今年でデビュー27年を迎えた漫画家の小田原ドラゴン先生。そんな巨匠が今年9月より週プレNEWS(集英社)で新連載『堀田エボリューション』を開始! というわけで、小田原先生がどんな道のりを経て、本作品にたどり着いたのかをジックリ語っていきます。
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子供の頃に僕がコミックスを持っていたのは、楳図かずお先生の『まことちゃん』(小学館)。実は僕の愛犬、ちょんぴーの名前はまことちゃんが由来なんです。まことちゃんがペットショップの犬に〝ちょんきー〟と勝手に名前をつけて呼んでいた。それを僕が覚えていたんですよね。楳図先生は小学館の交流会でお見かけしたことがありますが......あまりにも恐れ多くてお声がけできませんでした。もうお会いできないのが非常に残念です。
僕は商業高校を卒業しています。1学年に10クラスありました。今はわかりませんが、当時の商業高校は女子生徒の方が人数は多かったんです。しかし、浮いた話はひとつもありませんでした。何しろ少年時代の僕はひどい人見知りで、人づきあいも苦手。友達もおらず、卒業までに学校の女子と会話したのは2回ほど。堀田エボリューション第2話の9ページ目の最後のコマは、僕のリアルすぎる青春時代がモチーフです。
記憶に残っている高校時代の女子とのエピソードは......クラスにヤクザと付き合っていると噂のヤンキーの女のコがいたんです。僕はいつも宿題を忘れて、先生に怒られていたんですが、その姿を憐れに思ったようで、彼女が宿題を見せてくれたんです。本当にそれぐらいしかないんですよね、エピソードは。人見知りだったので......。
とはいえ、高校時代はバブルど真ん中。大学生カップルがクリスマスを高級ホテルやスキー場で過ごす時代です。ところが僕はというと、商業高校を卒業する直前に就職試験に失敗する体たらく......。学校は就職率が大切ですから、鉄工所の就職試験を受けるよう進めてきたんです。けれど、そこは自分が行きたい世界でも、望む世界でもなかった。何より僕は18歳で自分の人生を決めたくなかったし、とにかく働きたくなかった。なので、鉄工所の話は蹴りました。
1989年――19歳の僕は高卒の無職でした。友達も恋人もおらず、抱えているのは絶望だけ。当時は大学に行く道を選んでこなかった自分の選択を悔やみましたし、同年代の大学生に対するコンプレックスも相当ありました。
一方で、僕は実家でニート生活をしていたんですが、深夜の台所で日清焼そばU.F.O.のお湯を捨てながら、働かずに生きるにはどうすればいいのか。よくそんなことも考えていました。
ある日、僕の目を釘付けにしたのが、はた万次郎さんの漫画『はた万次郎の青春絵日記』(集英社)。そこにはこう書かれていたんです。
「私の場合、この夏は漫画を執筆した3日間を除いて全部夏休み!」
漫画家という職業に対して猛烈な憧れを持ちましたね。ただし、このときは憧れるだけでした。19歳の僕の心を動かしたのは、中古車店の片隅にあったホンダの軽、トゥディだったんですーー。