矢内裕子やない・ゆうこ
ライター&エディター。出版社で人文書を中心に、書籍編集に携わる。文庫の立ち上げ編集長を経て、独立。現在は人物インタビュー、美術、工芸、文芸、古典芸能を中心に執筆活動をしている。著書に『落語家と楽しむ男着物』(河出書房新社)、萩尾望都氏との共著に『私の少女マンガ講義』(新潮文庫)がある。
写真/©吉原重治
沼る、という言葉がある。それが持つ魅力にどっぷりハマり、抜け出せなくなることだ。『インド沼』(インターナショナル新書)はあまたある「沼」の中でも広くて深いインド沼へ読者を誘(いざな)う。著者の宮崎智絵氏に聞いた。
* * *
――本書では、歴史はもちろん、カースト制、宗教対立など14のトピックを取り上げています。まず、宗教社会学者である宮崎さんがインドにハマったきっかけを教えてください。
宮崎 たまたまテレビで見たガンジス川の光景に驚いたんです。熱心に沐浴する人々を見て、「こんなに強い信仰を持つ人がいるインドとはどんな国なのか行ってみたい」と思うようになりました。
夢がかなったのは1980年代後半、大学生のときです。海外個人研修という自由度の高い制度を使い、バックパッカーとして、インドを旅しました。当時のインドは「世界中を旅した人が最後に来る所」といわれていて、私のように初めての海外滞在がインドなのはとても珍しかった。おかげで先輩バックパッカーの方々には、大変良くしてもらいました。
――実際に旅して、インド沼へさらにハマっていったんですね。
宮崎 ますます興味が湧きました。学部では歴史専攻でしたが、インド研究をするために大学院では社会学へと専攻を変えて、インドの宗教と社会について、研究を始めました。私はヒンディー語圏の聖地バラナシを研究対象にしましたが、カースト制度が比較的残っている南インドを選ぶ人も多いです。
――本では、大ヒットした映画『RRR』とイギリス植民地時代のこと、恋愛と結婚、教育など、さまざまなテーマが映画と関連づけて書かれているので、とても読みやすかったです。
宮崎 宗教人口でいうとヒンドゥー教が79.8%、イスラム教が14.2%、ほかにキリスト教、シク教、仏教などの信者がいて、圧倒的にヒンドゥー教が多いです。インドは14億人を超える大国ですから、イスラム教徒も2億人くらいはいるわけです。
カースト制度があるのはヒンドゥー教で、多少緩くなってきているとはいえ、複雑な階級システムとして、まだ存在しています。カーストの序列に入らない、人口の10~15%を占める不可触民(ダリット)などと呼ばれる人たちが、大学入学や公務員試験で優遇される法律もできました。
場合によっては同じ点数でも高カーストは不合格、低カーストは合格になることもあるので、高カーストからは不満も出ています。
――さらにはヒンドゥー教とイスラム教の対立もある。女性も生きづらそうですが、生理ナプキンをテーマにした映画(『パッドマン』)も作られたり、エネルギーを感じます。
本を読んでいると、自分の足元までインド沼が来ているような気持ちになりました。タイトルも秀逸ですね。
宮崎 『インド沼』のタイトルや構成は編集者のアイデアなんです。本書にぴったりのタイトルで気に入っています。
インドで映画が国民的な娯楽として発展したのは、テレビが高価すぎて普及しなかったからです。経済状況が良くなった頃には誰もがスマートフォンを持つようになったので、今ではサブスクの配信を見ていますよ。
――なるほど! テレビの影響が少なかったので、今でも映画文化が残っているんですね。
宮崎 チケット代も安いんですよ。インドの平均チケット価格は0.81米ドルです。日本だと12.77米ドルですから、かなり違いますよね。映画を見るのが庶民にとって日常的な娯楽だったので、スマホが入ってきても映画産業は続いていて、今でも年間2000本近い映画が製作されています。
――インドは多言語国家といわれますが、映画産業にはどんな影響があるのでしょう。
宮崎 ヒンディー語、タミル語、テルグ語、カンナダ語、ベンガル語など、言語が使われている地域ごとに映画を製作するので、必然的に本数が増えるんです。
例えば日本でインド映画人気に火をつけた『ムトゥ踊るマハラジャ』はタミル語ですし、『RRR』はテルグ語、『きっと、うまくいく』はヒンディー語というように、ひと口にインド映画と言っても、もともとの言語は違います。
インド映画には踊る場面がいくつか入っていますよね。多言語国家ですから、言葉で説明するよりも踊るほうが観客にわかりやすいんです。また、ラブシーンであってもキスは忌避されるので、情熱的に踊ることで愛情を表現できます。そもそもインドの演劇観では踊りも演劇の一部という伝統もあります。
――昨年は『RRR』が世界的に大ヒットして、挿入歌『ナートゥ・ナートゥ』のダンスもはやりました。最近のインド映画には、どんな傾向がありますか。
宮崎 昔のインド映画は、名画へのオマージュというか、欧米のヒット作をモチーフに使っているものもありました。どんなモチーフでもインド映画風になりますから、それはそれで面白かったんですが、最近はオリジナルの作品が増えました。
その一方、ヒンディー語の映画を作るボリウッドが、予算をかけすぎてハリウッドのようになった結果、あまりウケなくなってしまった。最近はタミル語で作られた歴史物の映画がヒットしていますね。モチーフとして神話が出てくる作品は、ずっと人気があります。
――宮崎さんはインドで映画を見るとき、どうやって作品を選ぶんですか。
宮崎 映画館の前で「この映画、面白い?」って、そこにいる人に聞きますね(笑)。ひとりに尋ねると、みんな集まってきて教えてくれます。
インド映画は長いから、3時間かけて見た映画がバッドエンドだったりすると、つらいんですよ。観客に飽きられないように、製作サイドも工夫をしているのはわかるんですが、突然バッドエンドで終わったりすることもあって。
――それは悲しいですね。初心者はどんなふうにインド沼に触れたらいいでしょう。
宮崎 自分の興味と重ねてみたらいいと思います。映画は種類がありますし、食べることが好きなら、最近はいろいろな地方のインド料理のお店があるので、食べ比べてみるとか。
インド演劇には喜怒哀楽、すべての感情が入っていますが、インド映画にも通じる価値観です。庶民の娯楽であるインド映画は、インド社会の今を映していると思います。
●宮崎智絵(みやざき・ちえ)
熊本県出身。宗教社会学者。立正大学文学部史学科卒業。同大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程単位取得満期退学。インドの宗教と社会を中心に研究。二松學舍大学・日本大学理工学部・立正大学非常勤講師、立正大学人文科学研究所研究員。論文に「インドにおける宗教的マイノリティと日本人女性の結婚」(二松學舍大学論集59号)、共著に『支配の政治理論』『平等の哲学入門』(共に社会評論社)などがある
■『インド沼 映画でわかる超大国のリアル』
インターナショナル新書 1034円(税込)
映画の製作本数世界1位を誇る映画大国インド。2022年公開の映画『RRR』の世界的ヒットにより、インド映画の存在はより身近なものになった。本書では、そんなインドを語る上で欠かせない14のテーマについて、『RRR』『ムトゥ踊るマハラジャ』『きっと、うまくいく』など日本でもおなじみのヒット作を含む映画作品40本以上の紹介とともに解説。思想や文化・暮らしなど、超大国インドのリアルを学べる一冊
ライター&エディター。出版社で人文書を中心に、書籍編集に携わる。文庫の立ち上げ編集長を経て、独立。現在は人物インタビュー、美術、工芸、文芸、古典芸能を中心に執筆活動をしている。著書に『落語家と楽しむ男着物』(河出書房新社)、萩尾望都氏との共著に『私の少女マンガ講義』(新潮文庫)がある。
写真/©吉原重治