1979年にアルファレコードより発売されたYMOの『ソリッドステイト・サヴァイバー』 1979年にアルファレコードより発売されたYMOの『ソリッドステイト・サヴァイバー』
アルファレコード創立者にして、音楽家、プロデューサー、村井邦彦氏が最新刊『音楽を信じる We belive in music!』(日本経済新聞社)を上梓した。

本書は村井氏が自らの半生を綴った自叙伝。「翼をください」などの名曲を書き、高校生だった荒井由実を見出し、またシティポップの名曲を数々送り出し、さらにはYMOの世界進出を成功させる。

そんな華々しいキャリアにまつわるエピソードを、それぞれドラマのワンシーンのように、瑞々しくのびのびと執筆。氏に影響を与えたパリの地と著名人との日々、さらには「YMO前史」も書き下ろされ、氏が創立した伝説のレーベルアルファレコード、日本のポップカルチャーの源流を知るうえでも貴重な読み物になっている。

そこで村井邦彦氏にインタビューを敢行。本書の制作にまつわる裏話から、アルファミュージック創立の話や、現在のシティポップブームへ思うところまでを語ってもらった。

* * *


――村井さんの最新刊『音楽を信じる』は、ご自身の半生を綴った自叙伝。ご自身の生い立ちやこれまでのキャリアを辿るとともに、荒井由実、山上路夫、YMO、ハーブ・アルパート、トミー・リピューマなど国内外の錚々たる音楽家たちと過ごした日々が瑞々しく書かれています。

村井 この本は日経新聞に昨年2月に連載された「私の履歴書」に書き下ろしの原稿を加えた本です。とにかく書いていて本当に楽しかったですよ。資料を引っ張り出して、あの人とはどんな話をしたとか、あの時はどこへ行ったとか、昔のことを思い出していました。

もう何十年も前の出来事ばかりだけど、随分と覚えているものなんですよね。自分でも驚きました。

――書き下ろしパートでは、村井さんが長年思いを馳せたパリの思い出や、ご自身が影響を受けたと語る著名人との交流を紹介。音楽家、アルファレコード創立者である村井さんの背景がより伝わってきて、興味深かったです。

村井 僕が初めてパリを訪れたのは1969年。前年に五月危機と呼ばれる学生運動から始まった大きなゼネストがあったんです。街中から若いエネルギーが溢れていた。同じ時期にアメリカでは有名なウッドストックのロックコンサートもありました。そうした時代背景は書き記しておきたかった。

その他、アトランティックレコードの創設者であったアーメット・アーティガンや、戦前、国際連盟で働き、後にNHK会長やフランス大使を務めたアルファの特別顧問・古垣鉄郎さんなど、僕が大好きな先輩たちの思い出も書きました。彼らからは大切なことをたくさん教えていただきました。

――村井さんのアルファレコードが音楽界において革新的でインターナショナルであった原点を見る気がしました。また「YMO前史」なる章も。

村井 YMOはたくさん関連書籍がでているので、ここでは極めて個人的なことだけ書きました。細野(晴臣)くんと僕との間でどんな会話があったとか。表には出てないことばかりだから、読んでもらうと面白いんじゃないかな。

――まさに時代の証言ともいうべき内容がたっぷり詰まったいますが、もともと村井さんが音楽業界に関わったのは、1966年に母校である慶應義塾大学のライトミュージックソサエティの先輩に勧められ、大学卒業後、自らレコード店を始めたのが最初だとか。

『ひこうき雲』荒井由実(ユニバーサルミュージック) 以下、村井さんによるアルファベスト3を紹介! 1枚目は当時、20歳の美大生だった荒井由実(松任谷由美)による瑞々しさあふれるデビューアルバム『ひこうき雲』(1973年)。カラフルな色彩感覚で心象風景を鮮やかに描いたサウンドは、「新感覚派」と呼ばれ、音楽界に大きな衝撃を与えた。バックはキャラメルママが務めている 『ひこうき雲』荒井由実(ユニバーサルミュージック) 以下、村井さんによるアルファベスト3を紹介! 1枚目は当時、20歳の美大生だった荒井由実(松任谷由美)による瑞々しさあふれるデビューアルバム『ひこうき雲』(1973年)。カラフルな色彩感覚で心象風景を鮮やかに描いたサウンドは、「新感覚派」と呼ばれ、音楽界に大きな衝撃を与えた。バックはキャラメルママが務めている
村井 会社に就職しようとはまったく考えなかった。大学のクラスメイトで会社勤めをしなかったのは僕だけだったみたい(笑)。

――時代的にヒッピーカルチャーの影響はありましたか?

村井 少しはありましたが、学生時代から通ってた六本木・キャンティ(1960年代から文化人たちの社交場として知られる伝説的なイタリアンレストラン)に集う音楽家や画家などの先輩芸術家たちの自由な生き方に憧れました。

また、二代目中村吉右衛門という人間国宝になった歌舞伎役者の同級生がいたんですけれど、彼の厳しい修行を見ていて感銘を受けました。

――自由でタフな環境の中にいたからこそ、会社勤めしようとは思わなかったと。余談ですけど、ヒッピーに少し影響を受けたとお話しされましたが、著書にロックの記述はほぼありませんでした。ヒッピーにもロックにもそこまで興味はなかった? それこそビートルズも含め......。

村井 興味がなかったわけじゃないけど、僕が本当に好きな音楽はずっとクラシックとジャズなんです。細野くんとは3歳違いで僕が年上なんだけど、僕はジャズの時代に育ち、細野くんはロックの時代に育ったわけです。しかし細野くんは古いジャズのこともよく知っているので感心しています。

――その後プロの作曲家としてデビューし、「エメラルドの伝説」(テンプターズ/1968年)、「ある日突然」(トワ・エ・モア/1969年)などヒット曲を連発。1969年のパリ行きで、仏・バークレイ・レコードの楽曲の出版権を買い付けし、同年に音楽出版社・アルファミュージックを設立します。

村井 バークレイ社主のエディ・バークレイは、昔レコード屋や酒場のピアノ弾きをやっていた人で作曲家でもあったんです。彼を見て自分もレコード会社をやれるかなと思いました。ちょうど同じ頃ガミさん(作詞家・山上路夫)と、レコード会社からの依頼でなく、自主的に書きたい曲を書くために音楽出版社を設立することを相談していました。

――当時まだ24歳ですよね。出版権を買うなんて若すぎません?

村井 お世話になっていた川添浩史さん(キャンティのオーナー)がエディの友人だったこともあったのだろうけど、エディは僕をしっかり者と思ったんじゃないかな(笑)。

ともかくよくフランスに通いました。フランスの音楽界の人たちと何度も会う中で信頼を得ていきました。僕はその後も、アメリカでキャロル・キングなどの曲も買い付けますが、フットワークはよかったと思います。また僕は作曲家だから音楽好きの連中ともウマが合ったんですよね。


――そこからプロデューサーとしても活動するわけですが、作曲家との両立でストレスは?

村井 まるでなかった。自分の音楽も、自分がいいと思う音楽を売り込むのも同じこと。ミシェル・ルグランのアメリカでの出版権を持っていたのはドン・コスタという編曲家で、当時は音楽ビジネスを手掛ける音楽家がたくさんいたんです。

当時の日本のレコード会社はほとんどが電機メーカーの子会社で、トップは音楽の専門家ではなかった。音楽家のほうがどれがいい音楽かがわかると思います。僕が最初に買った曲には「マイウェイ」がありました。

――世界的名曲を! 日本での契約第1号が荒井由実さんだったというのも、いかに慧眼(けいがん)だったかを証明しています。

村井 ユーミン(荒井由実)とは彼女が高校生の時に知り合って、最初は作家として契約したんです。後にデモテープで歌を聞いていいと思って、1973年にアーティストとしてデビューさせました。

――1977年にはレコード会社・アルファレコードを設立。今度は荒井由実さんのデビューアルバム『ひこうき雲』のバックを手がけた、キャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)の細野晴臣さんとプロデューサー契約を交わします。

村井 細野くんには最初に会った時から才能を感じました。彼とは1970年に川添さんの自宅で出会ったんです。素晴らしいベースプレイヤーです。『ひこうき雲』(1973年)、雪村いづみの『スーパー・ジェネレーション』(1974年)、小坂忠の『HORO』(1975年)とかアルファで制作した作品に多く参加してもらった。アルファレコードの設立にあたり、すぐに契約を申し入れたんです。

――アルファレコードの設立はどんなことを考えましたか?

村井 それまでやっていたのは原盤制作で、やはりレコード会社を作らないと理想的なレコードは作れないと思いました。制作だけでなくマーケティングまで一貫してやることになったんです。

アルファミュージックの頃の日本のポピュラー音楽は、当時の僕から見て欧米の音楽を中途半端に模倣したもののように映っていたんです。オリジナリティがあって、世界的なレベルにある音楽を作り、それを海外でも売りたい。それが目標でした。

――アルファは、マルチトラックのスタジオを日本でいち早く常設するなど常に音楽家の視点が一貫されていました。またしても余談ですが、ちょうど同時期の1975年、吉田拓郎さん、井上陽水さんらがフォーライフレコードを立ち上げます。あちらも音楽家主体のレコード会社でしたが、意識はされませんでしたか?

村井 まったく意識していませんでした。フォーライフの後藤由多加くん(当時、副社長)は当時、「コンサートは集会だ」と言っていましたからね。集会って学生運動のイメージです。そのスタンスからして僕らとはあまりに違っていた。僕たちはあくまで音楽そのものが中心でした。

そもそも自分たちの思うがままにやろうとだけ思っていたので、大手のレコード会社を含めて他社は意識していませんでした。

――だからこそユニークな作品が生まれ続けた。アーティストのラインナップは村井さん自身が関わられていたんですか?

村井 大体はそうですね。アルファの骨格を作ったのは山上路夫さんと僕、そしてユーミンと細野くんだと思います。ユーミンが作った曲をハイ・ファイ・セットが歌ったり、細野くんがYMOを経て「YENレーベル」を作ったり。彼らを中心に広がっていった感じがします。

『イエロー・マジック・オーケストラ』イエロー・マジック・オーケストラ(ソニー・ミュージック)(C)ALFA MUSIC,INC./ Sony Music Labels Inc. 細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏による歴史的グループ・YMOのデビューアルバム(1978年)。シンセサイザーを大胆に使い、当時流行のディスコサウンドをエキゾチックな情緒たっぷりに演奏。翌年には米・ホライゾンレコードからUS版がリリースされた。YMOは『ソリッドステイト・サヴァイバー』(1979年)をリリースし、一躍社会現象に 『イエロー・マジック・オーケストラ』イエロー・マジック・オーケストラ(ソニー・ミュージック)(C)ALFA MUSIC,INC./ Sony Music Labels Inc. 細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏による歴史的グループ・YMOのデビューアルバム(1978年)。シンセサイザーを大胆に使い、当時流行のディスコサウンドをエキゾチックな情緒たっぷりに演奏。翌年には米・ホライゾンレコードからUS版がリリースされた。YMOは『ソリッドステイト・サヴァイバー』(1979年)をリリースし、一躍社会現象に
――当時、アルファとの契約を希望したものの、そこまで至らなかったミュージシャンはたくさんいたと思いますが、どんな方がいらっしゃいましたか?

村井 えーと......、いやぁ、もう忘れちゃったよ(笑)。

――ですよね(笑)。アルファは荒井由実さん、佐藤博さん、細野晴臣さん、吉田美奈子さん、山下達郎さんらの作品をリリースし、日本のシティポップの代表的なレーベルとしても海外でも知られています。現在の世界的なシティポップブームをどう受け止めてらっしゃいますか?

村井 ヨーロッパ、アメリカ、アジアで40~50年も前の日本の曲を多くの人が聞いてくれるのは、それだけ当時の日本の音楽のクオリティが高かったということでしょうね。

日本文化への憧れのようなものもあると思う。僕がユーミンの詞に作曲したハイ・ファイ・セットの「スカイレストラン」など、アルファのいろいろな楽曲のループがJ.コールなどの有名ラッパー達のトラックに使われています。現代のラッパーたちは僕たちが作った音楽に魅力を感じてくれているのだろうと思います。

彼らが惹かれる理由は、アナログ録音への憧憬じゃないかなと僕は思います。弦楽器や管楽器などすべて生の楽器による演奏で、じつにきらびやかです。いまはデジタルの打ち込みが多いので、アナログの生録音が新鮮に聴こえるのではないかなと思います。

――すべてアナログとは、制作費も随分とかかっていそうです。

村井 ものすごかったですよ(笑)。40年前の金額で、一枚作るにあたって1千万円はくだらなかった。3千万かかったものもあります。今は制作費150万なんて話も聞くから、本当にびっくりです。デジタルなら安価に作ることができるから誰でも音楽録音ができる利点はあるのですが。

――村井さんご自身から見て、いまの日本の音楽はどう映っていますか?

村井 いまの音楽はほとんど聴いていないんです。YOASOBIとか名前は知っているけど、それくらい。だからわからないんです(笑)。どこからか流れてくるメロディを聞いて、これはユーミンからの影響かななどと感じることはあるけど。いま聴いているのは、若い頃に好きだったクラシックやジャズばかりです。

――それでは、これからアルファ作品を聞いてみようという若い人などに向け、村井さんが思うベスト3をあげていただけますか?

村井 ベスト3! それは難しいよね。どうだろう。ひとつはやっぱりユーミンの『ひこうき雲』(1973年)。ユーミンのファーストアルバムでバックを務めるキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)との初めての顔合わせとなった作品。とにかく曲も歌も演奏もすべてみずみずしいよね。才能あふれる若者たちの感性が素晴らしい。

2枚目はやっぱりYMO。どれでもいいけど最初のインパクトを思えば、ファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』(1978年)かな。

3枚目は何だろう。赤い鳥もいいし、ハイ・ファイ・セットもいいし......やっぱり難しい(笑)。あ、雪村いづみさんの『スーパー・ジェネレーション』にしよう。

『スーパー・ジェネレーション』雪村いづみ(ソニー・ミュージック)(C)ALFA MUSIC,INC./ Sony Music Labels Inc. かつて三人娘として活躍した雪村いづみのデビュー20周年を記念して制作された一枚(1974年)。作曲家・服部良一の名曲をキャラメル・ママがバックを務め、世代を超えたセッションが実現。昭和モダンのメロディとリズムをロックの感性で奏でた名盤 『スーパー・ジェネレーション』雪村いづみ(ソニー・ミュージック)(C)ALFA MUSIC,INC./ Sony Music Labels Inc. かつて三人娘として活躍した雪村いづみのデビュー20周年を記念して制作された一枚(1974年)。作曲家・服部良一の名曲をキャラメル・ママがバックを務め、世代を超えたセッションが実現。昭和モダンのメロディとリズムをロックの感性で奏でた名盤
――「東京ブギウギ」など、服部良一さんの名曲をキャラメル・ママ(ティン・パン・アレー)をバックに、往年の大歌手である雪村いづみさんがカバーした作品ですよね。

村井 服部さんは1920年代からジャズを演奏し、日本のポピュラー音楽の礎(いしづえ)を作った。その後1950年代にジャズシンガー・雪村いづみさんがデビューして、1960年代に僕のようなものが出て、1970年代に細野くんらが出てきた。細野くんは戦前のアメリカの音楽が好きで服部さんとも通じているところがあるのです。

過去の作品を世代を超えて次の時代へつないでいく。そういう文化の継承性をアルファはすごく大事にしていたんです。その意味で『スーパー・ジェネレーション』は是非とも聴いてほしい一枚ですね。

――ありがとうございます。最後に村井さんの好きな言葉を教えていただけませんか?

村井 「美は力なり」ですね。川添(浩史)さんから教えてもらいました。もとの言葉は17世紀のイギリスの哲学者フランシス・ベーコンがいった「知(識)は力なり」です。「村井くん、優れた芸術作品が人を感動させ、人の心を動かすことが世の中を変える力になりうる」って教えてくれました。

この本のタイトル『音楽を信じる We Believe in music!』は、もとはアルファミュージックの社訓でした。僕たちの力の源泉は美であり、そして音楽。僕自身のモットーでもあり、永遠に変わることがないんですよね。


●村井邦彦(むらい・くにひこ) 
作曲家、プロデューサー。米国ロサンゼルス在住。1945年東京生まれ。慶應義塾大学卒。69年に音楽出版社アルファミュージック、1977年にレコード会社アルファレコードを設立し、赤い鳥、荒井由実、吉田美奈子、イエロー・マジック・オーケストラなどを世に送り出した。代表曲に「翼をください」「虹と雪のバラード」(札幌オリンピックの歌)など。


『音楽を信じる We belive in music!』村井邦彦 
日本経済新聞社刊 
価格/1870円(税込)


『Linda Carriere』 
リンダ・キャリエール 
ソニー・ミュージック 
価格/¥3300(税込) 
2024年7月17日発売 
1977年に細野晴臣とアルファレコードがプロデューサー契約を結び、その第1作として山下達郎、佐藤博、吉田美奈子、矢野顕子らの協力で制作されながらも、お蔵入りになっていたニューオリンズ出身シンガーの幻のデビューアルバム。47年の歳月を経てついにリリース!