1888年に麻布に建てられ、1933年に豪徳寺に移築された旧尾崎テオドラ邸。シンプルだが重厚感が漂う、世田谷区の閑静な住宅街にたたずむ青い洋館が、それだ。

2019年、この洋館は老朽化のため取り壊しの危機に瀕していた。この館を救うために立ち上げられたのが、『天才柳沢教授の生活』『不思議な少年』などの作者・山下和美さんら漫画家たちを中心とした「旧尾崎邸保存プロジェクト」(代表:山下和美・笹生那実)だ。

莫大な購入資金、解体時期が迫る中でのプレッシャー......次々起こる苦難に、山下さんたちはSNSを通じてクラウドファンディングを呼びかけ対抗。世田谷区議ら政治家たちも動き、海外メディアでも報道された。両代表がほぼ全財産をつぎ込むこととなったものの、2024年、館はギャラリーとして見事に生まれ変わった。

復活から一年。旧尾崎テオドラ邸の"縁"で生まれた漫画家たちの交流や新たな動きについて山下さんに聞いた。

*  *  *

■大事にしたのは明治の洋館の"イメージ"

――復活までは大変なご苦労があったそうですね。

山下 はい。でも苦労は意外と忘れてしまいました(笑)。散歩で通りかかった青い洋館を「きれいだな」とぼんやり思ったところから始まって、気がつけば壮大な保存プロジェクトに。予定通りに進むことが全くなかったのですが、何か障壁が現れて頓挫しそうになるたびに、新しい人やびっくりするようなアイディアがあらわれて実現に結びついた。ものすごくおもしろかったですね。

華やかな外観とは異なり、白を基調とした穏やかな内装。階段の踊り場にある波打つ窓ガラスは、奇跡的に割れずに残っていた当時のもの 華やかな外観とは異なり、白を基調とした穏やかな内装。階段の踊り場にある波打つ窓ガラスは、奇跡的に割れずに残っていた当時のもの 当時の日本人は身長が低かったためか、ドアノブは低い位置に。多くの場所で改修が必要だったが、当時の趣(おもむき)を残している 当時の日本人は身長が低かったためか、ドアノブは低い位置に。多くの場所で改修が必要だったが、当時の趣(おもむき)を残している
――プロジェクトの経緯は、山下さんのエッセイ漫画『世田谷イチ古い洋館の家主になる』にくわしく描かれていますが、3億円以上の購入費に加えて修繕費も1億円以上と、その莫大な金額におののきつつも、保存プロジェクトを通じてみんなが館に巻き込まれていく熱気を感じました。

山下 この館には不思議な吸引力があるんですよ。なぜか人が集まってくる。私も今は、たまたま館からこの役目をもらっているのかなという感覚があります。何十年後になるかもしれませんが、いずれ誰かが引き継いでくれることを期待しています。

――ギャラリーになるまでにも、プロジェクトチームの間でさまざまな議論があったことも描かれていました。

山下 最初は店子さんを入れることも考えたのですが、部屋ごとにテイストが変わると館の統一性が失われてしまいます。また、ある大企業が1棟丸ごと修繕し、エスニック料理などの事業を展開したいというお話もありました。私は最初いいかなと思ったんですが、スパイスの香りがこの館のイメージと合わないんじゃないかという意見が出てきて。

「旧尾崎邸保存プロジェクト」が始まる数年前、山下先生は伝統的な日本建築である「数寄屋(すきや)」を新築。土地探しの決め手になったのが旧尾崎テオドラ邸だった。詳しくはエッセイマンガ『数寄です!』『続 数寄です!』にて 「旧尾崎邸保存プロジェクト」が始まる数年前、山下先生は伝統的な日本建築である「数寄屋(すきや)」を新築。土地探しの決め手になったのが旧尾崎テオドラ邸だった。詳しくはエッセイマンガ『数寄です!』『続 数寄です!』にて
――そこでイメージを重視するところが......

山下 漫画家ですよね(笑)。お金が厳しいという現実的な感覚と、頭の中にある洋館のイメージは別モノなんです。でも、やっぱり明治の頃の洋館のイメージをきちんと残したい。原点にかえった結果、残ったのが漫画でした。これはもう、私たち漫画家でやるしかないということで、旧尾崎テオドラ邸ではギャラリーと喫茶室を開くことになりました。

■藤田和日郎、田島列島......直感で企画した原画展

――この1年、テオドラ邸のギャラリーでは漫画の作品展を中心にさまざまな展覧会が行なわれました。

山下 漫画家って普段ほかの漫画家に会うことはほぼない。でも館の保存・修繕のためのクラウドファンディングやチャリティオークションなど、高橋留美子さんをはじめびっくりするくらいたくさんの漫画家の方々に協力していただきました。本当に感謝しています。展示も同じで、「この人いいな」と思って相談をすると、みんな「いいよ!」って快く受けてくださるんですよ。

「藤田和日郎 黒博物館シリーズ原画展」(※)は、『モーニング』で連載を読んでいて「ヴィクトリア朝英国を舞台にしたこの漫画の雰囲気は、絶対この館に合う!」とピンときたんです。藤田さんとは面識もないし難しいだろうなと思いながらも編集部を通して相談したら、あっさり「いいですよ」と。

※黒博物館シリーズ 2007から2023年の間に『モーニング』で連載されていた4作品、『黒博物館スプリンガルド』、『黒博物館スプリンガルド異聞マザア・グウス』、『黒博物館ゴースト アンド レディ』、『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』の通称

昨年10月に開催された「藤田和日郎 黒博物館シリーズ原画展」では、原画や考察ノートだけではなく、キャラクターパネルも展示。藤田先生も度々訪れていたようで、その裏には直筆の落書きも。展示が好評だったため、3月に福岡でも開催され、4月にはなんばマルイで開催予定 昨年10月に開催された「藤田和日郎 黒博物館シリーズ原画展」では、原画や考察ノートだけではなく、キャラクターパネルも展示。藤田先生も度々訪れていたようで、その裏には直筆の落書きも。展示が好評だったため、3月に福岡でも開催され、4月にはなんばマルイで開催予定 『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』の主人公のひとり、エルシィのドレスも登場。貴重な展示に訪れたファンも驚いた 『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』の主人公のひとり、エルシィのドレスも登場。貴重な展示に訪れたファンも驚いた
――漫画家の方にしてみると、やはり漫画家が直接企画・運営に携わっている館であることへの信頼感は大きいですよね。

山下 そうなんです! 私がかかわった企画は理屈じゃなく直感で、好きな漫画を取り上げさせていただきました。「田島列島 初原画展 田島列島はイイもの展」も、私がプッシュした展覧会です。田島さんのファンなので。

ただやってみて思ったのは、マンガの展示って毎回すごく難しい。特に田島さんは言葉がおもしろい作風なので、セリフを抜き出してみたりと色々工夫しました。

――田島さんの展示では図録にもかかわられたとか。

山下 忙しすぎて途中あまり参加できなかったんですけど、あがってきた図録を見た時にちょっと違う気がして。本当にギリギリのタイミングで『モーニング』の担当編集者と一緒に全部組み直しました。

絵だけだったところに、マンガを丸ごと1話載せたり、セリフも入れたり。デザイナーさんには無理を言って申し訳なかったのですが。

初の連載作『子供はわかってあげない』では柔らかな画とセリフで人々の心の機微を捉え、大きな衝撃を残した田島列島先生の初原画展を旧尾崎テオドラ邸で開催。ギャラリー前の大きなヴィジュアルにも印象的なセリフが抜粋されていた 初の連載作『子供はわかってあげない』では柔らかな画とセリフで人々の心の機微を捉え、大きな衝撃を残した田島列島先生の初原画展を旧尾崎テオドラ邸で開催。ギャラリー前の大きなヴィジュアルにも印象的なセリフが抜粋されていた ヴィンテージの棚の引き出しにも原画やネームなどが収められていた ヴィンテージの棚の引き出しにも原画やネームなどが収められていた
――そうした部分にも直接クリエイターがかかわる運営ならではのフットワークの良さがありますね。現在、館の復活1周年を記念した「不思議な少年 山下和美展」を開催中です。

山下 『不思議な少年』は私にとってすごく勉強になった作品です。子供の頃読んだマーク・トウェインの短編『不思議な少年』が元ではあるんですけど、魔法のような力を持つ主人公の少年が忘れられなくて。そこから変幻自在な少年が人間たちを見つめていく、というずっと続くシリーズができました。

今回の展示では、『モーニング』『モーニング・ツー』の表紙など、コミックスに収録されていない少年のカラーイラストをわーっと飾っています。皆さんがあまり見たことがない絵がたくさんあるはずです。あと、描き下ろしもちょこちょこと。図録もなかなか出来がいいですよ!

「不思議な少年 山下和美展」では、作品原画だけではなく、各書店に配布するPOPの原画なども展示。もちろん棚の引き出しにも原画が入っているが、1話まるまる展示。物語の続きを読むため、わくわくしながら引き出しを開ける仕掛けになっている 「不思議な少年 山下和美展」では、作品原画だけではなく、各書店に配布するPOPの原画なども展示。もちろん棚の引き出しにも原画が入っているが、1話まるまる展示。物語の続きを読むため、わくわくしながら引き出しを開ける仕掛けになっている 中央は2007年に発行された『モーニング・ツー』2号に掲載された表紙イラスト(W表紙のうちの裏表紙)。イラストはビニールに入っており、その上には印刷のための指示が書き込まれている。印刷のこだわりまで伺える珍しい展示 中央は2007年に発行された『モーニング・ツー』2号に掲載された表紙イラスト(W表紙のうちの裏表紙)。イラストはビニールに入っており、その上には印刷のための指示が書き込まれている。印刷のこだわりまで伺える珍しい展示
■展示続々。館は漫画家たちの新たな交流の場に

――保存プロジェクトには山下さんのほかにも、『静かなるドン』で知られる新田たつおさんと妻の笹生那実さん、『ドラゴン桜』の三田紀房さんら、人気漫画家の方々がさまざまな形で携われています。

山下 役員は定期的に集まって経営企画会議をしています。展覧会の企画もそれぞれがやるので、出版社の垣根もなく色んなジャンルがあっておもしろいですよ。

三田さんは「ながやす巧『愛と誠の世界展』」を企画されたんですが、「もっとたくさんの人に読んでほしい」という熱い想いがあって。私も初めて『愛と誠』を読んでみたら、あまりにおもしろくてすっかりはまっちゃった。

笹生さんには少女漫画家さんたちとの深いつながりがありますし。運営については会社経営の経験がある三田さんにたくさんのことを教えていただきましたね。私は何もわからないから(笑)。

――お客様からの反応はいかがですか?

山下 すごくいい反響をいただいていて、ほっとしています。最初は「続けられるのかな。もしダメになったら自分で住むか」と心配していたんですけど、おかげさまで、まだもう少し続けられそうです。

「不思議な少年 山下和美展」は4月8日(火)まで開催。会場で購入できる図録には、旧尾崎テオドラ邸1周年を記念し、浦沢直樹先生や髙橋ツトム先生などの漫画家のほか、声優の緒方恵美さん、俳優の池田エライザさんなどのインタビューも掲載されている 「不思議な少年 山下和美展」は4月8日(火)まで開催。会場で購入できる図録には、旧尾崎テオドラ邸1周年を記念し、浦沢直樹先生や髙橋ツトム先生などの漫画家のほか、声優の緒方恵美さん、俳優の池田エライザさんなどのインタビューも掲載されている
――今後の予定を教えてください。

山下 「不思議な少年展」の後は、「萩岩睦美 『ポー&リルフィ展』」「東村アキコ かくかくしかじか展 ―漫画と絵画 永遠のリグレット―」を開催します! 皆さんすごく協力してくださって、本当にありがたいです。

――大規模な展示会を行なうような方々の展示がこの小さな美しい洋館で......楽しみです。

山下 大和和紀さんと山岸凉子さんが中心となった「北海道マンガミュージアム構想」(※)にも、東京支部のような形で館を使っていただいているんですよ。北海道出身の漫画家たちが集まって会議を行なったり。

※北海道マンガミュージアム構想 北海道出身のマンガ家たちによる北海道にマンガミュージアムの設立を求めるプロジェクト。少女漫画界の巨匠・大和和紀と山岸凉子が2021年に立ち上げ。

連載を抱え、忙しいなかでもギャラリー運営や展示会に精力的に関わる山下先生 連載を抱え、忙しいなかでもギャラリー運営や展示会に精力的に関わる山下先生
――そうやって漫画家さん同士の交流も新たに生まれているんですね。テオドラ邸からまたさまざまな漫画のプロジェクトが動きだしそうですね。

山下 そうなったらいいですよね。私の夢は館で『ベルサイユのばら』の展示をやること。庭はまだこれから造るところですが、バラの中には「オスカル」とか「アンドレ」という名前の品種があるんですよね。そのバラをわーっと咲かせた館で「ベルばら展」がやりたいです。

実は私のデビューの時の審査員が(『ベルサイユのばら』作者の)池田理代子先生なんです。最初についた担当編集者に「池田先生が推してくれたんだよね」と言われて、「池田先生のおかげで私はマンガ家ができているんだな」とずっとご恩を感じてきました。どなたか、ぜひ池田理代子先生によろしくお伝えください!(笑)

●山下和美(やました・かずみ) 
1980年に『週刊マーガレット』にて漫画家デビューし、少女漫画誌や青年漫画誌にて活躍。88年から連載が始まった『天才 柳沢教授の生活』は2002年にドラマ化。また、20年に完結した『ランド』は第25回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。現在は『モーニング』にて『ツイステッド・シスターズ』を連載中
公式X【@kazumiyamashita】

●旧尾崎テオドラ邸 
住所:東京都世田谷区豪徳寺2-30-16 
開館時間:10:00~18:00 
休館日:木曜(その他展示入替休館あり) 
入館料:オンラインチケット1000円 当日券1500円 
公式HP【https://ozakitheodora.com/】 
公式X【@ozakitei1】 
公式インスタグラム【@ozakitei_theodorashouse】