1997年にパリダカ日本人初優勝を果たした篠塚パジェロ。中身はラリー専用だが、この年から市販車同様のデザインが義務づけられた(写真/アフロ)

今年8月をもって国内販売向けの生産を終了し、37年の歴史に幕を閉じる三菱パジェロ。パリダカ優勝ドライバー、篠塚建次郎氏をお迎えし、週プレが心から哀悼の意を表します!

■国内向けパジェロ、生産終了の理由

えー、このたびは三菱パジェロ様のお別れの会にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。週プレ名物「勝手にクルマ葬儀委員会」でございます。

久々で大変緊張しておりますが、調べましたら前回は2010年! 名物とか言いつつ9年も間が空いてるし、そのときに「国内生産終了」とお見送りしたシビック様は復活しちゃってるし......ですが、まあ、ただの悪ふざけ企画でございます。くれぐれも炎上はご容赦くださいませ。

去る4月24日、三菱家より「現行モデルの国内販売向け『パジェロ』は19年8月をもって生産を終了」との発表がございました。海外向けの生産は続くようですが、パジェロのバカ売れ時代(昭和末期~平成初期のクロカン4WDブーム)やパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)での活躍(1983年~07年の25年間で通算12勝!)を知る世代にとって、パジェロは「ヨンク界のレジェンド」であり、平成初期のスキーブームでは「苗場で一番イバれるクルマ」でした。

当時大学生だった私は関越道を爆走するパジェロに道を開けるのが精いっぱい。いやホント「ひとつの時代が終わった」感がハンパございません(涙)。

まあ、数年前の「次期型パジェロの開発をやめたらしい」との一部報道も当時の三菱家は否定せず、この日が訪れることは覚悟しておりましたが、こうして正式発表されると......やはり込み上げるものが......グスン。

特別仕様車「ファイナルエディション」限定販売! 国内パジェロ最後を飾る特別仕様車は、人気オプションを標準化した700台限定。本体価格453万600円

さて、(国内向け)パジェロがこのタイミングで昇天されるには一応の理由がございます。それは歩行者保護法規の改正でして、パジェロ様は「歩行者頭部保護基準の強化」と「歩行者脚部保護基準の導入」に引っかかります。同基準は13年4月にスタートして、総重量や定員、新型車か継続生産車かで適合期限が細かく分かれておりました。

よって、同じパジェロでもショートモデルは昨年2月に期限を迎えてすでに生産終了。で、今年8月には残るロングモデルも新基準に適合しないと売れなくなるのでございます。

もっとも、今回の改正は車体前部のマイナーチェンジでも対応可能と思われますが、前記のようにパジェロの開発はすでに凍結。しかも昨年の国内販売は月間平均で約60台という少なさ! 「いまさらマイチェンしても」と判断されるのも当然......ううっ(すすり泣き)。

■ジープに代わる四輪駆動車を

......失礼いたしました。あ、ここで弔電(本当は電話コメント)が届きました。差出人は、あの篠塚建次郎様! 篠塚氏といえば、三菱の社員ドライバーとしてパリダカに参戦すること17回、97年には悲願の日本人初優勝を飾り、「世界最強のサラリーマンドライバー」と呼ばれたカリスマです。

「三菱は昔、米ウィリス社と提携してジープを造っていたんです。そんなジープも80年代が近づくとさすがに古くなり、契約も切れそうだというので、それに代わる四輪駆動車を......というのが、パジェロ誕生の契機でした。

最初は予算もなく、開発部門の好き者が集まってコツコツ研究する程度。私は販売促進部の所属でしたがラリーの経験もあるというので、開発チームに時々"走らせてみてよ"と呼ばれたんです。

もちろん正式な業務ではありませんから、適当な名目で出張して愛知県岡崎市のテストコースに行きました(笑)。最初はそんな手弁当の開発だったんです」

そんな初代パジェロはジープの悪路性能と乗用車の快適性を両立した、今で言う「SUV」の元祖というべきもの。パジェロが世界に与えた衝撃は大きく、後に英ランドローバーや独メルセデスベンツですら「自分たちのSUVが売れるのはパジェロが市場開拓したおかげ」と賛辞を贈ったともいわれております。

初代パジェロ(1982-1991)。発売当初は商用登録のみだったが、1983年に乗用車モデルも追加。87年のパリダカ参戦で人気に火がついた。9年間で世界累計60万台以上の大ヒット

「ただ、パジェロも最初はまったく売れませんでした(笑)。何かアピールを......と考えて『アフリカで面白そうなラリーがあるらしい』と見つけたのが、パリダカ参戦の始まりでした。フランスの販売会社(ソノート)に依頼して参戦してみたら、83年の初参戦で11位、翌84年に3位、85年には優勝しちゃった。

当時のライバルがポルシェ(959)だったこともあって、欧州やアフリカでは話題になったみたいですが、外国人ドライバーが優勝しても、当時の日本ではニュースにもならない。やっぱり日本人が出ないと......と僕に話が来ました。

初めての86年は俳優の故夏木陽介さん率いる『チーム夏木』で完走しました。ただ、87年はもう少し速いクルマで走りたい......と、フランスでほこりをかぶっていた前年のワークスカーを直して乗ることにしました。

当時はバブル真っただ中で『日本人が知らない世界のメジャースポーツ』として、ツールドフランス(自転車)やアメリカズカップ(ヨット)と並んで、パリダカをNHKが取り上げました。約20日間のラリーの経過をニュースで取り上げてくれて、毎日のように『パリダカ、パジェロ、篠塚』とテレビで流れました。

この年は3位でしたが、これをきっかけに日本全国で『パジェロ=砂漠を走るクルマ』と認知してもらえたんでしょう。その年の夏くらいからパジェロの販売台数がいきなり1桁増えちゃった(笑)。

月間数百台から一気に数千台になりました。当時の舘(たて)(豊夫)社長も『これはパリダカ効果だ』と認めてくれました。モータースポーツがクルマ販売に直結すると日本の自動車会社が理解したほぼ初めての例だと思います」(篠塚氏)

2代目パジェロ(1991-1999)。コンセプトは初代の正常進化ながら、バブル景気を背景に内外装は完全な高級車に。写真の最上級グレード「スーパーエクシード」に当時の若者は憧れた

■パジェロは自分の息子みたいなもの

......本当にエエ話でございます(号泣)。これを機に日本にはクロカン4WDブームが到来。当時はパジェロを頂点に、トヨタのランドクルーザーやハイラックスサーフ、日産テラノ、いすゞビッグホーンなどが「最強モテグルマ」でしたねえ(遠い目)。

その後も篠塚氏は毎年パリダカに参戦しますが、すぐに勝てるほど甘くはありません。悲願の初優勝は前記のように97年まで持ち越したのです。「パリダカに参戦してから12年、48歳での優勝でしたから本当にホッとしました」(篠塚氏)

その後のパジェロはさらに強くなり、01年から07年にかけては、篠塚氏の後輩である増岡浩選手の2連勝も含めて7連覇を達成します。グエエ(嗚咽[おえつ])。

「当時のパジェロは自分の息子みたいなもので、パリダカで活躍したり、ファンの皆さんに乗っていただくと息子が褒められているようでうれしかったです。三菱時代はずっと自分でもパジェロを買って乗っていました。街中では女性の方にも楽に運転できる乗り物なのに、本気になればサハラ砂漠も越えられる二面性が魅力だったんだと思います」(篠塚氏)

おおお、やっぱりシノケン(敬称略)はカッケー! もう涙がチョチョ切れるほどステキな弔電(本当は電話コメント)でございますぅ! それでは皆様、合掌! チーン。

3代目パジェロ(1999-2006)。3代目はビルトインフレームや四輪独立サスペンションなど、パリダカで培われたハイテクが特徴だった。曲線基調のデザインもスポーティなイメージ4代目パジェロ(2006-2019)。発売当時もパリダカで勝ち続けていたが、三菱本体は経営不振。基本メカを先代から受け継ぐ手堅いクルマだった。写真のショートはひと足先に昨年終了