
矢内裕子やない・ゆうこ
ライター&エディター。出版社で人文書を中心に、書籍編集に携わる。文庫の立ち上げ編集長を経て、独立。現在は人物インタビュー、美術、工芸、文芸、古典芸能を中心に執筆活動をしている。著書に『落語家と楽しむ男着物』(河出書房新社)、萩尾望都氏との共著に『私の少女マンガ講義』(新潮文庫)がある。
写真/©吉原重治
「戦後、メディアがゼロから立ち上がる中で、そのほとんどの初期段階にやなせたかしは関わっています。今だったら天才クリエーターと言われているでしょう」と語る柳瀬博一さん
アンパンマンといえば、やなせたかしの絵本から生まれた、乳幼児に圧倒的な人気を誇るキャラクターだ。病院で大泣きしている子もアンパンマンのぬいぐるみを見せればピタリと泣きやむ。その威力は絶大だ。
3月から始まった、NHK連続テレビ小説『あんぱん』で今田美桜演じるヒロインのモデルになっているのが、やなせたかしの妻・暢夫人。やなせたかしへの注目もあらためて集まっている。
『アンパンマンと日本人』はやなせたかしの生涯を追いながら「アンパンマン」という巨大ビジネスの秘密に迫った一冊だ。
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――『アンパンマンと日本人』ではアンパンマンというキャラクターのユニークさを読み解きながら「稀有なクリエーターとしてのやなせたかし」を明らかにしています。
やなせたかしがなぜアンパンマンという唯一無二のヒーローを生み出すことができたのか、メディア史との関連から考察している点も画期的でした。
柳瀬博一(以下、柳瀬) アンパンマンは乳幼児の認知度がすごいんですよ。私は東京科学大学に勤めているのですが、2024年に「メディア論」を受講した主に1、2年生、273人にアンケートを行なったところ、「アンパンマンの消費者でしたか?」の問いには87.2%がイエスと答えており、その中の82.5%がテレビアニメを見ていました。
小学生男子における『ドラゴンボール』の知名度と同じくらいのすさまじい数字です。今や絵本、玩具、キャラクターがついた食品など、年間で1500億円規模のビジネスになっています。
――ところが50代以上の男性の大半は、そのすごさを知らずにいる。
柳瀬 アンパンマンの絵本が出たのは1973年、爆発的な人気になったのは80年代にテレビアニメが放送されてからです。アンパンマンは平成にヒットしたキャラクターなので、それ以前に子育てをした人は接していないんですね。
映画館でアンパンマンの映画を見るとわかるんですが、上映が始まるまではぐずっている子供たちが、映画が始まり、スクリーンにアンパンマンが登場するとピタリと泣きやみます。
アンパンマンの一挙手一投足にくぎづけで、1時間超の上映時間を「アンパンマン、がんばれ!」と声を上げながら楽しんでいます。乳幼児が飽きないように、きめ細かい工夫をして作られているんです。
――そうした工夫もあって、アンパンマンは子供たちに愛され、今や親子2代のファンもいる存在になりました。
柳瀬 米TitleMax社が発表した2019年までのキャラクタービジネス規模を累計したランキングによれば、アンパンマンは第6位で、その累計市場規模は602億8500万ドルです。発表時(2019年)の1ドルは109円なので、テレビアニメ化されてから30年で6.6兆円を稼いだことになります。
日本のキャラクターでは1位のポケットモンスター(921億2100万ドル)、2位のハローキティ(800億2600万ドル)に続く3番目の規模です。
現時点ではほぼ日本国内でしか展開されていないのに世界6位ですから、すごいポテンシャルを秘めています。これから広く海外でアニメが放送されたら、世界的な人気になるでしょうね。
――柳瀬さんは戦後メディアでのやなせたかしの活躍についても考察しています。
柳瀬 やなせたかしがアンパンマンの絵本を描き始めたのは50代になってからなので、遅咲きのイメージがありますが、実は若い頃から名だたる人たちと仕事をしています。遅咲きどころか〝早すぎた天才〟なんです。
やなせたかしの仕事の根底には戦前、東京高等工芸学校で学んだ「デザイン」。そして戦後、高知新聞の雑誌『月刊高知』で体得した「編集」があると思います。ここで生涯の伴侶となる小松暢にも出会いました。
暢は先に上京し、やなせたかしはあとを追って結婚。1950年代から70年初頭にアンパンマンが登場するまでの20年間、やなせたかしは分野を横断して、さまざまなメディアで活躍します。まず三越の宣伝部では、有名な〝三越の包装紙〟のアートディレクションを手掛けた。
一方で若手漫画家のグループ「独立漫画派」に加わり『まんが入門』を書く。この本が売れたことで、NHKの『まんが学校』に先生役で出演します。共に出ていた立川談志と『まんが学校』を出版。今では当たり前となった〝メディアミックス〟です。
ほかにも手塚治虫のアニメ映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインをはじめ、宮城まり子、永六輔、羽仁進、向田邦子などそうそうたる人たちに「頼まれて」仕事をしています。
広告、宣伝、ラジオ、テレビ、出版、演劇、アニメ――戦後、メディアがゼロから立ち上がる中で、そのほとんどの初期段階にやなせたかしは関わっています。今だったら天才クリエーターと言われているでしょう。
――やなせたかしは経験がない仕事を頼まれて、困惑しても断らないんですよね。
柳瀬 やなせたかしは「頼まれた仕事は断らない」一方で、アンパンマンなど自分が大事にしている仕事は頑固なまでに諦めず、こだわり続けました。やなせたかしのこうした姿勢は、現代を生きる私たちも学ぶべきところがあると思います。
――おなかがすいている人には自分の顔を食べさせ、水に濡れると弱くなり、新しいパンの顔をつければ復活する。アンパンマンのキャラクターは独特です。
柳瀬 やなせたかしは中国での従軍中に飢えに悩まされました。正義は相対的なものですが「食べ物がないと死ぬ」のは絶対的な真実です。自身のつらい経験と少年時代に親しんだ叙情画、それに詩のメルヘン要素が合わさって生まれたのがアンパンマンでした。
非凡なデザイナーだったやなせたかしは、幼児に認識しやすい丸い顔に3頭身でアンパンマンを作りました。キャラクターのネーミングセンスにも優れています。そして何より、幼い頃から次々に家族と死に別れてきた経験から、やなせたかしは普遍的な利他性を得たのではないかと思います。
若い頃から多くの「頼まれ仕事」を引き受けたのも、晩年、無償でご当地キャラクターを作り続けたのも、出会った人の「困り事」を助けたいという気持ちからだったのでしょう。だからこそ通常のブランディングとは真逆でありながら、誰にもまねできない愛されるキャラクターを生み出せたのだと思います。
■柳瀬博一(やなせ・ひろいち)
1964年生まれ、静岡県浜松市出身。東京科学大学教授(メディア論)。慶應義塾大学経済学部卒業後、日経BP社入社。2018年から現職。『国道16号線』(新潮文庫)、『カワセミ都市トーキョー』(平凡社新書)、『上野がすごい』(中央公論新社、滝久雄と共編著)、『「奇跡の自然」の守りかた』(ちくまプリマー新書、岸由二と共著)など著書多数。なお、やなせたかしとは血縁関係はない
■『アンパンマンと日本人』新潮新書 968円(税込)
やなせたかしが生み出した「アンパンマン」。乳幼児に絶大な人気を誇り、本だけでなくアニメ、おもちゃ、食品などの関連グッズと幅広く展開している巨大ビジネスだ。おなかがすいた人に自分の顔を食べさせる不思議なキャラクターはどのように誕生したのか? 愛する人たちとの別れ、過酷な戦争体験、戦後の幅広い仕事ぶりなど、やなせたかしの生涯をたどり、誕生の経緯と人気の秘密を解き明かす
『アンパンマンと日本人』新潮新書 968円(税込)
ライター&エディター。出版社で人文書を中心に、書籍編集に携わる。文庫の立ち上げ編集長を経て、独立。現在は人物インタビュー、美術、工芸、文芸、古典芸能を中心に執筆活動をしている。著書に『落語家と楽しむ男着物』(河出書房新社)、萩尾望都氏との共著に『私の少女マンガ講義』(新潮文庫)がある。
写真/©吉原重治