漫画家の猿渡哲也氏と俳優の岩下志麻氏 漫画家の猿渡哲也氏と俳優の岩下志麻氏

漢を描き続ける猿渡哲也が〝永遠の姐御たち〟を直撃!! 彼女にセピア色という言葉は似合わない。今も艶と華にあふれたベールを身に纏う。岩下志麻――。

小津安二郎や五社英雄、そして夫の篠田正浩と多くの映画監督から愛されてきた日本映画界の女王である。稀代の大女優が明かしてくれた、意外な素顔と撮影秘話、密やかな願望とは。

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■熱狂的な阪神ファン。試合も欠かさず観戦

猿渡 僕は女性の方と対談させていただくのが人生初、しかも、岩下さんということで大変緊張しております......。今、住まいが武蔵野市(東京都)なんですが、岩下さんも小学生のときから市内に住んでいらっしゃったと、近所の人たちから聞きまして。

岩下 そうなんですか。私の同級生は今も市内にたくさん住んでいます。同窓会は吉祥寺で開かれるんですよ。

猿渡 同級生でふと思い出したのですが、王貞治さんとは同じ学年だそうで。

岩下 はい、王さんも同じ武蔵野市に住んでいらっしゃいました。違う高校でしたが、吉祥寺駅でよくすれ違っていました。のちに雑誌『明星』などの企画でお会いすることもあり、そのご縁で巨人の試合も見に行っておりました。

猿渡 でも、今は熱心な阪神ファンだそうですね。ヤクルトの名将・野村克也さんが1999年に大不振だった阪神の監督に就任したあたりで、興味を持たれたとか。

岩下 ええ、その頃に阪神に心変わりをいたしました。どのようにチームを再建していくか、すごく気になりまして。

猿渡 昨シーズンは18年ぶりのリーグ優勝。そして38年ぶりの日本一。喜びもひとしおだったのではないかと。

岩下 それはもう、うれしくて、うれしくて。しばらく余韻に浸っておりました。

猿渡 岩下さんの猛虎魂はすごいと聞いております。雨天時の移動用の傘などグッズもすべて〝虎仕様〟だそうで。

岩下 はい、移動車の中に傘は常に積んでおります。最近、友達がタイガースの大きなバッグを送ってくれて、その中に身の回りの物を入れて出かけたりしますね。

猿渡 では、シーズン中の試合中継はもちろん、いろんなニュースも欠かさずチェックされているわけですか。

岩下 もちろんです。お仕事がない日でしたら、18時の試合開始とともに、CS放送をつけて、テレビの前から一歩も動きません。自室あるいは食堂で大声を張り上げて、全力で応援するんですよ、「いけー!」って(笑)。

われを忘れて騒ぐものですから、夫(篠田正浩監督)が何事かと驚いて、書斎から飛び出して様子を見に来たりします。

猿渡 ちなみに今、イチ押しの選手は誰ですか?

岩下 近本光司外野手の活躍には目を見張るものがありますね。でも、ファンとして応援したいのは佐藤輝明内野手です。本塁打か、空振りか(笑)。まさしくホームランバッターですよね。

■夫・篠田正浩監督と決めた独自ルール

猿渡 僕はずっと映画監督に憧れていた映画少年でして。それこそ、昔の映画館の玄関前には、上映中の作品の劇中スチール写真が何枚も張ってあったじゃないですか。それらを見ながら、勝手にストーリーを想像するのが好きだったんです。漫画家になる原点はそこにあったのかなと。

岩下 漫画家さんと映画監督は、どこか共通する部分がありますよね。

猿渡 いやぁ。でも、映画はお金がかかりますでしょう。多くの人たちを動かさないといけませんし。漫画の場合、一人で完結できますからね。もう一つ、映画監督に憧れた理由は岩下さんのような女優さんとあわよくば結婚できるのではないかという、邪な考えもあったんです(笑)。

岩下 いえいえ、私なんか全然ですよ。家庭的ではないから、篠田にとっては悲劇だったと思いますよ(笑)。

猿渡 いやいや。でも、岩下さんはご結婚されるときに、篠田監督から「君は家の中のことは一切やらなくていい」と言われたそうですね。

岩下 ええ。結婚当時、多忙を極めておりまして。それに私は不器用なタイプですので、役を演じている期間は四六時中その役に入ったままでいないと、作品に集中できないものですから、台所に立って気分転換というのができないんです。そういったところを篠田は許してくれたのではないかと。

さらに彼としては、私が仕事も家事もやって疲れたまま現場に行くのは、その作品の監督に対して失礼だと。ですから、家庭は休養の場となったわけです。

猿渡 さすが、映画監督ならではの考え方ですね。でも、毎日の献立は岩下さんがしっかり考えているそうで。

岩下 そうなんです。毎日三食、考えたメニューを前の晩にメモ書きして、張り出しておくんです。それを見て、お手伝いさんが作ってくれるわけですが、これが最近しんどくなってきまして(笑)。

篠田の年齢(92歳)を考えますと、お肉が続くとよくないとか。それとお豆腐が大好きなので、これもバリエーションを都度考えて。昔から料亭とかに行っているものですから、舌が肥えていて、ハードルが高いんです。

猿渡 岩下さんは67年に篠田監督と表現社という独立プロを立ち上げ、一緒に歩んでこられたわけですが、例えば食卓で、製作について話し合ったりしたんでしょうか。

岩下 いえいえ、篠田が一からすべて決めるので、私は一切口出ししませんでした。

猿渡 でも、『鬼畜』(78年・松竹)では緒形拳さんの出演に岩下さんが一役買ったと聞いていますが。

岩下 篠田の演出ではない作品でしたら、確かにそういうケースもありました。ですが、篠田の作品であれば、彼の言いなりです。やはり、映画は監督のものですから。

77年、『はなれ瞽女おりん』の公開に先立ち、記者会見を行なう岩下志麻・篠田正浩監督夫妻。盲目の旅芸人・おりんを全身全霊で演じ切った岩下氏は第1回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した 77年、『はなれ瞽女おりん』の公開に先立ち、記者会見を行なう岩下志麻・篠田正浩監督夫妻。盲目の旅芸人・おりんを全身全霊で演じ切った岩下氏は第1回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した

猿渡 とはいえ、監督と主演のコンビで数々の名作を作られましたよね。『はなれ瞽女おりん』(77年・表現社)を見直しましたが、若い頃は正直ピンとこなかったのに、65歳の今、心に染みます。

岩下 ありがとうございます。あの作品は、全国88ヵ所でロケをしまして。現代的な建造物が映り込まない原風景を探すのに苦労しました。

猿渡 構図というか、カメラワークも古くさくないんですよね。とにかく映像が美しい。

岩下 ええ、撮影を担当された宮川一夫さん(『雨月物語』〈53年・大映〉や『用心棒』〈61年・東宝〉などで知られる名カメラマン)が素晴らしかったですね。

猿渡 目が不自由という設定ですから、役作りも大変だったんじゃないですか。

岩下 実際、瞽女さん3人にお会いしまして。夜8時にお住まいへお伺いしたのですが、室内は真っ暗闇で。皆さん、階段をバババッと駆け下りて、玄関にいた私たちのためにパチッと電気を点けてくださったんです。そのとき、「ああ、目が見えないというのはこういうことなんだ」と。とても参考になりました。

■夢枕に立った小津安二郎の一言

猿渡 60代を迎えて心に染みる岩下さん主演作品では、小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(62年・松竹)も欠かせません。昔の映画はお金と時間と愛情をたっぷり使って、丁寧に作られていますよね。

岩下 ええ、まさしくそうでした。私が着る衣装は、小津先生ご自身が生地からお選びになって、森英恵先生にお願いして作るんです。それと、劇中の料亭に映り込む掛け軸や絵画、器はすべて何百万円もする本物ですので、小道具さんがカギ付きの金庫を使って厳重に保管していました。

猿渡 徹底してますね。

岩下 それはもう。小津先生がローアングルからカメラのレンズを覗いて、掛け軸とかも位置を細かく指示するんです。「鎌倉に2㎝、東京に1㎝」と。鎌倉は南、東京は北という意味です。さらに、先生は赤がお好きだったので、画には必ず入っていましたね。

猿渡 確かに! 味の素のフタ。サッポロビールの赤星印。それと演技はアドリブなど一切禁止だったそうですね。

岩下 一言一句、〝てにをは〟に至るまでセリフを変えることは不可でした。しかも、小津先生は癖やテクニックを嫌い、自然体の芝居を好まれましたので。

私なんかメロドラマをずいぶんやって、感情型の芝居になっていたものですから、「もう一回」と、朝から晩まで延々とテストを繰り返しました。どこが悪いとはおっしゃらないんです。ひたすら、繰り返すのみで。

猿渡 だからですかね、岩下さんが食事される場面が出てこないのは。何度も繰り返していたら、おなかいっぱいになりますよね。

岩下 ああ、確かに私を含めて、女性が食事をする場面はないですね。伴子役の杉村春子さんもそうでしたし。

猿渡 『秋刀魚の味』の公開翌年に小津監督はがんで手術、再入院して、12月12日の(60歳の)誕生日に亡くなられました。何度かお見舞いにも行かれた岩下さんの夢枕に、監督が立たれたそうですね。

岩下 はい。小津先生からは〝志麻ちゃん〟と呼ばれていたのですが、自室で寝ていたときに夢枕にお立ちになられて、「志麻ちゃん、やっと楽になったよ」と。まだ60歳という若さで〝人生が楽になった〟なんて、もしや......と思っていたら、すぐに訃報が入りまして。本当に残念でした。

猿渡 ちなみに岩下さんは第六感が強いとお聞きしました。

岩下 ええ。霊感というんですかね。例えば、ロケの宿泊先で「この部屋、嫌なのよ。掛け軸の裏に、何かあるのよ」とマネジャーに伝えて、掛け軸をめくってみると、刀傷が壁に残っていたり。子供を産んでからはそういった感覚はなくなったんですが、昔は大変でした。

■本物の極道からたびたび挨拶を受けて

猿渡 僕の中で、〝姐さん〟を描くとなると、どうしても顔が岩下さんに寄ってしまうんです。それほど、『極道の妻たち』シリーズでの印象が強いんです。

岩下 もともとは、『鬼龍院花子の生涯』(82年・東映)での歌役が後に『極道の女たち』(86年・東映)へつながっていくわけです。

ただ、最初にオファーを受けたときは男社会の東映撮影所に対して怖いという先入観がありまして。躊躇っていたところ、五社(英雄)監督と六本木でお会いした際に「俺が監督だし、責任持ってやるから大丈夫だ」と。

猿渡 五社監督とはドラマ『やせ犬』(59年・フジテレビ)で初めて仕事をされて、後に映画『獣の剣』(65年・松竹)や『雲霧仁左衛門』(78年・松竹)も含め、けっこう組まれていますよね。

岩下 ええ。『雲霧仁左衛門』で久々にご一緒させていただいて。しばらくして、歌役を当ててくださったんです。「今までの岩下志麻には、粋っぽさと婀娜っぽさがなかった。それを俺が引き出してやる」と。五社監督は正直だし、感情を殺さない方でした。人間的な魅力にあふれていましたね。

猿渡 濡れ場の場面では、ご自身が汗だくになってまず演ってみせたとか。

岩下 はい、革ジャンを着たままで演ってみせるわけです。情熱的でしたね。

猿渡 『極道の妻たち』では、岩下さんご自身もずいぶんアイデアを出されたそうですね。

岩下 ええ。襟をやや抜かしたり、帯も少し低い位置にすることで重心を下に持ってきて貫禄をつけようと。前髪を高くしたり、着物の世界ではNGとされるイヤリングやネックレスもあえて着けてみたり。自分なりに劇画タッチにしたほうがよいと考えて、キャラクターを作ったわけです。

猿渡 その後、岩下さん主演作品は最終作を含めシリーズ計8作。まさに当たり役だし、キャッチーでしたよね。

岩下 あの頃、新幹線に乗りますと、車内で〝本物〟さんによく挨拶されました。「姐さん、どうも!」と。はて、知っている方かなと必死に思い出そうとするのですが、よく見ると違うんです。

すると、隣には私の劇中の髪型とまったく同様の女性の方が座っていらして。私もちょっと姐さんぶって、「おう」と顎でしゃくるように返して(笑)。何度もありましたね。

猿渡 岩下さんは『極妻』シリーズの関西弁をはじめ、さまざまな方言を使った演技をされていますが、最も難しいと感じたのはどの地方ですか?

岩下 やはり、関西でしょうか。『極妻』については、大阪ご出身の方から「あのひどい関西弁はなんだ」と指摘されて、落ち込んだこともあります(苦笑)。地元の方にはかなわないですね。

猿渡 関西弁もいろいろ細かく分かれてますしね。僕は兵庫県の姫路市育ちですけど、今では関東の言葉と交ざってしまって、ぐちゃぐちゃですよ(笑)。

■精神科医になるのが少女時代の夢だった

猿渡 岩下さんのもとには、引きも切らず、映画やドラマの企画が送られてくるそうですが、今後演じてみたい役、出てみたいという作品はどのようなものになりますか?

岩下 ついこの間までは、『サンセット大通り』(50年)でグロリア・スワンソンが演じたノーマ・デズモンド役にずっと憧れていたんです。サイレント映画全盛期に活躍して、その栄光が忘れられない往年の大女優の妄執を描いているんですけどね。

この作品をリメイクしたくて、いろんな脚本家の方にお願いして書いていただいたんですけど、結果的に、私が思っている主人公とは違っていたので、残念ながら形にはならなかったんです。

もう体力的に難しくなってきたこともあるので、これからは脇役でも個性的な役、謎に包まれた女とか、特殊な職業の人間を演じてみたいですね。

猿渡 岩下さんは平凡な主婦というイメージではないですよね。『疑惑』(82年・松竹)の弁護士・佐原律子役も印象的でした。やはりそういった個性的な役のほうが岩下さんの魅力全開という気がします。

岩下 いろいろとお声がけいただくのはありがたいのですが、普通の主婦とかですと、しっくりこないんです。仮にお引き受けしたとしても、現場に通うのがしんどくなると思います。

猿渡 高校時代は、精神科医を目指して勉強に励んでいたそうで。心理サスペンスとかはいかがですか?

岩下 ああ。好きですね。もともと、精神の構造について興味を持って、精神科医を目指していましたしね。今まで、演じる役の精神を分析するのが毎回すごく楽しみだったんです。それはずっと変わらないので、やっぱり一筋縄ではいかない役を演じたいですね。

スタイリング/馬場郁雄〈岩下〉 ヘアメイク/冨永朋子(allure)〈岩下〉 衣装協力/VELLA CO.,LTD. TEL.03-3470-2394

●岩下志麻(いわした・しま) 
昭和16年(1941年)生まれ、東京都出身。高校在学中の昭和33年(58年)にNHKのドラマ『バス通り裏』でデビュー。昭和35年(60年)、成城大学入学と同時に松竹へ入社、看板女優に。昭和42年(67年)、篠田正浩監督と結婚、表現社を設立。映画の出演本数は約130本。2004年に紫綬褒章、12年に旭日小綬章を受章。

●猿渡哲也(さるわたり・てつや) 
昭和33年(1958年)生まれ、福岡県出身。『海の戦士』(週刊少年ジャンプ)でデビュー。格闘漫画『高校鉄拳伝タフ』『TOUGH』『TOUGH 龍を継ぐ男』のシリーズは累計1000万部超を記録している。

高橋史門

高橋史門たかはし・しもん

エディター&ライター。1972年、福島県生まれ。日本大学在学中に、『思想の科学』にてコラムを書きはじめる。卒業後、『Boon』(祥伝社)や『relax』、『POPEYE』(マガジンハウス)などでエディター兼スタイリストとして活動。1990年代のヴィンテージブームを手掛ける。2003年より、『週刊プレイボーイ』や『週刊ヤングジャンプ』のグラビア編集、サッカー専門誌のライターに。現在は、編集記者のかたわら、タレントの育成や俳優の仕事も展開中。主な著作に『松井大輔 D-VISIONS』(集英社)、『井関かおりSTYLE BOOK~5年先まで役立つ着まわし~』(エムオンエンタテインメント※企画・プロデュース)などがある。

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