1990年にピークを迎えた真夏の祭典「鈴鹿8時間耐久ロードレース」。16万人を超える大観衆が鈴鹿に押しかけた

現在、国内の二輪市場は若者離れが響いて過去最低に縮小している。販売台数は最盛期の10分の1に激減。なぜ「熱狂」は失われたのか? もう二度とオートバイ文化の復興はないのか? 全4回の連載で、その糸口に迫る。

1982年に最盛期を迎えた日本のオートバイだが、80年代後半から90年代にかけて規制緩和が一気に進む。一方、海外では世界最速記録を競い、気がつけば時速300キロという途方もない壁を突破し、世界中のバイク好きを熱狂させた。

第1回「1982年に迎えたオートバイ最盛期」第2回「バイクブームの弊害」に続き、ジャーナリストの佐川健太郎が振り返る!

■自主規制が撤廃されたわけ

バブル景気に沸くニッポンで、二輪業界は大きく舵(かじ)を切る。1988年にこれまで自主規制してきた排気量の上限を撤廃、750㏄超の大型バイクを正規ルートで販売した。

それにより国産メーカーも1000㏄クラスの国内販売を開始。高嶺(たかね)の花だった外車や逆輸入車もより身近な存在になった。自主規制撤廃の裏には海外ブランドによる外圧の影を指摘する声もあった。

大排気量モデルを数多くラインナップする海外ブランドからすると、自主規制が撤廃されないと日本で商売ができないからだ。結果的にこの外圧の影により国内二輪市場は活性化する。まさに黒船来航だった。

平成が幕を開けた89年も変化は続き、昼間のヘッドライト点灯を呼びかけ、同時に時速180キロの速度リミッターを義務づけるなど事故防止への対応が進められた。

90年代に突入すると、ホンダ・NSR250Rがトップランナーを務めた2ストレーサーレプリカブームは失速。革ツナギに身を包み、峠を攻める走り屋も警察の取り締まりと交通規制により激減した。

そんな走り屋の元ネタともいえる二輪ロードレース。その真夏の祭典である「鈴鹿8時間耐久ロードレース」がピークを迎えたのは90年のこと。すでに二輪の国内販売は右肩下がりを始めていたが、決勝だけで16万人の観客を動員して大きな話題を呼んだ。

世界GP王者のエディ・ローソンが日本レース界のレジェンド・平忠彦とタッグを組んでヤマハYZF750で優勝。チームスポンサーだった資生堂「TECH21(テック・ツー・ワン)」がギラギラした男たちに売れに売れたのもこの年だった。

そして96年には大型二輪教習が開始。それまでは試験場での"一発試験"のみだったが、教習所に通えば大型二輪免許が取れるように。大型バイク市場は一気に激戦区となり、各メーカーは先を争うようにニューモデルを投入。大型バイクの黄金期が訪れた。

ちなみに免許制度が改正された背景だが、こちらも大型モデルが主力の海外ブランドによる外圧が噂されたが、これにより多くのライダーが"ヨンヒャクの呪縛"から解放され、大型バイクへの扉が開かれたことも事実だ。

■時速300キロの壁を打ち破ったハヤブサ

スピード。それは人類の永遠の夢。むき出しのコックピットに跨(またが)り、空気の壁を切り裂いて進むバイクは地上で最もスピードを肌で感じられる乗り物だ。バイクによる時速300キロへの挑戦が始まったのも90年代のことだった。

時代をさかのぼって、量産市販車初の時速200キロオーバーを実現したのは、69年登場のホンダ・CB750FOURだ。市販車としては世界初となる並列4気筒エンジンやディスクブレーキを搭載し、当時主流だった英国製2気筒マシンを一気に過去のものにした。

そして84年に登場したカワサキ「GPZ900Rニンジャ」が世界記録を打ち立てる。余談だが、"ニンジャ"のペットネームは当初、北米仕様にのみ使われたもので、米国ではスーパーマンに匹敵する超人を想起させる言葉だったという。

話を戻そう。GPZ900Rはコンパクトで高性能な新設計の水冷4気筒DOHC4バルブエンジンと、これをフレームの一部として使用する軽量高剛性な車体など近代的な設計思想で開発され、最高速度は250キロオーバー。ゼロヨン加速10秒台など世界記録を次々に更新。

カワサキ「GPZ900R ニンジャ」。映画『トップガン』でトム・クルーズが演じたパイロットの愛車として登場。世界の若者をとりこに

続く90年に登場したカワサキのZZ-R1100(米国名ZX-11)は航空力学を応用したエアロフォルムと走行風を加圧して叩き込むラムエアシステムを搭載しトップスピードは290キロに到達。夢の300キロに限りなく近づくとともに、"最速マシン"のジャンルを確立した立役者だ。

カワサキ「ZZ-R1100」。1990年に登場。高出力のエンジンを搭載。世界最速の市販車として世界中のバイク乗りを熱くたぎらせた

人類初となる公道マシンでの時速300キロに到達したのは、96年に登場した"スーパーブラックバード"の愛称を持つホンダ・CBR1100XXだ。

ネーミングは米空軍の世界最速偵察機「SR-71」にちなんだもので、航空機を思わせるエッジの効いた漆黒のボディはさながらステルス機のような迫力だった。メカニズム的にも2軸バランサーやD-CBSと呼ばれる前後連動ブレーキを装備し、超高速域での安全性や快適性を大幅に向上した。

ホンダ「CBR1100XX」。海外では1996年デビューすると、世界最速の座を奪取。2001年にリミッターを装着して日本でも販売

スーパースポーツ並みの運動性が与えられたXXにホンダはあえて「最速」の言葉を使わず「世界最高性能」と称して自らのプライドを誇示。自分も当時XXのメディア向け試乗会に参加したが、圧倒的なパワーはもちろんのこと、そのスムーズな乗りやすさや軽快なハンドリングに驚いた記憶がある。

今思えば、XXは高性能マシンのステイタスを「最速」から「最強」へと転換させたモデルであり、速さだけではないトータル的な性能でもトップを目指した最初のモデルだ。

量産市販車初の時速300キロ超え。その野望を現実にしたのが、99年登場のスズキ・GSX1300Rハヤブサだ。"アルティメット・スポーツ"をコンセプトに開発され、その圧倒的な動力性能と優れた空力特性によってゼロヨン9.9秒、最高速度312キロを達成。世界最速の市販車としてギネス認定された。

スズキ「GSX1300R ハヤブサ」。海外専用モデルとして1999年にデビュー。時速300キロを突破した世界最強のマシン

その実力は本物で、欧州のサーキットでは当時のWGP最高峰クラスの2スト500㏄マシンに匹敵するタイムを叩き出し、鈴鹿8耐にも名門ヨシムラから参戦してクラス優勝を飾るなど男がたぎりまくる怪物ぶりを発揮。

その一方で、過激化する開発競争を危惧したEUにより時速300キロ速度規制が設けられる。ハヤブサの記録は揺らぐことのないまま、最速マシン競争は事実上のピリオドが打たれたが、世界中のバイク野郎のハートには日本車の高性能ぶりが熱く刻まれたのだった。

★【短期集中連載】日本オートバイ年代史 最終回「若者のバイク離れ」

●佐川健太郎(さがわ・けんたろう)
1963年生まれ、東京都出身。早稲田大学教育学部卒業後、編集者を経て、二輪ジャーナリストに。「ライディングアカデミー東京」校長や、『Webikeバイクニュース』編集長も務める。日本交通心理学会員。交通心理士。MFJ認定インストラクター