歴代の「フェアレディZ」(中央)初代・S30、(奥左から)2代目・S130、3代目・Z31、4代目・Z32、5代目・Z33

長年外国車かぶれだったものの、年を重ねるほどに日本車びいきになっていくのを自覚する自動車ジャーナリスト・塩見サトシが、共に今年50周年を迎えたフェアレディZとスカイラインGT-Rの足跡と将来像を語る。

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■なぜZとGT-Rは愛され続けるのか

1998年、米国の自動車殿堂に日本人が選ばれた。その人物は日産社員として1960年に渡米し、よちよち歩きだった日産車を北米で販売する素地をつくった。彼の名はミスターKこと片山豊氏。

渡米して10年後の70年、自ら企画に一枚噛(か)んだ初代フェアレディZが西海岸に上陸した際、そのカッコよさからヒットを確信。事実Zはアメリカ人に「Z(ズィー)カー」と呼ばれ人気を集めた。

当時アメリカ人にとって代表的スポーツカーといえば、MGやポルシェ911あたりだ。このうちZは安価なMGを駆逐し、高価な911の性能に迫り、プアマンズ911と称された。

以来Zは北米でイメージブースターとして日産ブランドを牽引(けんいん)、80年代以降の貿易摩擦を生むほどの日本車躍進をお膳立てした。そんな"Zの父"というのが片山氏の殿堂入りの理由だ。

歴代の「スカイラインGT-R」(中央)初代・KPGC10、(奥左から)2代目・KPGC110、3代目・BNR32、4代目・BCNR33、5代目・BNR34

一方、スカイラインは日産が生み出したクルマではなく、66年に吸収合併したプリンス自動車のスポーティセダンだった。68年に日産車となって初のモデルチェンジで登場したのが3代目スカイライン、通称ハコスカだ。

翌年、ハコスカにレーシングカー(R380)用の2リットル直6DOHCエンジンを搭載し、リアトレッドを拡大して動力性能を大幅に高めたGT-Rが登場した。ここに現代に続くGT-Rヒストリーが始まる。

フェアレディZとスカイラインGT-Rが50年の長きにわたって日本人に愛されてきたのは、どちらも日本人のプライドをびんびんにくすぐってくれる存在であり続けたからにほかならない。いわば自動車界の野茂とイチローだ。

フェアレディZは日本人が北米市場のために企画して大ヒットさせ、日本車の世界進出の象徴的な存在となった。 

スカイラインGT-Rはその先祖であるスカイラインGT-Bが自国日本(のレース)でポルシェに負けた悔しさをきっかけに開発され、また功罪相半ばするカルロス・ゴーン氏が復活させた現行のGT-Rはポルシェ911ターボをはじめとする欧州のスーパースポーツを本気で慌てさせた。

ZもGT-Rも戦後日本車史の節目節目で日本人に自信を与えてくれた、日産のというより日本の宝なのだ。今後も一時的な空白はあるかもしれないが、日産自体がなくならない限りなくなることはないだろう。

否、日産がなくなったとしても日産を買収したメーカーがその名を使うだろうから永遠になくならないはずだ。

ただしそこは、クーデター体質の日産(北米日産を揺るぎないものにした片山氏も当時の経営陣に疎まれ放逐された)。現在もルノーとゴタゴタの真っ最中で、中長期的な商品企画に対する不安が拭えないのは確かである。

日産に代わって私が勝手に考えるとすれば、この先の自動車が避けて通れない「電動化」と「自動化」において、日本発であらためて世界を驚かせてほしい。それこそテスラが泣いて逃げるような電動GT-Rでもよいし、プロパイロット3.0を搭載し、ステアリングのないフェフレディZでもよい。

ZとGT-Rには、常に日本人を鼓舞し、自信を与えてくれる存在であってほしい。

●塩見サトシ 
1972年生まれ、岡山県出身。関西学院大学文学部卒業。1995年に山陽新聞社入社。『ベストカー』編集部を経て、04年に二玄社『NAVI』編集部に入社。09年『NAVI』編集長に就任。11年に独立。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。公式Twitter【@Satoshi_Bagnole】