。
大﨑 そうやねん、嫌われててん。いつクビになるかもわからんし、いつでも辞めたると思ってたから、それなら好きなことしたろうと思って。
――まず社長にはならないタイプだったわけですからね。
大﨑 そうそうそう。たまたまや。反社の人が創業家の肩抱きながら乗り込んで会社を乗っ取ろうとしてきたから、「それはあかんやろ、あっち行けあっち行け」ってやっとったら、たまたま残ったのが俺のほうやったっていうだけの話です。
――こんなカジュアルに反社の話が出るのも衝撃でした。
大﨑 ああ、そう? まだしゃべられへんこといっぱいあるけど、『週プレ』やったらしゃべれるかな(笑)。必死でやって、気がついたらたまたま。まあどっちかが残るんやけど、たまたまこっちが残ったというだけの話ちゃいますかね。
――大﨑さんはそういうとき、とりあえず会う人ですよね。
大﨑 若かったからね。いまはもう会うのもしんどいけど。とりあえず会わないとわかんないから。
――ダウンタウンがドカンと売れて金になると思った人たちが一気に群がってきたり。
大﨑 そうそうそう、みんな来たね。
――そこで会いに行けちゃうのがすごいと思いますよ。
大﨑 会社が何も助けてくれへんかったからね。右翼の新聞を送りつけられて、「こんなん来ました」って当時の社長とか上司に言っても、「おう」みたいな感じで、「おう」やあれへんがなと思いながら。「送りつけてきたこれ、なんのことですか?」って直接聞きましたよ。
■吉本入社直後、45年前の大阪の空気
――そもそも大﨑さんは『よしもと血風録――吉本興業社長・大﨑洋物語』にも書いてありましたけど、吉本というか芸能界というか、お笑いの世界がまだ物騒だった時代に入ってきた人じゃないですか。
大﨑 そうそうそう。
――ちょっとデリケートですけど、大﨑さんはW(ダブル)ヤングの担当をされてたんですよね。
大﨑 そうそう、現場のマネジャーだけどWヤングさんやってたときに中田軍治さんが崖から飛び込んで自殺しはってね......。
――野球賭博の借金で。
大﨑 うん。その頃の関西は野球賭博全盛やったからね。
――その取り立てが楽屋に来るような時代だったわけですね。
大﨑 そうやね。林家小染(こそめ)さんが亡くなったとき(1984年に交通事故死)も僕、現場のマネジャーしてたから。僕がマネジャーしてたらよくないのかもわからへんな。
――さらに、当時は反社相手の闇営業も当たり前だしで。
大﨑 当たり前というか、会社の仕事として反社のところに行ってたからな。
――え!
大﨑 それはそれでへぇーっと思って。ただ家に帰っておふくろに「今日は何したん?」って言われて、そんなこと言うたらビックリするやろから何も言えなかった。そこぐらいかな、かなわんなあと思うのは。
――のんきですよね(笑)。
大﨑 だからいまは隔世の感があって、とんでもない時代やったと思うんだけど、そういうにおいとか風をみんな身にまとってたからね。それが時代の空気そのままやったから。
■「西の笑いは箱根の山を越えられへん」という時代に東京へ
――そんな大阪から飛ばされるような形で東京に来たら、空気が全然違ったんですね。
大﨑 そうそうそう。ウチの会社が東京に事務所をつくるっていうんで先輩に連れられてきたんですけど、それまでは「西の笑いは箱根の山を越えられへん」って言われてて。
それで東京に来たら女のコはみんな東京弁しゃべってるし、領収書もらうときに「宛名は?」って言われて、「吉本興業」って言ったらみんな笑いはるか怖がりはるか、そんな時代やったからおもしろかったね。
――お笑いが当時そんなにヒエラルキーとして下だったこともすっかり忘れてました。
大﨑 そうそうそう。もともと芸能界ってヒエラルキー一番下じゃないですか。その中でも役者、歌手、お笑いみたいな順番でしょ。役者も映画、舞台、テレビ、お笑いも喜劇役者、落語、漫才みたいな順番で、その下のマネジャーやから最悪よ(笑)。
――そこからいまの状況に持っていったわけだから、大﨑さんは相当な革命をしたと思うし、それがわかる本ですよ。
大﨑 地位が向上することがホントにお笑いのためにいいのかどうかっていうのもちょっと悩ましいところではあると思うけど。お笑いタレント、お笑い芸人が女優さんみたいな人と結婚するとかね、入った頃のあのにおいからは考えられへんかったもんね。
――テレビの扱いもホントにひどかったみたいですよね。
大﨑 そうそうそう。楽屋はもちろん個室もないし、大部屋のところにも名前はなかったし、お弁当もなかったし、帰りのタクシー券ももらわれへんかったし。紳助・竜介とかトイレで着替えたりしとったから(笑)。ひどい話や。
――それまで接点なかったような吉本の若い芸人さんも、会社を辞めるかもって噂があったら会いに行ったりしてますよね。
大﨑 そうやね。だから65歳ぐらいまでは元気やったのかな。さすがに67歳ぐらいからはちょっと。
■60代で一念発起して受けた"ある手術"
――60歳になって奥さんが亡くなられて最初にやったのが仮性包茎の手術だった、と以前の本に書いてましたね。
大﨑 そう、これ鉄板のすべらない話やから! 1時間。
――そんなに長いんですか!
大﨑 その頃もう素人なりにネタが繰れてて、ようできてたんですよ。あれで1冊出せますよ。でも、売れへんか。
――夢を与える話ですよ!
大﨑 そう? あれ絶対やったほうがええよ。47歳のときにザ・ぼんちのまさとさんが仮性包茎の手術やったっていうのが楽屋で評判になって。40過ぎてどこに向かってんねん、そんなことするんやって興味津々だったんですよ。
で、奥さんが死んで、ヨイヨイになって病院に入っても若い看護婦さんがチンチンとか拭いてくれたりするときに毛があると邪魔ちゃうか、それは申し訳ないとか気がついて。
60歳になってそんなことするのもな......と思いながら、スマホで「仮性包茎 手術」って検索したら新宿の病院が出てきて、なんとなく電話してしまって。......これ『居場所。』の話と全然関係ないですけどね(笑)。
――問題ないです!
大﨑 それで細いビルの4階か5階の病院に行って。これ誰かが見てたら......例えば秘書のコとかが「あんたんとこの社長、仮性包茎の手術したやん」って言われたら申し訳ないと思って。これはみんなに言わなあかん、と。
――それでオープンに話してる、と。こういうのって『週刊プレイボーイ』の読者はすごい気になる話だと思いますよ。
大﨑 そうやね。生島ヒロシさんもなさってるんですよ。
――へぇーっ!!
大﨑 『大﨑洋と坪田信貴のらぶゆ~きょうと』っていうKBS京都ラジオでいつもバカ話してるんですけど、ゲストで生島さんに来てもらったときも1時間、ふたりでずっと仮性包茎の手術の話。
――ヘタに隠すよりは出したほうがいいですよね(笑)。
大﨑 ホントホント。......こんなんで記事になりますか?
――仮性包茎の話をクローズアップさせていただきます!
大﨑 ハハハハハハ! 仮性包茎で俺はこうなった!
●大﨑 洋(おおさき・ひろし)
1978年4月、吉本興業株式会社入社。数々のタレントのマネジャーを担当。80年、東京事務所開設時に東京勤務となる。86年、プロデューサーとして「心斎橋筋2丁目劇場」を立ち上げ、この劇場から多くの人気タレントを輩出。97年、チーフプロデューサーとして東京支社へ。その後、音楽・出版事業、スポーツマネジメント事業、デジタルコンテンツ事業、映画事業など、数々の新規事業を立ち上げる。2001年に取締役、その後、専務取締役、取締役副社長を経て、07年に代表取締役副社長、09年に代表取締役社長、18年に共同代表取締役CEO、19年に代表取締役会長に就任。23年4月27日付で代表を辞し、6月29日をもって退任予定
■『居場所。』
著:大﨑 洋 定価:1650円 (税込) 発行:サンマーク出版
「3人目のダウンタウン」と称され、現在は吉本興業・前会長として名をはせる大﨑洋さん。一見すると華麗な経歴だが、実は入社したばかりの頃は「ダメ社員」だった。ひきこもり、左遷、窓際......順風満帆とはいえない人生。それでも「ぼちぼち行こか」と顔を上げられるように、大切にしてきた12の「しないこと」を優しい言葉でつづる