シティポップのブームで再評価の機運が高まる1980年代の日本のロックやポップス。きらびやかな時代の陰に隠れた、当時のアーティストたちの挑戦、功績を今に語り継ぎたい。そんな思いを共にした音楽評論家、田家秀樹氏とスージー鈴木氏の対談。前編記事で吉田拓郎を「第1回殿堂入り」に選んだふたりが、80年代を語るに欠かせないアーティストたちを掘り下げる(全2回の後編/前編はコチラ)
■知的好奇心に訴えた佐野元春とブルーハーツ
ーー今から振り返って、80年代というのはおふたりにとってどんな時代でしたか?
田家 楽しい時代でしたよ。音楽が自由だったし、いろんなものが出てきたし、新しいものもいっぱいあったし。音楽シーンが面白かったですね。
スージー 僕が思うのはやっぱり「デジタル以前」「コンピュータ以前」っていうのがあって。人間が叩くドラム、人間が弾くギター、当たり前っちゃ当たり前なんですけど、ヒューマンな楽器の演奏が極まった時代という感じがしていて。
僕は中学2年から大学4年までが80年代で、90年代にサラリーマンになって以降、短冊形のCDシングルが主流になって、カラオケボックスで歌われまくって、CMタイアップでドンッていう音楽は正直あんまり好きじゃなかった。今でもやや抵抗があるほど、自分の中では80年代音楽がデフォルトですね。
田家 90年代は広告代理店にいながら、その時代の音楽が好きじゃなかった?
スージー 代理店にいたからこそ、タイアップに対する拒否反応が強いのかもしれないです(苦笑)。田家さんの『80年代音楽ノート』の話に戻すと、80年代に佐野元春が成し遂げたことも、ある意味もっと語られてもいいのかなという感じがしますね。
佐野元春はおしゃれで知的だった。89年、横浜スタジアムで行なわれたコンサートのパンフレットに、当時の「拘禁二法案」を「くそったれな法律」って書いていたりとか、またジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグをしきりに紹介したりとか。佐野元春はどちらかというと編集者みたいな感じがしたんですよね。
田家 編集してましたからね、ラジオのディレクターとして。
スージー 彼から僕たちが得たいろんな情報や影響はまだまだ語られてもいいかなと思うんですね。
田家 音楽に限らずサブカルチャー、カウンターカルチャー、ヒッピーカルチャー、70年代にアンダーグラウンドとされていたものに音楽を介在させながら、日本の若者たちに伝えようとしたっていう面では、佐野さんが最初の伝道師でしょうね。
スージー おっしゃるように映画とか小説とか、クロスカルチャーな部分っていうのは80年代にあって。90年代からそれが途絶えた感じっていうか、音楽産業自体が肥大化したんで、音楽だけ独立しちゃった感じはしますけど。
田家 60年代や70年代にはもっと遥かにアンダーグラウンドだったんですよね。佐野さんのようなメジャーな形で注目されているアーティストが、ギンズバーグらビートニク(第二次大戦後にアメリカで生まれた文学運動・思想)を挙げることで、そういった歴史に光が当たりましたよね。
スージー 昔、ブルーハーツの真島昌利がコンサートで中原中也をプリントしたTシャツを着てたんですよ。僕は当時、中原中也っていう詩人のことも知らなかったから、ブルーハーツの言葉も知的に感じてました。曲を聞いた後に本で勉強したいと思わせてくれた。自分の年齢もあったんでしょうけど、佐野元春やブルーハーツの音楽には知的好奇心に訴えかけるものがありましたね。
田家 スージーさんの自伝的小説『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる』の書名も、ブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」(1988)の歌詞からですよね。
スージー 昔、僕がカラオケで歌っていたのを母親が聞いて、「大阪みたいなもんや」って言ったんですよ。
田家 フレーズだけでも伝わるものはちゃんと伝わるっていう見事な例でしょうね。
スージー 「TRAIN-TRAIN」はヒットしましたけども、おそろしく知的で、今の世の中のことを語っている感じがしますね。
田家 その後の「情熱の薔薇」(1990)のほうがもっと売れてますよね。「TRAIN-TRAIN」と「情熱の薔薇」は、アーティストの一番コアなものと売れているもの、ピュアなものと世の中に広がっているものの違いを象徴していますよね。
■浜田省吾、尾崎豊の「暑苦しさ」
ーー田家さんが80年代を象徴するアーティストを挙げるとすれば誰ですか?
田家 一番たくさんインタビューしたっていう意味では浜田省吾さんかな。
スージー 田家さんが本で紹介している、「メッセージソングで戦争が終わるんですか?」という質問に、浜田省吾が「じゃあ失恋ソングを歌えば去っていった彼女が戻ってくるんですか?」と返したっていう話は最高ですよね。言いも言ったり、浜田省吾!
田家 音楽ってそういうもんでしょっていうね。僕自身の生き方、音楽の聞き方も変えてくれたし、あの人がいなかったらこうなってないっていう意味では浜田さんかな。
スージー 浜田省吾という人は純粋無垢で自由だったんですかね。
田家 あんなに誠実に生きて、誠実に音楽をやっている人は他に思い当たらないかもしれない。みんなそれぞれの誠実さがあるんでしょうけど。
スージー 同感ですね。僕は吉田拓郎と同時に、浜田省吾もちょっと暑苦しくて敬遠してたんですよ。でも、今は大好きになっていて。昨年5月に劇場公開された映画『A PLACE IN THE SUN at 渚園 Summer of 1988』を見てびっくりしましたね。うまい下手とかじゃなくて、あれだけの爆発的な声量で歌いまくってたんだって。よく島津亜矢は「歌怪獣」っていわれますけど、「声怪獣」だと思いました。すごいな、このフィジカルって。
田家 アハハハ。今でも声は変わらないんですよ。
スージー すごいですよね。
田家 スージーさんが敬遠してたのは理由があるわけですよね。あんまり自分で触れられたくないところを触れられたとか、自分の知らないことを見せつけられたとか、自分のイヤな面を歌われてるとか。これは聞きたくないっていう苦しさがあったのかな。
スージー 80年代は、シティポップという言葉はまだなかったけれども、やっぱり洋楽が偉くて、邦楽だったら、はっぴいえんどやナイアガラ方面が偉くて。佐野元春はおしゃれだったからOKだったんですけど、メッセージソングは忌避してて。「浜田省吾を聞いたら負けだ」ぐらいに思ってたんです。
でも僕が今、浜田省吾にこだわる理由というのは、やっぱり問題の本質を見せつけられるっていうか。直視したくなかった環境問題や貧困問題、ジャパンバッシングなどを歌っていたからでしょうね。若い頃は、もっとおしゃれでクリスタルな気分でいたい学生なのにっていう気持ちで抵抗してたと思うんですね。
田家 でしょうね。これ、本に書きましたけど、尾崎豊がデビューしたときに3つの反応があったんですよ。彼は17歳でデビューしたので、同世代の学生の反応は「尾崎くん、私達の思ってることを歌ってくれた」だった。ちょっと上の20代で既に働いている人は「暑苦しくてイヤだ。なに、あのうざったいの」って言ってて。
スージー なにアンプから飛び降りてんねん!って(笑)。
田家 ふふふ。でも、その上の世代の僕らのように学生運動をどこかで引きずってるようなやつは、「こういうの待ってた」って。もうはっきり分かれましたね。スージーさんが浜田省吾を「暑苦しい」と感じたのはそれですよ。こんなに楽しく生きてるのに、なんでこんな面倒くさいやつが出てくんのよ!みたいな感じがしたんじゃないかな。
スージー まさにその通りですね。中島みゆき「ファイト」(1983)はリアルタイムで知らなかったし、聞いていたとしても当時一番嫌いなタイプの曲だったけど、今は一番好きですからね。やっぱり、コレステロール値が200を超えるぐらいにならないとわからない音楽っていうのがあるんですよ(笑)。浜田省吾と中島みゆきは、自分がロックンローラーからコレステローラーになってからわかってきましたね(笑)。
田家 それはいい大人になってるってことですよ(笑)。
スージー 「ファイト」がわかるのはいい大人だと思いますね。自分は若い頃わからなかった。浜田省吾も中島みゆきも、聞く側が年齢を経て、人生経験を重ねたときにわかるようになる。浜田省吾の話をするのは多分、健康にいいと思いますよ。今この瞬間、血糖値とコレステロール値が下がってる(笑)。浜田省吾の話っていうのは、喋ってると幸せになるんですよ。
■「最も功績が無名なアーティスト」
――スージーさんが思う80年代を象徴するアーティストは誰ですか?
スージー ナイアガラ好きだったんで、アルバムで言えば大瀧詠一『A LONG VACATION』(1981)を1位にしたいところですけど、80年代のMVPを挙げるとすると......サザンオールスターズですね。
田家 そうでしょうね。
スージー 80年代を考えるってことは、桑田佳祐という人の10年間をどう捉えるかっていうことですね。80年代初頭、桑田佳祐は吠えまくってましたからね。みんな桑田佳祐の曲は知ってるんだけど、桑田佳祐が成し遂げた功績は語られない。ある意味では、最も有名だけれども、最も功績が無名なアーティストじゃないかと思っていて。
特に日本語の歌詞をどう作るか、とか。田家さんが取り上げた『KAMAKURA』(1985)もしっちゃかめっちゃかなアルバムですけれど、恐ろしいクリエイティビティに溢れた作品だと思います。
技能賞や殊勲賞で言ったら佐野元春。でも今、自分が60歳近くになって80年代を振り返ると、やっぱり中島みゆきと浜田省吾という人は、とにかく後続がいない。中島みゆきの80年代は、「ご乱心の時代」なんていわれてますけど、「うらみ・ます」から始まるんですよね(1980年のアルバム『生きていてもいいですか』の1曲目)。
浜田省吾とはちょっと意味が違うけれども、暗部を剥き出しにして、ドロドロしてた。80年代はバブルでキラキラしてて、シティポップ全盛の時代という捉え方がいかに一面的かっていうのは、浜田省吾と中島みゆきを聞けばわかります。
田家 もうひとりは尾崎豊でしょうね。
スージー おっしゃる通りですね。中島みゆきと浜田省吾に加え、尾崎豊も80年代を象徴するアーティストに入れましょう。こうしてみると80年代はけっこうドロドロですよね(笑)。
田家 そこに佐野元春がいれば、80年代はこうやって始まりましたよっていうひとつの図ができますね。やっぱり、みんな格闘してたわけです。作品が輝いてるだけで、作品に至る過程はみんな拳を握りながら戦っていた。70年代にはやりたくてもできなかったことが、レコーディング機器の進歩があってできるようになった。
80年代はその端境期みたいなものです。できることが増えて時間をかけた結果、レコーディングに何年も要した人もいた。それを楽しんだ人もいるし、苦闘した人もいるし、その結果、いろんな花が咲いたことが80年代の面白さになったっていうことですね。
●田家秀樹 (たけ・ひでき)
1946年、千葉県生まれ。音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、ラジオの音楽番組パーソナリティー。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者になる。文化放送「セイ!ヤング」などの放送作家、「レタス」(サンリオ)などの若者向け雑誌編集長なども経験。放送作家としては、民間放送連盟賞ラジオエンターテインメント部門で最優秀賞(2001年)や優秀賞などを受賞。著書に『風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年』、『オン・ザ・ロード・アゲイン 浜田省吾ツアーの241日』など多数。
●スージー鈴木(すーじー すずき)
1966年、大阪府東大阪市生まれ。音楽評論家。小説家。ラジオDJ。bayfm『9の音粋』月曜DJ。BS12『ザ・カセットテープ・ミュージック』出演。著書に『中森明菜の音楽1982-1991』『桑田佳祐論』『EPICソニーとその時代』『平成Jポップと令和歌謡』『恋するラジオ』『80年代音楽解体新書』『いとしのベースボールミュージック』『イントロの法則80s』『サザンオールスターズ1978-1985』『1984年の歌謡曲』『1979年の歌謡曲』『弱い者らが夕暮れて、さらに弱い者たたきよる~OSAKA MOTHER'S SON 1980~』など多数。
■『80年代音楽ノート』
田家秀樹著/発行:ホーム社 発売:集英社/1870円(税込)