梅宮辰夫(1938~2019)。東映ニューフェイスとしてデビュー後、俳優として数々の映画やドラマに出演。「昭和のスター」として生涯輝き続けた(写真:共同通信)梅宮辰夫(1938~2019)。東映ニューフェイスとしてデビュー後、俳優として数々の映画やドラマに出演。「昭和のスター」として生涯輝き続けた(写真:共同通信)
昭和のTV全盛期、バラエティー番組進出を自ら志願、たちまちお茶の間の人気者に。およそ半世紀近くにわたって活躍し続ける、名司会者・南美希子。今回は、公私ともに"妹分"として可愛がってくれたという、伝説の俳優・梅宮辰夫との秘話を紹介。圧倒的な存在感を放ち続けた大スターの驚くべき素顔とは――。(第5回は、1月中旬に配信予定です)。

■芸能界屈指の食通ならではの超極上"松茸"コネクション

――77年にテレビ朝日へ入社、1年目から引きも切らずTVに出続けられた南さんは仕事を一緒にされたスターは数知れずですが、公私ともに一番仲が良かったという芸能人はどなたですか?

 山城新伍さんは入社の翌年から『笑アップ歌謡大作戦』(78年~82年・テレビ朝日)ご一緒させて頂きまして、とても可愛がっていただいたんですが、その山城さんのご紹介で公私にわたって大変お世話になったのは、梅宮辰夫さんですね。

――最初はどのようなきっかけで?

 『笑アップ歌謡大作戦』はタイトル通り、基本的には歌手しか呼ばないのですが、梅宮さんは山城さんの大の親友ということで、何度もゲストで出演されていました。現場でご挨拶させて頂くにとどまっていたんですが、私が独立して、89年に『男の勘ちがい』(文芸春秋・刊)を著してすぐに、山城さんから本を読んだとご連絡を頂き、冠番組『新伍のおまちどおさま』(85~90年・TBS)に毎週ゲストとして呼んで頂くようになりました。そこで、レギュラーとして出演されていた梅宮さんと再会しました。

この番組は、全て山城さんのブッキングによって出演者を決めていたようです。女性陣は野際陽子さん、吉行和子さん、冨士真奈美さん、岡江久美子さん。男性陣は横山やすしさんに桂ざこばさんとか。華やかでしたね。その時も山城さんと梅宮さんはお互いに「新伍」、「辰っちゃん」と呼び合って、大変仲が良かったですね。

南さんと梅宮さんのふたりが発起人となり盟友・山城新伍さんのお別れ会を開催。故・菅原文太さんや故・松方弘樹さん、和田アキ子さん、徳光和夫さんらが出席したという(写真:南氏提供)南さんと梅宮さんのふたりが発起人となり盟友・山城新伍さんのお別れ会を開催。故・菅原文太さんや故・松方弘樹さん、和田アキ子さん、徳光和夫さんらが出席したという(写真:南氏提供)
――梅宮さんといえば、貫禄があり、映画やドラマでも圧倒的な存在感と切れのあるお芝居でファンを魅了していましたが、その一方で『くいしん坊!万才』の6代目出演者(85年~87年・フジテレビ)として、グルメな一面ものぞかせていましたよね。

 いわずもがな、梅宮さんは芸能界屈指の料理の腕前を持ち、大変な食通でした。ですので、食に関するエピソードは無数にあります。

まず、強烈な記憶として残っているのは『新伍のまちどおさま』での8月の広島からの生中継の時のことです。この番組は生放送だったので、たまに地方からの中継もありました。出演者一同、同じホテルに宿泊したのですが、往年の名司会者・前田武彦さんと私のふたりだけが生放送のある日の午前4時にロビーに集合するよう、梅宮さんから号令がかかりました。なんと、初物のマツタケを広島の青果市場で用意してくれているから、一緒にもらいにいこうと(笑)。

寝過ごしてはいけないと収録本番よりも緊張して、時間ぴったりにロビーに行くと、すでに梅宮さんが待っていらっしゃいました。そして、まだ薄暗いなか市場に着くと地元の農協の方々が総出でお出迎えしてくださっていて、見たこともない大きさの早採れの松茸が桐箱にぎっしり詰まって用意されていました。「新伍の分は確保したけど、他の出演者には内緒だぞ」と。前田さんと顔を見合わせ、ホテルに着くとマツタケの桐箱をスーツケースの奥に隠しました(笑)。

――さすが、グルメ王、しかも懐が深いですね。

 梅宮さんは全国各地に"食のシンジゲート"を持っていらして、その土地の最高級の特産品をあちこちで用意して待っているんです。それは、梅宮さんが有名人である以上に、人間として魅力があり、気取らない方だったからです。

ふと思い出されるのは、淡路島のとある企業から梅宮さんが講演会に呼ばれて、私が聞き手としてお供したときのことです。新幹線での移動中、当時はグリーン車個室があったので、梅宮さんが極上の美味しいウイスキーとおつまみを持参されて、そこでいろいろなお話を伺いながら向かいました。若い頃は相当モテたそうですが、梅宮さんは家庭をこよなく愛するよきパパだと思いました。そして、いざ新幹線を降りて周りが人だかりになっても、サングラスもつけず芸能人ぶるなんてことは一切ありませんでした。どこにいっても、"梅宮辰夫"のままなんです。

■代表作『仁義なき戦い』シリーズさながらの光景が目の前で......。

――南さんが、梅宮さんとの距離がぐっと縮まって、"妹分"として可愛がられたきっかけというのは?

 やはり、講演会の聞き手を務めるようになってからですね。一番最初は、お嬢さんの梅宮アンナさんが当時通っていた高校で父兄を対象にした講演会をやるというので、声をかけられたんです。「僕は話せるコンテンツはいっぱい持っているんだけど、さすがに一時間をひとり語りで持たせられないから、美希ちゃん、よかったら聞き手をやってくれないか?」と。ずいぶんお世話になってますしね、ご飯をご馳走になるだけでいいですと言って、喜んでお引き受けしたわけです。

梅宮さんの料理やグルメについての話題や病気克服のお話に、父兄の方々は大喜びでした。色々なところから呼ばれるようになり、ずいぶんお供しました。こちらとしては一切謝礼なんて受け取るつもりはなかったのですが、毎回終わるたびに封筒を渡されるわけです。私は「いえ、友情出演ですから一切頂きません」と丁重にお断りするのですが、梅宮さんは頑として「いや、絶対に美希ちゃん、これだけはとっておいて」と。帰宅して、おそるおそる中を開けてみると、ピンピンの一万円札が30~50枚入っているんです。もう、恐縮至極です。でも、それが昭和のスターの筋の通し方なんだなと感じました。

――やっぱり、昭和のスターは、セコくないんですね。粋ですよね。

 そうなんです、だから、梅宮さんの場合は同じ男性からの人気も半端じゃなかったですね。東京都内のとある信用金庫から講演会の依頼があった時、やはり聞き手としてご一緒させて頂いたら、会社の正門から正面玄関までびしっとスーツを着た職員全員が両サイドにずらーっと並んで、お出迎え。そのど真ん中を梅宮さんが悠然と歩いていくわけです。職員の梅宮さんを見る目はキラキラしていて。なんだか、映画のワンシーンを見ているようでしたね。私は後ろをちょこちょことくっついていましたが、梅宮さんの迫力とオーラと言ったら。

昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子昭和・平成・令和を駆け抜けてきた名司会者・南美希子
――『仁義なき戦い』のシーンそのまんまですね。たしかに梅宮さんは貫禄もありましたが、どこか気品があり、ダンディーな印象を受けます。

 そのとおりです。梅宮さんはたたき上げではなく、お父様は医者で、病院を営まれていましたから。育ちの良さが感じられ上品なんですよね。梅宮さん自身、若いころに睾丸がんを患い、余命いくばくと宣告されて、その点では苦労されましたが、やがて寛解してからというもの、ご家族に心配をかけまいと健康には人一倍気を遣うようになったそうです。

私も梅宮さんから「いいドクターがいる。そこで定期的にがん検診を受けるといい」と専門のクリニックをご紹介して頂き、35年間通い続けています。食の知識から医者まで、色々教えていただきました。サインは1文字だけ判読できて、あとは読めないくらいがいいと、ファンに差し上げるサインの書き方も梅宮さんから教わりました。

また、とにかくお洒落でしたね。お付きの方が持ってこられる洋服は上から下まで全て海外の超高級ブランドで、靴はやはり有名な海外のブランド品。でいつもピカピカに磨いてあったのが印象的でした。

――梅宮さんは常に順風満帆ではなく、一時期はビジネスで苦労されていたようです。でも、そんなことは微塵も感じさせない、男としての余裕に満ち溢れていますよね。

 ええ、そういう時期もあったようですね。でも、梅宮さんがおっしゃっていたのは、「男を張って生きていくためには、時には意に沿わない仕事を引き受けることもあるんだ」と。とは言うものの、決して卑屈になることなく常にスターのオーラを放ち続け、堂々としていましたね。自分は苦労しても家族や支えてくれる人間には目一杯優しい......梅宮さんはやっぱり昭和のスターの鑑(かがみ)でしたね。

(第5回につづく)


●南 美希子(Mikiko Minami) 

東京都出身 
〇77年、聖心女子大3年修了後にテレビ朝日へ入社。以後、『OH!エルくらぶ』、『みどりの窓口』(テレビ朝日)や『EXテレビ』(日本テレビ、読売テレビ)など、様々な名番組の司会を務める。現在も司会者、エッセイスト、TVコメンテーターとして活躍中。近著に『「老けない人」ほどよく喋る-健康長寿のカギは話し方にあった』 
公式HP:mikikominami.com 
公式X(旧Twitter)【@mikikominami

高橋史門

高橋史門たかはし・しもん

エディター&ライター。1972年、福島県生まれ。日本大学在学中に、『思想の科学』にてコラムを書きはじめる。卒業後、『Boon』(祥伝社)や『relax』、『POPEYE』(マガジンハウス)などでエディター兼スタイリストとして活動。1990年代のヴィンテージブームを手掛ける。2003年より、『週刊プレイボーイ』や『週刊ヤングジャンプ』のグラビア編集、サッカー専門誌のライターに。現在は、編集記者のかたわら、タレントの育成や俳優の仕事も展開中。主な著作に『松井大輔 D-VISIONS』(集英社)、『井関かおりSTYLE BOOK~5年先まで役立つ着まわし~』(エムオンエンタテインメント※企画・プロデュース)などがある。

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