78年、『スペースインベーダー』に群がる若者たち。1プレイ100円の設定で、喫茶店やゲーム機が置かれたインベーダーハウスと呼ばれる店舗は、どこも連日大盛況だった。78年、『スペースインベーダー』に群がる若者たち。1プレイ100円の設定で、喫茶店やゲーム機が置かれたインベーダーハウスと呼ばれる店舗は、どこも連日大盛況だった。

ブラウン管の向こうでは沢田研二や山口百恵が歌い踊り、〝口裂け女〟の噂で持ちきりだった昭和53年(1978年)。迫りくる重低音と耳をつんざくような発射音に乗って、『スペースインベーダー』が日本全土を席巻。

今なお進化を続ける伝説的シューティングゲームの開発者が明かす当時の製作秘話から、ゲーム界のカリスマが熱狂した本作の魅力まで、余すところなく公開!

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■当初考案されたキャラは全然違った

「当初のキャラクターは、〝宇宙人〟じゃなかったんです。戦車や船、飛行機をデザインしてみたんですよ。でも、動きがなんとなくぎこちない。それで、人間にしてみたんです。兵隊さんに。そしたら、けっこう動きがスムーズになった。

ただ、社内で〝人を撃つとはいかがなものか〟という意見が出ましてね。当時の社長も、そういうのは嫌っていた。戦争を嫌っていたんです。そこで、さぁ、どうするとなったときに、新聞や雑誌の記事でふと目についたのが、あの映画の情報でした」

こう語るのは、西角友宏(にしかど・ともひろ)氏。近代ビデオゲームの父と称され、さまざまなヒット作品を手がけてきた。キャラクターとは、後に、侵略してくる宇宙人を迎撃するシューティングゲームの金字塔『スペースインベーダー』として社会現象を巻き起こすことになる、あの〝インベーダー〟を指す。

『スペースインベーダー』の生みの親の西角友宏氏『スペースインベーダー』の生みの親の西角友宏氏

21世紀の現在でも、その名を聞いただけでパッと思い浮かぶ形のアイデアソースは、1977年に全米公開され、メガヒットを記録した映画『スター・ウォーズ』だった。

「当時、日本ではまだ公開されてなかったんですよ(日本公開は78年6月30日から)。でも、アメリカではすでに記録的なヒットで前評判が高かったから、新聞や雑誌の広告は気になっていて。なので、宇宙人はアリかも、みたいな感じでしたかね」

もうひとつ、アイデアのヒントになったのは、幼い頃に夢中になって読んだH・G・ウェルズの『宇宙戦争』。このSF小説に出てくるタコ型火星人を元に、カニやイカ、タコに近いキャラが生み出されていった。

「西角さんが作った〝インベーダー〟というキャラクターは画期的でした。『スペースインベーダー』が登場するまでビデオゲームの画面に出てくるものといったら、例えば、72年にリリースされた、卓球がモチーフの『PONG』、76年に登場した『ブレイクアウト(以下、ブロックくずし)』などに出てくる〝パドル〟というシンプルな長方形のブロックだけ。そこにあのタコやカニ、イカに近い形のキャラ、UFOですからね。グラフィックを見ただけでも、驚きでしたね」

興奮気味に語ってくれるのは、80年代のファミコンブームを牽引(けんいん)したゲーム界の巨匠、高橋名人。やはり、〝インベーダー〟に熱狂したひとりだ。出会ったのは、10代最後の夏だった。

ゲームプレゼンターおよび実業家の高橋名人ゲームプレゼンターおよび実業家の高橋名人

「19歳、ちょうど地元の札幌のフードセンターに勤めていた頃ですね。その隣にあった喫茶店で見かけたのが最初です。札幌は、昔からファッションでも音楽でも先端をゆく街でして。だから、『スペースインベーダー』も割と早く入ってきていたはずです。

お昼休憩を使って、遊びに行ってましたね。ギャンブル好きの上司からは、〝カネにならないものをやって何が面白いんだ〟って、よくイヤミを言われてました(笑)」

■インベーダーに影響を与えた伝説のゲーム

そもそも、『スペースインベーダー』は、どのような経緯で誕生したのだろうか。西角さんが振り返る。

「きっかけは、『ブロックくずし』ですね。『PONG』と同様にアタリ社(アメリカのビデオゲームメーカー)の製品ですが、本当に面白かった。私は開発の立場にありながら、普段ゲームをほとんどしないほうだったんですけど、『PONG』そして『ブロックくずし』だけは別でした。

特に後者は横浜辺りの遊技場まで足を運んで遊んだ唯一のゲームです。その頃は、ゲームの種類自体が少なく、アメリカから入ってくるゲームがほとんどで、日本製といえばわれわれタイトーぐらいだったんです。

そんな中に、突如現れた。これを超えるゲームを作れないものかと。営業からもハッパをかけられましたね。『キミ、悔しくないのか』と」

『PONG』のゲーム基板をイチから解析、IC(集積回路)をひとつひとつルーペで見て、紙に書き出し、ビデオゲームの原理を独自に学んでいった西角氏は、73年秋に国産初のビデオゲーム『サッカー』を開発、その後もドライブゲームの『スピードレース』(74年)を手がけ、ヒットメーカーとなっていく。

そこに、『ブロックくずし』が登場したことで、次回はマイクロコンピューターを使ったゲームを作るべく、研究に没頭。77年、いよいよ着手することになる。

キャラクターとプログラム、ハードウエア周りを西角氏がすべて担当、サウンドにひとり、筐体(きょうたい)アートワークデザインにひとりなど、それぞれ若手が入り、わずか数名の態勢だった。

「開発当時は、当然ながら〝インベーダー〟なんて名称はなかったので、品番で呼ばれてました。確か、KX-79だったかな。

『ブロックくずし』って、ボールがブロックを消した後に跳ね返ってくるじゃないですか。ボールが向かってくるともいえる。それって、ある意味インタラクティブ=相互的で、対決に見えなくもない。

せっかく、マイクロコンピューターを使うんだったら、敵も頭脳的に計算して攻撃してくる仕組みにしようと考えて、対戦型にしたんです」

78年、タイトーによる後期型・純正アップライト筐体。外装に描かれたロゴに宇宙人、UFO、惑星の表面のイラストが時代をしのばせる。当時、筆者は6歳。背が低いために画面に届かずプレイ不可で、心折れた記憶あり/ナツゲーミュージアム所蔵78年、タイトーによる後期型・純正アップライト筐体。外装に描かれたロゴに宇宙人、UFO、惑星の表面のイラストが時代をしのばせる。当時、筆者は6歳。背が低いために画面に届かずプレイ不可で、心折れた記憶あり/ナツゲーミュージアム所蔵

こちらも78年・タイトー製のカラータイプの純正テーブル型筐体。アップライト筐体と共に、この年の6月に行なわれた発表会にてお披露目となった。コントロールパネルは垂直式。やはりUFOのイラストが施されており、渋いルックス/ナツゲーミュージアム所蔵こちらも78年・タイトー製のカラータイプの純正テーブル型筐体。アップライト筐体と共に、この年の6月に行なわれた発表会にてお披露目となった。コントロールパネルは垂直式。やはりUFOのイラストが施されており、渋いルックス/ナツゲーミュージアム所蔵

〝ゲームオーバー・ルール〟という画期的なルールも編み出した。自機(プレイヤー)が生き残っていても、敵に攻め込まれたら自動的に終了するという仕組みだ。しかし、営業サイドからは猛反発を食らった。

「自機がまだ残っているのに、ゲームオーバーになるとはルール違反、お客さまにとっては大損だ、必ずクレームが入るから撤回しろと。完成間際に言われたんですよね。設定を変えられないことはなかったんですけど、そこは私も折れず(笑)。ここからまた完成が延びますよ、いいんですかと。それで押し切りました」

さらに、『スペースインベーダー』の大きな特徴といえば、〝デッデッデッ......〟と、じわじわ迫りくる低音である。進んでいくと、あおられるようにして、音のテンポが速くなる。一説では、BGMを採用した世界初のゲームともいわれている。

「サウンド基板は、若手の社員に担当させました。私がギターを持っていたので、彼の前で低い音階を一回弾いてみて、とにかく低い音で迫ってくるような感じにしてくれと。

音のスピードが段階的に速くなるのは、画面上のインベーダーの数が少なくなってくると、画角の両サイドが狭まるので、それに合わせて音の間隔も詰まってくるプログラム上の理由からなんです」

まさにアイデアの宝庫。高橋名人も、このゲームを革命的だと絶賛する。

「西角さんは『スペースインベーダー』でマイクロコンピューターを使ってプログラムを作るという発想を最初に実現した人なんです。それまでのゲームといえば、部品を幾重にも組み合わせて作るのが主流でした。

アタリ社は『PONG』の回路を短縮化してパーツを少なくしたことで世界的ヒットにつなげたわけですが、それでもプログラミングという考えはなかった。西角さんのプログラムによって、いろんなキャラクターを簡単に作れて、さまざまな動きを組み合わせられるようになりました。キャパが飛躍的に拡大したんです」

■完成目前にして、まさかの物言いが

いよいよ、6月のプライベートショーでのお披露目が差し迫る中、品番KX-79のネーミングについて社内で激論が交わされた。西角氏は、日本人にとってわかりやすく、流行曲をもじって、名称を考案した。

「私は『スペースモンスター』にしようと。ちょうど、ピンク・レディーの新曲『モンスター』が発表された頃で、ピンク・レディーは大はやりでしたしね。この名前ならすんなり受け入れられるだろうって考えたんです。

でも、海外事業の担当者が、もっとグローバルに通じる名称がいいって、〝インベーダー〟を主張したんです。私はなじみのない語だし、抵抗感が少しあったんですけど、結局、それに決まって。

ただ、参ったのは、完成間近でINVADERに複数形のSをつけてくれと。キャラクターが多数出てくるので、そうじゃないと海外では通じないんだって。

今と違って、エディター機能なんてないですからね。おいそれとはいかない。文字をひとつ増やすだけでもプログラムすべてに影響が出て、バグが発生する可能性もありましたから、綱渡り状態でした」

1年半の間、開発の途中では何度も行き詰まった。部品は国産品がほとんどなく、アメリカの主力メーカー、インテル社のものに頼らざるをえなかった。しかも、すべて超高額。プレッシャーは避けられなかった。上層部からは何度も首を傾(かし)げられた。

「開発の途中、2ヵ月に1回ぐらいのペースで社内試遊みたいな形で営業の人間とかが見に来ていたんです。でも、反応はいまひとつで。正直、あんまり期待もされてなかったんですよ。唯一、開発部門の若手たちは面白がってくれて、これは必ず当たりますよって言ってくれましたね」

いざ、ふたを開けてみれば、手応えはすぐに感じられた。

ごく初期の段階でこんなことがあった。

「リリースから半月たったぐらいのときに、蒲田のゲームセンターからコインが入らないバグが出ているから、なんとかしてくれと。まだほとんど出回ってない初期ロットだったんで、ROMを入れ替えて、なんとか収まったんですけどね。

そこで、店員さんに言われたんです。ものすごくお金が入るので、時々回収しないとクレーム食らっちゃうんです、と。うれしかったですね」

その後はご存じのとおり、一世を風靡した。その年の秋、西角氏がアメリカで開催されていたゲーム関連の展示会を訪れると、『スペースインベーダー』には長蛇の列ができていた。

ブームは1年ほどで収束したが、いまだファンは多い。高橋名人も時折プレイするという。

「今のゲームに比べたら、それは遊びづらさはありますよ。でも、一発ずつ大事に発射する素朴さが良くて。どこかホッとするんですよね」

西角氏に問いをぶつけてみた。もし、現在の技術を引っ提げて、77年に戻れるとしたら、どのように作るかと。

「当時、できなかった技術面でいうと、インベーダーの目を赤く光らせることぐらいですかね。それ以外は特に演出面でいじりたくないです。

CG多用というのもけっこうですが、私としてはどうも疲れてしまいます(笑)。シンプルでいいんじゃないですかね」

●西角友宏(にしかど・ともひろ) 
1944年生まれ、大阪府出身。東京電機大学卒業。『スペースインベーダー』の生みの親であり、今日のゲームデザイナーを確立させた始祖的存在。68年にパシフィック工業(当時のタイトーの子会社)に入社、エレメカの開発を経て、国産ビデオゲーム第1号『サッカー』(73年)を開発。以後、『ウエスタンガン』(75年)、『ルナレスキュー』(79年)など、手がけた作品は多数。現在は、タイトーのアドバイザーを務めている。

●高橋名人(たかはしめいじん) 
1959年生まれ、北海道出身。ゲームプレゼンターおよび実業家。82年、ゲーム会社ハドソン(当時)に入社、営業から開発まで多岐にわたって業務に携わる。85年に第1回全国ファミコンキャラバン大会において、"名人"の称号を確立。ファミコンブームに乗って、テレビやラジオ、映画などに出演。ゲームコントローラーのボタンを1秒間に16回押す秘技・16連射で一躍、時代の寵児となる。
公式X(旧Twitter)【@meijin_16shot】