1980年代前半に起きた「漫才ブーム」のど真ん中にいたツービートとビートたけしは絶大なる人気を誇っていた(写真:時事) 1980年代前半に起きた「漫才ブーム」のど真ん中にいたツービートとビートたけしは絶大なる人気を誇っていた(写真:時事)
TV全盛期の昭和50年代にバラエティー番組へ進出、"バラエティ女子アナ"のさきがけとなった、名司会者・南美希子。最終回は自らが深く関わった伝説的番組をプレイバック。そして今のTV界に求めたい番組とは何か、ずばり提言!!

【最終回】ビートたけしから突然言われた、強烈な一言

――77年、テレビ朝日へ入社された南さんにとって、初年度から担当された思い出深い番組とは何ですか?

 国鉄(現・JR)一社提供の情報番組『みどりの窓口』(65年~85年)です。その頃の女性アナウンサーというのは、本当に出番が少なかったんです。天気予報を影ナレで読むですとか、出ても男性司会者のアシスタント的役割がほとんどでした。そんな中で唯一、私たち女子アナにとっては、ピンで出させてもらえる貴重かつ栄誉ある仕事が『みどりの窓口』だったんです。

月~土曜の毎朝6:45~7:00の15分間、各列車の運行情報や空席状況の案内、また放送中に国鉄の職員の方と直接ホットラインでやりとりもしていました。日替わりで、女子アナ数人で回していました。私は水曜担当でしたが、ある日プロデューサーから「君の出ている日だけグンと数字(視聴率)が上がるんだよ」と言われました。あまり視聴率についてはピンとこなかったんですが、そのうち木曜も担当させてもらえるようになりました。

――当時、鉄道少年としては、南さんの爽やかな笑顔を見てドキドキ、通学前の運行情報にハラハラしていました。

 ありがとうございます(笑)。たしかに、昭和の時代は携帯のネットでチェックすることなんてできなかったですからね、この番組の情報を頼りにされていた方が多かったと思います。

また冒頭では、自分で事前に用意したトピックスを話すことになっていたんです。通勤前の朝ということで、当たり障りのない爽やかな話題をお届けしようと考えまして、常に歳時記関係の本を数冊持ち歩いていました。自宅にも、局のロッカーにも置いてましたね。いざ本番となったら、例えば、「今日は冬至です。禊(みそぎ)の風習として、柚子湯があります。私も柚子を買って帰ろうと思います」といった具合に。

――パッと思い出す名称ですとか、印象に残っているエピソードはありますか?

 本数が多くて、自由席も備えた"エル特急"ですね。肌色の車両、懐かしいです。特急名ですと東北本線の"はつかり"、紀勢本線の"くろしお"ですとか。

"この駅あの町"というコーナーで地方ロケも度々ありまして、急勾配である碓氷峠越えの区間、その手前の横川駅(信越本線)でのスイッチバックが思い出されます。それを待つ数分間には峠の釜めしが売られていて、「早く買わなきゃ」と焦ったのもいい思い出です。当時は物珍しさから自宅に陶器の釜を持ち帰って、ご飯を炊くのに使ったりもしました。

今は新幹線であっという間に通過、峠の釜めしも銀座あたりで買える便利な世の中になりましたが、やはり昭和の頃は風情がありました。"懐かしの特急の旅"というテーマで番組を作ったら、結構受けるかもしれませんね。

――そんな南さんは翌78年から『笑アップ歌謡大作戦』をはじめ、様々なバラエティ番組で引っ張りだことなりました。多くのプロデューサーがアナウンス部を訪れ、南さんを指名するなか、名物プロデューサーの皇(すめらぎ)達也さんが『クイズマガジン』(80~83年)の司会に抜擢します。

 最初、皇さんからは80年ごろに放送された久米宏さん司会の特番で声をかけられました。新潟県五泉市からの中継でした。そこから、歌謡バラエティ『アイドルパンチ』(81年~85年)などに軒並み声がかかって、いよいよ『クイズマガジン』に至ったわけです。

ご一緒させて頂いたのは、漫才ブームで一世を風靡したツービートのお二人。とにかくビートきよしさんが生真面目な方で、毎回二本録りする中、合間を縫ってオープニングトークをともに作っていくわけです。その間、ビートたけしさんはなぜだか全く姿を見せないんですよ。まるで夫婦漫才みたいになんとか完成させて、いざ収録を迎えると、そこでたけしさんが「コマネチ!」とポーズをぶつけてきて、全部持っていかれてしまって。一度、たけしさんの前を遮って、私がコマネチポーズをやったこともあります(笑)。

おかげさまでバカウケでした。数字はよかったですね。毎週日曜朝のOAで15%は取れていたはずです。プロデューサー陣がうれしそうな顔をしていたことをよく覚えています。

――ビートたけしさんは若いころからすでに、独特の存在感を放っていたわけですか。

 ええ。非常にシャイな方でしたが、感性は独特でした。ある日突然、現場で「南さんって、いたいけな感じがウケるんだよな」とおっしゃってくれたり。そうかと思えば、共演者の野村義男さんに対して、「よっちゃんの酢づけイカ~」と、駄菓子の名称と野村さんの愛称をかぶらせていじってみたり。天才的でした。

当時はまだたけし軍団が結成される前で、弟子入り志望者が楽屋前をうろうろしていたんです。覚えているのは、放送前に"前説"をやっていたガダルカナルタカさんやそのまんま東さん。東さんとは後年、情報番組で「懐かしいですね」なんて盛り上がりましたね。

■巨大コウモリ料理、黄金のヘビ、川口浩隊長からの特効薬

――そして、いよいよ『水曜スペシャル・川口浩探検シリーズ』(78年~85年)です。南さんが出演されていた数多くのTV番組の中でも、特筆すべき作品かと。

 私がテレビ朝日をやめて、フリーになる直前の84年ごろですかね。メイン特集企画とは別にサブコーナーでちょくちょく出させて頂きました。局での打合せは期待に胸が膨らみましたね。ディレクターからも熱のこもった説明を受け、本当にそんな生物がいるのかと思って、ワクワクしました。

ただ、実際に行ってみると本当に遠いんですよ......。その頃、インドネシアは直行便がなくて、香港、マレーシアのクアラルンプール、そしてジャカルタと乗り継いで。そこからまた国内線に乗って、小さな町に着いて、車に乗って数時間、さらに徒歩でジャングルに分け入るという。とにかく移動が大変でした。

――ナレーター・田中信夫さんの名調子、うまいタイミングでの効果音と劇的なBGM。実際の現場では、強烈な場面に多々出くわしたのではないかと......。

 あります、あります(笑)。まず忘れられないのは、フィリピン・パラワン島での体当たりレポートです。ある村で、大きな鍋が村人たち数人によって運ばれてきたんです。フタを開けてみたら、羽を広げたままの真っ黒で巨大なコウモリの姿煮だったんです。

絶叫しました。コウモリ料理のスープを飲んでみてほしいと事前に伝えられていたんですが、てっきり姿形が全く分からないぐらい細かく刻んで煮込まれたものだと思っていたんです。当然、一口も飲めませんでした。

現在50歳前後の人たちには強烈な記憶となっている伝説の番組『川口浩探検シリーズ』。いまもなおDVDが売れ続けている。 現在50歳前後の人たちには強烈な記憶となっている伝説の番組『川口浩探検シリーズ』。いまもなおDVDが売れ続けている。

――さすが、探検シリーズ。南さんにとっては災難でしたが、絵的にはパーフェクトですよね。インドネシアの方もすごそうですが。

 インドネシアでは"黄金のヘビ"がいるというので、しっかりレポートしてほしいとディレクターから送り出されて、はるばるジャングルの奥地まで駆けつけました。いざ、現場に着くと、ADとディレクターのやりとりが聞こえてきたんです。ヘビを捕まえました!」「よし、スプレーを全身にくまなくかけてくれ。ただし、撮影間際にしろよ。じゃないと、ヘビは皮膚呼吸できなくて死んじゃうからな」。

私はあれ? と思ってディレクターに尋ねたんです。「あの、黄金のヘビというのは......?」、「そんなの、本当にいるわけないだろ!」と。また見るからに貧相なヘビなんですよ(苦笑)。スプレーをかけてしばらくすると、もはや瀕死状態でした。でも、ここはアナウンサーの実力が試される場だと思って、「ご覧ください、密林の奥に光る眼が......」と、真剣な表情でレポートしましたね。

――でも、そのエンタメ性が『探検シリーズ』ならでは、ですよね。ちなみに、川口浩さんはどんな方でしたか?

 非常に紳士的な方でした。穏やかで、優しくて、頼りがいがあって。インドネシアで私が水にあたってしまい、嘔吐と下痢が止まらなくなって、日本から持参した薬が全く効かなくて困っていた時、川口さんが「一度、洗礼を受ければ大丈夫だけど、とにかく水に付随するものは一切口にしたらダメ。これ、飲みなよ」と差し出してくれたのが、現地の薬でした。パッケージにはおなかをおさえた男性のイラストが描かれていまして。常備されていたんですね。さすが、隊長だなって感心しました。

――いよいよ最後になりますが、南さんがこれからのTV番組で"昭和時代の面白かった番組で今、これを作れば面白い! 私、出たい!"というのはなんでしょうか?

 やはり、水曜スペシャル・探検シリーズですね。あと、他局でしたが、ユリ・ゲラーの超能力シリーズのような番組です。まだまだ地球上には我々の知らない生物がたくさん存在しているはずですし、科学では解明できない不思議な力もあるかもしれない。多少の演出はご勘弁頂いて、TVの前で大人も子供もワクワクするような番組。そういうものを見せるのがTVの醍醐味だと思うんです。そして、そういった番組に私ももう一度かかわってみたいと思います。

(了)


●南 美希子(Mikiko Minami)
東京都出身 
〇77年、聖心女子大3年修了後にテレビ朝日へ入社。以後、『OH!エルくらぶ』、『みどりの窓口』(テレビ朝日)や『EXテレビ』(日本テレビ、読売テレビ)など、様々な名番組の司会を務める。現在も司会者、エッセイスト、TVコメンテーターとして活躍中。近著に『「老けない人」ほどよく喋る-健康長寿のカギは話し方にあった』(ワニブックスPLUS新書)  
公式HP:mikikominami.com 
公式X(旧Twitter)【@mikikominami

高橋史門

高橋史門たかはし・しもん

エディター&ライター。1972年、福島県生まれ。日本大学在学中に、『思想の科学』にてコラムを書きはじめる。卒業後、『Boon』(祥伝社)や『relax』、『POPEYE』(マガジンハウス)などでエディター兼スタイリストとして活動。1990年代のヴィンテージブームを手掛ける。2003年より、『週刊プレイボーイ』や『週刊ヤングジャンプ』のグラビア編集、サッカー専門誌のライターに。現在は、編集記者のかたわら、タレントの育成や俳優の仕事も展開中。主な著作に『松井大輔 D-VISIONS』(集英社)、『井関かおりSTYLE BOOK~5年先まで役立つ着まわし~』(エムオンエンタテインメント※企画・プロデュース)などがある。

高橋史門の記事一覧