昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子 昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子
70年代後半、女子アナとしては異例のバラエティー番組進出を果たし、昭和・平成・令和の三時代を駆け抜けてきた名司会者・南美希子。TV界への憧れ、念願の採用、そこから始まった超多忙スケジュール。今の常識では考えられない"昭和ストロングスタイル"のアナウンサー事情を余すところなく語ってもらった!!(第3回は11月中旬に配信予定です)。

【第2回】上司に呼ばれ、同期の古舘伊知郎とともに朝まで地獄のハシゴ酒

――そもそも、南さんがTVの世界に興味を持ったのはどういう理由からですか?

 幼少期に、『魔法のじゅうたん』(61年~63年・NHK)という子ども向けバラエティ番組に夢中になりました。黒柳徹子さんが司会で、「アブラカタブラ!」の呪文とともに、黒柳さんと子どもたちを乗せた"魔法のじゅうたん"が空を飛び、日本各地を飛び回るんですよ。ヘリコプターからの空撮映像と当時最新のクロマキー技術を駆使して合成した画に、TVって夢の玉手箱みたいと感動しました。

やがて思春期を迎えたころは、歌番組が全盛だったのですが、南沙織さんや天地真理さんなど、きらびやかな彼女たちの姿が本当に眩しかった。私もあの光量の中で仕事がしたいと思い始めたんです。

――それこそ、女優もしくは歌手という選択肢は考えなかったのでしょうか?

 いえいえ(笑)。そんな簡単に女優や歌手になれるものではないと分かっていましたし、芸能の道に進む勇気はなかったですね。ただ、高校の同じクラスに、のちに女優となる浅田美代子さんがいたんです。彼女は街でスカウトされて、2年生で中退して芸能界へ進んだのですが、国民的TVドラマ『時間ですよ』(65~90年・TBS)の第3シリーズ(73年)にレギュラーで抜擢、しかも挿入歌『赤い風船』(73年)で歌手デビューも果たして大ブレイクするわけです。私は硬派で勉強漬けだったものですから、彼女には度々ノートを貸してあげていました(笑)。

美代ちゃんを通じて、TVへの興味、憧れがより強くなりましたね。実際、大学時代は『NTV紅白歌のベストテン』(69~81年・日本テレビ)でヤングオペレーターや、『輝く! 日本レコード大賞』(59年~・TBS)の表彰アシスタントとか、TVに携わるアルバイトに明け暮れていました。

――南さんは東京女学館を卒業後、聖心女子大学に進学。3年生修了後にテレビ朝日へ入社されるわけですが、なぜ新卒入社ではなかったんですか?

 大学3年のとき、アナウンサースクールで一緒だった1学年上の友達が願書をもらうためテレビ朝日に行くのについていったんです。私ももらうと、"短大卒も採用可"と書かれていたのを目にして、一計を案じたんです。2年修了した証書を提出すれば、短大卒扱いで受験できるのではないかと。民法キー局で短大卒の女性を採用していたのは、当時テレビ朝日だけでした。不思議な縁を感じます。そして、おおらかな時代でした。テレビ朝日が受理してくれたんです。私の中では、次の年に向けた予行演習だと思って臨んだのですが、あれよあれよという間に役員面接まで進んで、ついに合格しました。学業と両立させようとしましたが、無理でしたね。あまりに多忙になってしまったので。

77年、NETテレビからテレビ朝日へ変わり、その第一期アナウンサーとして9人が入社。その頃の貴重な集合写真。南さん(前列右から2番目)をはじめ、コンビを組むことが多かった古舘伊知郎さん(後列左から4番目)、のちに『朝まで生テレビ』で見事な仕切りを見せる渡辺宜嗣さん(後列左から3番目)など、まさに粒ぞろいだった。 77年、NETテレビからテレビ朝日へ変わり、その第一期アナウンサーとして9人が入社。その頃の貴重な集合写真。南さん(前列右から2番目)をはじめ、コンビを組むことが多かった古舘伊知郎さん(後列左から4番目)、のちに『朝まで生テレビ』で見事な仕切りを見せる渡辺宜嗣さん(後列左から3番目)など、まさに粒ぞろいだった。
――いざ、アナウンサーになってみて、いかがでしたか? TVの世界はとにかく忙しい印象がありますが、昭和時代は今のようにシフトという概念がなく、すごかったのではないかと。

 すさまじかったですね。同期には古舘伊知郎さんや『朝まで生テレビ』(87年~・テレビ朝日)で今も活躍している渡辺宜嗣さんなど、男子5人、女子4人の計9名がいましたが、私の場合は入社1年めから顔出しのレギュラー番組を掛け持ちしていました。早朝番組と歌番組、番宣番組といった具合ですね。

例えば、月曜でしたら朝3時起床、4時前に自宅出発、局入りして7時から生放送に出て。8時半に番組が終わって、そこで朝食をとって仮眠、午後からは関東近郊にロケ。夕方、局に戻って、翌日の進行打合せをして、帰宅は20時ごろ。そこから調べものとかしたら、アッという前に0時近くになってしまいます。そのサイクルが少なくとも週に3回はありました。

――まさに、殺人的スケジュールですね。

 ええ。朝の生番組『おはようテレビ朝日』(81~85年)が終わると、大部屋の仮眠室でメイン司会の大野しげひささん、古舘さん、私の三人で司会の並び順と同じ川の字になって寝ましたね。体が持たないので、時々、局内にある診療所に行って1回1200円のビタミン剤注射を打ってもらっていました。私は10回分1万円というお得なコースを選んで、黄色いビタミン剤液体の入った大きなボトルをキープしていました。で、たまに古舘さんに声をかけて「私がおごるから、一緒に打とうよ」と。

――古舘さんとは同期ということもありますが、けっこう現場が一緒だったりしたんですか?

 実は、古舘さんとは入社前から、共通の知人がいることもあって親しかったんです。NETテレビが77年4月1日よりテレビ朝日に変わったんですが、私たちは"テレ朝第1期アナウンサー"ということで、『誕生 テレビ朝日』という番組に出演させてもらうことになったんです。古舘さんとペアで最後のプレゼントコーナーを担当させてもらいました。一か月前の3月にロケ地として予定されていた横浜の馬車道通りへ一緒に下見に行きました。「いよいよ、デビューだ!」って、張り切って。

あとは上司との呑みも、彼と私が組みで呼ばれることが多かったですね。夕方になると「おい!」の一声で。何軒もハシゴして、朝まで付き合わされるんです(笑)。朝の生番組があろうと、お正月であろうとお構いなしに出動命令がかかって。古舘さんと私は都内の実家通勤組だったものですから、ほかの地方出身の同期と違って、レギュラーの呑み要員でした。

彼は「俺も早く姉さんみたいにいろんな番組に出たい」って、よく言ってました。当時、私は出ずっぱり、彼は実況ばかりでまだまだ顔出しの機会が少なかったものですから、それで私のことを姉さんと呼んでくれていました。また、社屋の屋上で「お互いにフリーになったらもっといろんな番組に出て活躍したいね」って、夢を語り合ってました。

■唯一のストレス解消法は、同期と一緒に六本木のディスコではっちゃけ

――南さんは、バラエティ女子アナの元祖といわれています。どういったきっかけで新しい扉を開いたのでしょう?

 華やかな番組に出て注目を集めたいという夢があったので、入社以来、ずっと毎日上司にバラエティ番組を担当させてくれと直訴していました。ラッキーなことに、早々にチャンスが訪れました。6月にアナウンサー研修が終わり、その直後に『23時ショー』(71~73年、77年~79年)のプロデューサーがアナウンス部にやってきて、女子アナ4人全員を貸してほしいと。要は、月~金曜の番組内でのプレゼントコーナーに新人女子アナを起用するという、当時のTV界において前例のないことでした。いちばん意気込んでいましたので、それをかわれて、私だけ火曜と金曜を担当させてもらいました。しばらくしたら火曜と金曜がやたらと評判がよくて、うれしいことにファンレターも段ボール箱にぎっしりでいくつも届くようになりました。翌年からは私が月~金曜すべて担当することになったんです。そしたら、局内のあちこちの番組プロデューサーから「南を貸してくれ」って。山城新伍さん司会の『笑アップ歌謡大作戦』(78年~82年)やツービート司会の『クイズ!!マガジン'80~'83』(80~83年)、番宣番組の『ミニミニ招待席』など、引きも切らずでした。

――それで、超多忙なスケジュールをこなすようになったわけですね。ただ、当時の局内は現在のような警備体制ではなく、ファンも普通に入ってきてしまったそうですね。

 そうなんです。受付の警備員さんも「南さんにお客様です」と、普通に通してしまって。私がプレゼントを受け取ってくれるまでは帰らないと駄々をこねる人とか、別の人からは相当額が預金されている貯金通帳を差し出されて「結婚して下さい」と言われて驚きました。念のため、上司が代わって対応してくれましたが、さすがに怖かったですね(苦笑)。

80年代、テレビ朝日のサンデープレゼントの枠で放送されていた『輝け! 日本一マジック大賞』では、土居まさる氏(99年逝去)とともに幾度となく司会を務めた。「土居さんは辛口なMCとは裏腹に、プライベートではとても心優しい方でした。牛タンがお好きで、時々連れて行ってもらいました」 80年代、テレビ朝日のサンデープレゼントの枠で放送されていた『輝け! 日本一マジック大賞』では、土居まさる氏(99年逝去)とともに幾度となく司会を務めた。「土居さんは辛口なMCとは裏腹に、プライベートではとても心優しい方でした。牛タンがお好きで、時々連れて行ってもらいました」
――まさにアイドル並みの人気ですね。とはいえ、昭和時代のアナウンサーは衣装やヘアメイクは全て自前だったと聞いています。どう切り盛りされていたんですか?

 まず、ヘアセットは局近くに腕の良い美容室があったので、そこに通っていました。厚生課から月に二枚、福利厚生で全社員にセット券が配られるので、顔出しの少ない男性アナや後輩たちに頼み込んで20枚くらいかき集めてましたね(笑)。メイクは雑誌を見て、ひたすら勉強しながらでした。

衣装は、安月給で買いそろえるなんて不可能でした。運良く知り合いのディレクターを経由して、BIGIグループの創業者の大楠祐二さんを紹介してもらいました。「大楠さんのブランドの大ファンなんです」と熱烈アピールしたら、快く貸し出してくださって。菓子折りを持って、毎週貸し出しと返却に通っていました。今でも心から感謝しています。

――ちなみに、ストレス解消法はどうしていたのでしょうか?

 当時はディスコブームでしたので、たまに同期4~5人ぐらいで六本木交差点近くのツバキハウスといった有名店に繰り出して、とことん踊り明かしていました(笑)。一度に大勢で局を出ようとすると、例の上司に見つかってしまい、そのまま呑みに連行されてしまうので、一人ずつこそこそっと忍び足で出て行って。ちなみに、古舘さんはその頃プロレス中継で地方巡業が多かったから、たまに参加するという感じでした。今みたいに、ストレス解消の選択肢があまりなかったものですから、仲間とディスコで思いっきりはじけるのが唯一の楽しみでした。写真週刊誌もまだなかったですから、気楽でいい時代でしたね。

(11月中旬配信予定の第3回につづく)


●南美希子(Mikiko Minami)
東京都出身 
〇77年、聖心女子大3年修了後にテレビ朝日へ入社。以後、『OH!エルくらぶ』、『みどりの窓口』(テレビ朝日)や『EXテレビ』(日本テレビ、読売テレビ)など、様々な名番組の司会を務める。現在も司会者、エッセイスト、TVコメンテーターとして活躍中。近著に『「老けない人」ほどよく喋る-健康長寿のカギは話し方にあった』(ワニブックスPLUS新書)
公式HP:mikikominami.com
公式X(旧Twitter)【@mikikominami