現在、国内の二輪市場は若者離れが響いて過去最低に縮小している。販売台数は最盛期の10分の1に激減。なぜ「熱狂」は失われたのか? もう二度とオートバイ文化の復興はないのか? 全4回の連載で、その糸口に迫る。
第1回は日本で二輪はどのように生まれ、成長したのか? ジャーナリストの佐川健太郎が振り返る!
■1982年に迎えたオートバイ最盛期
バイクはかつて若者のシンボルだった。自分が青春時代を送った1970~1980年代の男子が熱中していたのは、「女子」と「バンド」と「バイク」。バイクはJKを振り向かせるためのビンビンのガジェットであった。ところが、若者のバイク離れといわれて久しい昨今、バイク業界にかつての勢いはない。
自分が10代最後の年を迎えようとしていた1982年は日本のバイクブームが頂点を極めた年だ。年間出荷台数329万台は、2018年の33万台に対し実に10倍である。街中にはバイクがあふれていたし、繁華街の道端にはバイクを囲んで談笑する若者たちが必ずいた。
しかしながらブームが過熱した結果、交通事故増加や暴走族などが大きな社会問題となり、「三ない運動」(*)へとつながっていく。"バイクは危険で悪いもの"というネガティブな印象操作が行なわれてしまったことも響いた。
(*)高校生を対象にバイクの「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」の3つを指針とした運動
90年代以降はテレビゲームやスマホなどのITガジェットに若者の関心が移り、さらに排ガス・騒音などの規制強化も影響してバイクは牙を抜かれ、衰退していった。
とはいえ、今でも世界の4大メーカーを擁し、世界のメジャーレースで勝ちまくり、世界のマーケットで最も売れているのは日本のバイクだ。この不可思議なねじれ現象がなぜ起こったのか。熱狂は取り戻せるのか。戦後のバイク史を振り返りながら、バイク文化復興へ向けての糸口を探ってみたい。
■累計1億台突破。「カブ」の原点
戦前まで時代をさかのぼる。開国以来、欧米列強に追いつき追い越せで先進国の仲間入りを目指していた日本で生まれた国産大型バイク第1号は、なんとハーレーだった。というと混乱するだろうが、実は戦前の三共(現在の第一三共)が「陸王」というブランド名でハーレーを国内でライセンス生産していたのは有名な話だ。
そんな憧れの国から一転して敵国になってしまったアメリカに、戦争で敗れた日本。工業地帯を狙った空襲によって焼け野原となった浜松にひとりの男が立ち上がった。ホンダ創業者の本田宗一郎である。1952年、まだ貧しかった日本で、「庶民に生活の足を!」という彼の思いから生まれたのがホンダ「カブ」である。
原型は軍払い下げの無線機用エンジンと湯たんぽを改造した燃料タンクを自転車に取りつけた、およそバイクと呼べるような代物ではなかったが、生活必需品として爆発的大ヒット。その後のホンダを世界一のバイクメーカーへと成長させる原動力となった。
ちなみに、その末裔(まつえい)となる「スーパーカブ」が17年に世界生産累計台数1億台を達成したのは記憶に新しいところだ。
そして1955年以降、群雄割拠だった国内二輪メーカーも淘汰(とうた)され、現在のホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4強に収斂(しゅうれん)されていく。そのなかで純国産初の大型バイクとして1966年に登場したのが、カワサキ「W1」。
川崎重工はもともと大戦中の傑作戦闘機として知られる「飛燕(ひえん)」を設計するなど卓越した技術力を持つメーカーだ。当時、英国車を手本にバイクを造っていたメグロを買収し、その弱点を徹底的に改良。
空冷並列2気筒624㏄まで大排気量化したW1は主に北米向けモデルだったが、世界最速の171キロを達成して英国車全盛だった米国でヤンキーの度肝を抜いた。
最近、W1の初期型に試乗する機会があったが、現在とは逆の右シフトに左ブレーキ、重い車体にまったく利かないドラムブレーキで、よくぞコレで世界に挑んだものだと感心した。
そして、「メイド・イン・ジャパン=高性能」を揺るぎないステイタスまで高めたのが、ホンダが1969年にぶっ放した「DREAM CB750 FOUR」だ。シリンダーが横一列に並んだ4気筒エンジンやディスクブレーキなど当時の最先端テクノロジーを結集し、量産市販車として初の200キロ超えを達成。
現代につながる最速スーパースポーツの原型がここに誕生した。ペットネームの"DREAM"はまさに本田宗一郎の、そして日本人にとっての夢の実現でもあった。
CBの出現により、他メーカーもこぞって750㏄モデルを投入。ウオーターバッファロー(水牛)と呼ばれたスズキ「GT750」やカワサキ「マッハⅣ」など2ストエンジン搭載の怪物マシンも現れるなど性能競争が白熱。排気量上限を750㏄とするメーカー自主規制へのきっかけをつくる。
ちなみに1973年以前は、普通免許などを取ると、オマケに大型も乗れる自動二輪免許がついてきた(通称「ポツダム免許」)。そのため、二輪経験がなくてもナナハンOK、ノーヘルOK、首都高爆走OKという実に野蛮すぎる時代であった。当然、死亡事故が続発するという面もあり、二輪に対する規制はどんどん厳しくなっていく。
その意味では、1975年の免許制度改正は日本のバイク史におけるひとつの転換点だった。この改正以降、大型二輪免許は合格率3%ともいわれた難関の一発試験のみとなり、いわゆる「限定解除」されたナナハンライダーは"神"のごとく崇(あが)められた。
特に試験に厳しかった東京・府中試験場では試験回数を皮肉って「11回目からを1回目と数えた」などの逸話もあり、そこに受かるための極秘テクニックのすべてを教える元白バイ隊員「鬼の中川スクール」もはやった。
ちなみに最近リブートされて話題の新型カタナの元祖、1981年に登場した「GSX1100Sカタナ」(通称"1100カタナ")は輸出専用モデル。そのため、日本では逆輸入車扱いで高嶺(たかね)の花、街で見かけることはほとんどない希少な存在だった。
その代わり国内仕様としてメーカー自主規制上限の750カタナが発売されたが、法規上セパハンが認められず、やむなくつけたアップハンが"耕運機"と揶揄(やゆ)された。そこで、オーナーはこぞって1100用セパハンに改造したが、それがお上かみの目につき取り締まりの対象に。コレが太閤秀吉よろしく俗に言う"カタナ狩り"だ。
■空前絶後のヨンヒャクブーム到来!
70年代から80年代初頭にかけてCB、カタナ、そしてZ1などスター級の国産大型バイクがキラ星のごとく現れる一方で、前述のように交通事故や暴走族の問題、免許制度改正などで「大型には乗せない」という国からの無言の圧力もかかっていた。
その結果、80年代前半には若者の間では、"ヨンヒャク"ブームが巻き起こる。直4エンジンを搭載したニューマシンとして登場したZ400FX(フェックス)に続き、XJ400(ペケジェイ)、GSX400F(ジスペケ)など、今なおプレミア価格で取引される名車が次々に誕生。
その頂点を極めたのがCBX400Fだろう。だから今もギンギンにやんちゃな活動を続ける白髪交じりの「旧車会」メンバーにとっても、この時代のバイクは永遠の憧れ、アイコンとして人気が高い。
その後、CBXをベンチマークとして、各メーカーは水冷化、多気筒化を進め、パワー競争の時代へ。バイク雑誌では毎号ライバル対決特集が組まれ、メーカーのカタログにも最高速やゼロヨンタイムが堂々と載っていた。ワイルドで男らしい時代であった。
かく言う自分も、83年春に鳴り物入りでヤマハから登場し、当時最高出力55PSを誇ったヤマハの最新モデル「XJ400ZS」を力いっぱいのローンを組んで買ったが、その理由は出入りしていた近所のバイク屋に「コレ以上の馬力はもう出ないぞ!」と言われたからだ。
しかし、あろうことか翌月には同じ店頭に「最高出力58PS! 新型CBR400デビュー!」のポスターがデカデカと張ってあった......。
要は当時のヨンヒャクの人気ぶりは本当にスゴいものがあり、若者たちは熱にうなされるように週末になると最新バイクで街に繰り出した。六本木の交差点辺りでも夜な夜な自慢のマシンに乗った、とっぽい兄さん衆がゼロヨンよろしく熱い走りを展開。
信号で並ぶと必ずバトルになるのがお約束で、相手が挑発してきて「バーン」と吹かすと、こちらも「ブォーン」とやり返す。青信号とともに全開ダッシュをキメて後はどこまで開け続けられるかのチキンレースである。
80年代半ばはまだ東京湾の殺伐とした埋め立て地だった13号地辺りはゼロヨンの聖地だった。今は高層ビルが立ち並ぶオシャレな観光地となったお台場だが、当時は集合管が奏でる甘美な直4サウンドが響いていた。ただ、実際のところ、自分の知り合いもこの頃、バイクでたくさん亡くなった。
★【短期集中連載】日本オートバイ年代史 第2回「バイクブームの弊害」
●佐川健太郎(さがわ・けんたろう)
1963年生まれ、東京都出身。早稲田大学教育学部卒業後、雑誌編集者を経て、二輪ジャーナリストとして活躍。また、「ライディングアカデミー東京」校長や、『Webikeバイクニュース』編集長も務める。日本交通心理学会員。交通心理士。MFJ認定インストラクター