今年で日本のTV放送は開始から70年。TV離れが叫ばれるようになって久しいが、そこは温故知新!70年代後半、女子アナとして初のバラエティー番組に抜擢、以後、昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子が伝説的番組の裏側、昭和のスターとの交友などを全5回にわたって激白。彼女の記憶と言葉を通じてTVの未来を探る!(第2回は10月中旬に配信予定)
■バブルの絶頂期、付き合う男の必須条件は"しっぽのある人"
――南さんは昭和52年(1977年)、大学3年修了後にテレビ朝日アナウンス部に入社、86年に独立。同年、若いOLをターゲットとした『OH!エルくらぶ』(86年~98年、テレビ朝日系)の司会を担当、メディアの寵児になっていきます。時代はちょうどバブル期。まずは当時を振り返って頂きたく。
南 86年はプラザ合意がなされて空前のバブル期に突入していくわけですが、この年には男女雇用機会均等法も施行され、女性がそれまでの補助的な立ち位置から男性と同じように活躍の場が与えられて、ものすごく活気づいていくんです。私自身、米女性誌『コスモポリタン』の名編集長ヘレン・ガーリー・ブラウンの著書『恋も仕事も思いのまま』のタイトルをスローガンにして、仕事にも恋愛にも全力を注いでいました。
そして思うところやタイミングもあって独立に踏み切りました。その半年前、局アナ時代から続いていた『OH!エルくらぶ』の司会は続行しました。女性誌をフォーマットに、恋愛やグルメ、旅行、美容といったテーマを独自の切り口で取り上げていたので、OLたちに人気の情報バラエティー番組でした。
――スタジオには毎回若い女性たちがぎっしり集まっていましたよね。
南 毎回スタジオには様々な企業から100人の現役OLの方をお呼びしていたんです。第一回はソニーでした。当時のスポンサーの日産自動車、都市銀行、いろんな会社からお越しいただいて。"マイカンパニー"というコーナーを設けて、ゲストでいらしたOLさんたちの勤め先の企業紹介もありましたね。
――100人全員、ガチのOLさん!? でも、それだけ若い女性を集めているぶん、恋愛企画コーナーはユニークでしたよね。
南 ええ、売り出し中の女優さん3人を起用して、いろんな寸劇のVTRを見せるんです。イケメンの落とし方とか、あるいは口先ばかりのしょーもない男には気を付けろ、ですとか。
合間合間で、私と男性司会者が解説とかツッコミを入れていました。初代男性司会者は田中康夫さんでした。当時、彼は『なんとなく、クリスタル』がベストセラーになった人気作家でした。時代を切り取ることにかけては天才的でしたね。番組内ではいろんな造語が作られましたけど、よく覚えているのは"ジャマイカ野郎"。「じゃ、それでいいや」とか「ま、いっか」といったぐあいに優柔不断で主体性のない男子を指す言葉です。たとえイケメンでも意志薄弱な男はダメっていう意味で使われていましたね(笑)。
――南さんはやがて"OLの教祖"として引く手あまたの存在になっていきます。文字通り、恋も仕事も思いのまま。時代もイケイケで、スーパー勝ち組だったかと。バブル期ならではの思い出はどんなものがありますか? たとえば、収入ですとか。
南 もう、今となっては夢のような話で(笑)。局アナって現在は割と高給取りになっているようですが、私は大学3年終了とともにテレビ朝日に入ったので、給料は短大卒扱いだったんです。それから数年経っても、年収はだいたい300万円程度でした。
それが独立してから3年の間は事務所には所属せず個人で動いていましたので、収入は全額自分の手元に入ってきます。しかも仕事一本のギャラは月給を上回っていましたから、年収は1億に届くまでになりましたね。
――年収1億円超え!! 事務所に入らなかった3年間というと86年~89年ごろですから、まさに日本の絶頂期ですよね。
南 ええ、完全にマヒしてましたね、金銭感覚は(笑)。『OH!エルくらぶ』でも番組内のショッピングコーナーを担当していたので、代理店から別にギャラ以上のギャラが出ていました。そのうち出版業界から声がかかって、次々と連載が決まり、さらに立て続けに出した本もまた売れて、印税が入るという生活です。
放送と出版で目立ってくると、講演会も引く手あまたでした。当時は一回のギャラが50~80万円。ですから自分で仕事のペースを決めて、年に3~4回は香港に3泊4日で買い物旅行。リムジンお出迎えでマンダリンオリエンタルのスイートにステイして、上限なしのショッピングを楽しみました。
あとは日本国内で別荘をキャッシュで衝動買いしたりとか。株はどれを買っても、一晩で勝手に20~30万円も値が上がるし、郵便貯金も定期で預ければ1割利息という時代でしたから、1年経つとすごい額になってました。
――令和の世では想像できない夢物語......。でも、南さんご自身がそれだけバリバリ稼ぐキャリアウーマンであれば、当然、男性に求める条件もすごかったのでは。
南 あの頃は、男子の条件は"3高(高身長・高学歴・高収入)なんて言葉もありました。私も私の周りの女友達も男性に求める条件はズバリ3高でした。とにかく、"尻尾のある男"じゃないとダメだったんです。
尻尾は何を指すのかっていうと電話受話器コードです。要するに、車に自動車電話を備えている男性じゃなきゃお断りというわけです。さすがにこれは限られた人たちしか持っていませんでしたからね。今になって思えば、私たちは本当に強気でした(笑)。
■赤プリ、IDOのハンディフォン......。トレンドに貪欲だった1990年。
――南さんといえば、もうひとつ思い浮かぶのは深夜番組『EXテレビ』(90年~94年 日本テレビ、読売テレビ)の司会です。バブル崩壊後にスタートしたとはいえ、軽快なサックスの調べとアバンギャルドなグラフィックのオープニングとエンディングが印象的で、実験的要素も多い華やかな番組でしたよね。
南 およそ25年間続いた『11PM』の後番組でしたので、当時のスタッフからは「この番組もここから25年続けていくので、くれぐれもお体を大切になさってください」と。仕掛け人は番組制作会社ハウフルスの現社長、菅原正豊さん。『タモリ倶楽部』(82年~23年 テレビ朝日)や『アド街ック天国』(95年~ テレビ東京)など数々のヒット番組を生み出した天才です。
おとなしい方なんだけど、時代を読む稀代のアイデアマンです。『EXテレビ』はとにかく、流行の最前線を徹底的に掘り下げました。オープニングテーマ曲は作曲家の三枝成彰さん、グラフィックはアートディレクターの大家、浅葉克己さん。今では考えられないゴージャスさでものすごく予算をかけていたはずです。
――月・水・金曜は東京の日本テレビ、火・木曜は大阪の読売テレビと、それぞれ制作は分かれ、東京は現在も劇団スーパー・エキセントリック・シアターの主宰をはじめ活躍中の三宅裕司さん、大阪は上岡龍太郎さん(故人)がメイン司会を務められていましたよね。
南 私は月曜担当でした。週の頭ということもあって、流行に敏感な若い男性層(ヤングエグゼクティブ)を意識した内容で、トレンド予測に力を入れてました。特に思い出されるのは、クリスマスイブのホテル満室状況。人気のデートスポット赤プリ(赤坂プリンスホテル)なんか、チェックアウトした25日に翌年のイブをおさえないと部屋が取れないと言われていました。
それと、いよいよ個人が電話を外へ持ち運べる時代が来た! ということで、携帯電話を徹底紹介する回もありました。番組が始まった90年でしたかね、当時世界最小・最軽量が謳い文句だったIDOのハンディフォン「ミニモ」という機種(重量298g)を番組のツテで、三宅さんと二人ですぐに入手しました。今になって思えば、けっこう重いんですよ(笑)。でも、「これは便利な世の中になるよね、絶対に欲しい」と。
あと、トレンド解説にはマーケティング学の第一人者、村田昭治さん(故人。当時・慶大商学部教授)をレギュラーでお招きして。お話が深く巧みで、常に撮影現場には、村田ゼミの学生として名だたる企業の御子息たちが見学に来られていましたね。
――『EXテレビ』では月曜レギュラーの南さんによるウイスキーの生CMも記憶していますが、この広告を打つこと自体、やっぱり景気がままだ廃れていなかったんだなと......。
南 なつかしいですね。そもそも、『EXテレビ』は私が当時所属していた事務所を通じてのお話だったんですけど、それにしても生CMは尺がわずか1分半だったにもかかわらず、本給とは別で一回につき数十万円出ていましたね。毎週ですから、単純計算で月に4回、かなりの金額になりました。でも、入るお金も大きかったけれど、出ていくお金もハンパなく、全て遊びやオシャレに費やしました。時代の勢いを存分に享受できて幸せでした。
(10月中旬配信予定の第2回につづく)
●南 美希子(Mikiko Minami)
東京都出身
〇77年、聖心女子大3年終了後にテレビ朝日へ入社。以後、『OH!エルくらぶ』、『みどりの窓口』(テレビ朝日)や『EXテレビ』(日本テレビ、読売テレビ)など、様々な名番組の司会を務める。現在も司会者、エッセイスト、TVコメンテーターとして活躍中。東京女学館大学客員教授。近著に『「老けない人」ほどよく喋る-健康長寿のカギは話し方にあった』(ワニブックスPLUS新書)
公式HP:mikikominami.com
公式X(旧Twitter)【@mikikominami】