昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子 昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子
70年代後半、自らバラエティー番組進出を志願、一躍人気アナに。以後、半世紀近くにわたってTV界を駆け抜けてきた名司会者・南美希子。今回は、昭和時代のテレビ朝日を彩った伝説のスターたちとの交流について。彼らの知られざる素顔や立ち振る舞い、吐露した本心をここに明かす!!(第4回は、12月中旬に配信予定です)。

【第3回】"女子アナ"という言葉にやたらと反応していた山城新伍

――77年にテレビ朝日に入社した南さんは、入社1年目から顔出し出演番組を掛け持ち、引きも切らずでしたが、一番最初に芸能人とのコンビでレギュラーとなった番組は何でしたか?

 『笑アップ歌謡大作戦』(78年~82年・テレビ朝日)です。俳優の山城新伍さんの司会のアシスタントを務めさせて頂きました。その頃の山城さんは飛ぶ鳥を落とす勢いで、売れに売れていました。世界はオレ中心で回っているんだと言わんばかりの自信に満ち溢れたオーラを発散させていました。

――本来の俳優業からすそ野を広げて、軽妙なトークを武器に司会者としても引っ張りだこで、冠番組は数知れず。クイズ番組『アイ・アイゲーム』(79年~85年・フジテレビ)での、出題の際に伏字部分を「チョメチョメ」と表現するのは、流行語にもなりました。

 懐かしいですね。「チョメチョメ」はずいぶん流行りましたよね。山城さんは言葉というものに対して、ものすごく感度が鋭い方でした。今でも思い出して笑ってしまうのは、山城さんが当時"女子アナ"というワードがツボにはまったらしく、ことあるごとに「卑猥やなぁ(笑)」とおっしゃっていました。現在では当たり前に定着していますけど、山城さんは別の解釈でとらえていたようです(笑)。

――山城さんらしいエピソードですね。艶福家としても有名でしたが、実際のところは......?

 ええ、非常にモテていたと思います。やはり売れっ子ならではのオーラと独特の色気がありました。山城さんが常々おっしゃっていたのは、「付き合うオンナというのは、新聞のラテ欄(ラジオ・テレビ欄)の一行目に載っている人じゃないとダメだ」と。つまり、主演とかメインの方という意味ですね。アタマを張る人じゃないと付き合う意味がないと豪語されていました。実際、そのクラスの方々とお付き合いされていたんでしょうね。

インタビューに答える山城新伍さん=89年3月(写真:共同) インタビューに答える山城新伍さん=89年3月(写真:共同)

――80年代当時は高額納税者番付のタレント・俳優部門で常連を張っていただけに、さすが言うことが違いますね。

 ええ。山城さんの言葉で忘れられないのは「芸能人をやるからには稼げないとダメだ。収入は毎年同じじゃダメ、右肩上がりでないと。例えば今年1億だったら、来年は最低1億5000万円。できれば倍の2億円っていうぐあいにね」と。私もフリーになってから桁は違ってもこの教えを守ろうと胸に誓ったものです。

ご飯にもずいぶん連れて行って頂きましたが、どこも、私たちヒラの局アナのお給料では到底行けるはずもない超高級店ばかりでした。例えば、六本木のお寿司屋さんではみたことがないような見事なネタや高いお酒がどんどん出てきました。あるいは、フレンチレストランでは年代物の希少なワインをポンポン開けてくださって。それまで、上司に連れ回されて安いお酒しか飲んだことがなかったものですから、衝撃的でした。二人きりというわけではなく、いつもプロデューサーや他のタレントさんが一緒でしたが、勿論全て山城さん持ちでした。

――突っ込んだ質問ですが、口説かれたりとかは?

 不思議にそれはなかったですね。好みでなかったのかもしれません(笑)でも、私のような新人にも驕ることなく気さくに接してくれて、可愛がってくださいました。本当にいい思い出しかありません。フリーになってからも真っ先にご自分の番組のレギュラーに呼んでくださいました。

逆に好き好きアピールがすごかったのは、同番組にレギュラーで出演されていたお笑いトリオ・レッツゴー三匹のメンバー、ジュンさんでした(笑)。本番収録中でも、「ファンなんや~」って、抱きついてきたりして。でも、カラッとされていてご本人はとても可愛らしい方でした。ただ、私のファンからカミソリ入りの手紙が送りつけられたことがあったらしく、以後、抱きつきは控えるようになりましたが。3年ほどこの番組を担当させて頂きましたが、思い出深いですね。

■気配りの達人、渡哲也が宴席で見せた究極のダンディズム

――南さんは、テレビ朝日の番宣番組『ミニミニ招待席』も数多く担当されていましたが、取材で出会った中で、印象に残るスターはどなたでしょうか?

 印象深いのは、天知茂さんですね。若手アナが撮影の合間にお邪魔するわけですから、片手間で「ああ」と、こちらの目も見ないで適当に対応する俳優さんも正直いました。ですが、天知さんは別格でしたね。こちらの質問に対して、一つ一つ丁寧に誠実に答えてくださいました。私の目をしっかり見ながら。その目つきたるや、『非情のライセンス』(73~80年・テレビ朝日)の会田健役、『土曜ワイド劇場・江戸川乱歩美女シリーズ』(77年~94年・テレビ朝日)の明智小五郎役で見せた、正にそのままで妖艶でした。ドキドキしたものです。

もう一人、印象的だったのは田宮二郎さん。『白い巨塔』(78年・フジテレビ)財前五郎役でのクールなイメージが強く、もしかしたら取材も冷たい感じなのかなと勝手に緊張していたんですが、いざふたを開けてみたら、『クイズタイムショック』(69年~86年・テレビ朝日)での司会ぶりと同様にダンディーそのもので優しい方でした。エレベーターに乗る際、「どうぞ」と、あの渋い声で譲ってくださったときは、まるでドラマ『高原へいらっしゃい』(76年・TBS)のワンシーンのようでしたね。レディファーストの精神をお持ちでいらしてさすがだなあと感服しました。

――やはり、昭和のTVや映画で活躍したカリスマは、立ち振る舞いが違いますね。

 ええ、全くそのとおりですね。カリスマといえば、渡哲也さんも忘れられない方です。
私、番宣番組でのインタビューはもちろん、『西部警察』シリーズ(79~84年・テレビ朝日)で何度かレポーター役などで出演させてもらったことがあるんです。

ドラマ「私鉄沿線97分署」の制作発表での渡哲也さん=84年8月(写真:共同) ドラマ「私鉄沿線97分署」の制作発表での渡哲也さん=84年8月(写真:共同)
――南さん、『西部警察』シリーズにも出られていたんですか!? では、石原裕次郎さんや渡哲也さんとは実際に共演も?

 いえいえ(笑)、直接お芝居で共演させていただくなんていう畏れ多いことはありませんでしたが、よく事件発生現場でのリポーターとか登場するじゃないですか。ああいう感じで、出演させて頂いていました。で、ある時、ドラマの出演者や関係者、スタッフの皆さんを集めて、石原プロモーション主催の慰労会が東京プリンスホテルで開かれたんです。そこに、唯一私だけ女性の関係者ということで同席させて頂きました。案内された円卓が、裕次郎さんや渡さんなど、錚々たるメンバーで固められたVIP席だったんです。

それはもう緊張で、食事ものどを通らなかったですね(笑)。震える手でバターを取ろうとしたら、ちょっと遠くにおいてあって......そしたら、渡さんがすっと手を伸ばして取ってくださって、「どうぞ」と。しっかり、私も視界の中に入っていたんですね。女性一人で心細いだろうと気を使って、いろいろ話しかけてくださったのも感激でした。裕次郎さんも、渡さんも、自分よりもまず先に出席者へ気を配っていたお姿が印象的でした。

やはり、昭和の大スターは違いました。皆さんダンディーで心優しい男の中の男ばかりでしたね。

(第4回につづく)


●南 美希子(Mikiko Minami)
東京都出身 
〇77年、聖心女子大3年修了後にテレビ朝日へ入社。以後、『OH!エルくらぶ』、『みどりの窓口』(テレビ朝日)や『EXテレビ』(日本テレビ、読売テレビ)など、様々な名番組の司会を務める。現在も司会者、エッセイスト、TVコメンテーターとして活躍中。近著に『「老けない人」ほどよく喋る-健康長寿のカギは話し方にあった』 
公式HP:mikikominami.com 
公式X(旧Twitter)【@mikikominami