昨今、アイヌ文化に対する関心が急速に高まっている。7月12日にはアイヌ文化復興の中核施設である「民族共生象徴空間」が北海道に誕生した。その愛称である「ウポポイ」は、変わった名前の響きからインターネット上を中心に話題を集めたことも記憶に新しい。
こうしたアイヌ文化ブームの背景にあるものとは何なのか。また、アイヌについて知りたいと思ったら、どこから何を学べばよいのだろうか。アイヌ語研究の第一人者である千葉大学文学部教授・中川裕(なかがわ・ひろし)氏にお話を伺った。
***
――ここ最近、アイヌ文化に対して急速に注目が集まっているように感じます。理由をどのように分析されていますか。
中川 アイヌ民族博物館の設立にともない、国や北海道がキャンペーンに力を入れていることもあります。現代社会の中でアイヌ文化を音楽や工芸、芸能などいろいろな形で表現していこうとする人たちが、数多く出てきていることもあります。ただ、『ゴールデンカムイ』(※)という作品の影響が大きくあることは、まず間違いがないでしょう。
(※)『ゴールデンカムイ』:日露戦争直後の北海道を舞台にした冒険活劇漫画。『週刊ヤングジャンプ』にて2014年から連載中。帰還兵である杉元佐一(すぎもと・さいち)やアイヌの少女アシリパを中心に、バラエティに富んだ登場人物たちが金塊をめぐって争奪戦を繰り広げる。コミックスは最新刊の22巻までで累計1300万部を突破している。
――中川先生も連載開始当初から「アイヌ語監修」という形で関わられています。なぜ、『ゴールデンカムイ』はこれだけの影響力を持つことになったのでしょうか。
中川 まずアイヌ文化の描写がすばらしい。第1話のアシリパの初登場シーンは今でも印象に残っています。丸々1ページを使っている場面ですね。
私が監修の相談を受けたのは2014年の、まだ連載が始まる前のことです。「アシリパ」というヒロインの名前も決まっておらず、第1話・第2話がほぼ完成段階という状態でした。そこで登場するアイヌの少女が冬山に入る時の装いをしているわけですが、その恰好が私の目から見ても、全く違和感がなかった。完璧でした。
例えばマキリ(小刀)やタシロ(山刀)とか、あるいはサラニプ(背負い袋)だとか、それぞれの道具や、それを人が身に付けた姿というのは写真や絵で残っているわけですが、一揃い全部を身に付けた図というのはあまり見たことがありません。
それを今までに無いキャラクターに全部持たせて、しかもちゃんとそれらしく見える。これは相当下調べをした上で描いているんだなというのが、一目見た瞬間に感じられました。
同時に、これだけの情報を絵で正確に表現できるのはすごい画力だな、とも思いましたね。ひょっとすると、大変な漫画になるかもしれないなという予感がして、その場で監修を引き受けることに決めたという経緯があります。
――確かに、『ゴールデンカムイ』の細かな自然の描写や、精緻な道具の描かれ方などにはいつも圧倒されます。
中川 それに絵だけではなくてストーリーもすばらしい。コミックス末尾の参考文献一覧を見ればわかりますが、アイヌ文化だけでも膨大な調べものをした上で描いているわけです。その調べた色んな情報が全部、物語の一部分としてうまく取り込まれている。
しかも、調べたアイヌ文化の色んな要素が、一回きりのネタとして登場するんじゃなくて、メインストーリーにもきちんと繋がっていますよね。主人公がどんどん活躍していくにつれて、いつの間にか最初の方の設定が忘れ去られてしまうなんてことはよくありますけど、『ゴールデンカムイ』ではアイヌ文化の知識が物語の重要な展開にうまく絡んできます。
それでいながら、ストーリーに無理なところもない。全て自然な形で辻褄が合っているようにしか見えない。野田さんの天才的なバランス感覚がなせる業(わざ)だと思います。
――人気の「チタタプ」(狩猟で得た素材を細かく刻んでつくる料理)なども、繰り返し出てくるので印象に残りました。
中川 「チタタプ」だとか「ヒンナ(感謝の言葉)」といったアイヌ語は今では特に人気が高くて、いわば流行語みたいになってしまいました。あのチタタプという言葉がこんなにも一般に知られるようになるなんて、かつては予想もしていませんでした。ここまで広めたというのは、まず間違いなく野田さんの功績だろうと思います(笑)。
――他にも人気があるシーンとして、杉元が持っている味噌を見て、アシリパがオソマだと勘違いしてしまう場面があります。
中川 あの話もきちんと資料に基づいています。それに僕自身の体験からしても、『ゴールデンカムイ』が舞台とする時代、つまり1900年前後に生まれたぐらいの人たちだと味噌を見たことがない人も多かったというのは確かです。
あの当時、味噌は買うものではなくて自分たちの家庭でつくるものでした。アイヌの女性たちはそのつくり方そのものを教わっていないから、見たことも食べたこともなかった。だから結婚して、その結婚した家のお姑さんがつくっているので初めて味噌汁を飲んだ、なんて話も伝わっているわけですよ。
僕が実際に会って、そんな話を聞いた人たちは1900年代の生まれですが、『ゴールデンカムイ』の舞台である日露戦争直後で中学生ぐらいに見えるアシリパはもっと年上で、おそらく1890年代の生まれということになる。樺戸(かばと)のアイヌコタン(集落)で暮らす女性たちが味噌を見て驚いている場面もありましたが、彼女たちはアシリパよりもっと年上ですからね。
なので、あの時代のアイヌの女性が味噌なんて見たこともないというのは、それは当然だろうということになります。時代的にはピッタリのエピソードではないでしょうか。それを見事な形で、ストーリーの中に組み込んでいるわけですね。
――当時の伝統的なアイヌ料理は、現代人の感覚から考えると薄味だったのでしょうか。
中川 そういうことです。かつて私は東京に来ていたアイヌのおばあちゃんに、「本当は鹿の骨でつくる料理だけど、鹿が獲れないから代わりに豚の骨でつくった」と言われて、ポネオハウ(骨のだし汁料理)というのを食べさせてもらったことがあるんだけれども、「へぇ~、なるほど」と思った。
要するに、我々がつくる「鍋」よりはるかに薄い塩味でね。こんなにあっさりした味なんだと驚いた記憶があります。でも、実際問題として昔の塩入れってすごく小さいんですよ。その貴重な塩を大きな鍋に、一つまみとか二つまみくらいしか入れないでつくるわけだから、自然と薄味になるわけです。
基本は調味料というものを使わず、具材からしみ出た油だとか、香辛料として色々な山菜や木の実だとかを使って、素材の味をなるべく残して食べるという料理の仕方をしていました。だから、初めて味噌を食べた時には、それは衝撃だったのではないでしょうか。
――とても面白いお話です。そんなアイヌ文化について、もっと知りたくなったという方も多いと思います。勉強するにあたり、良い教材はありますか?
中川 まずは、2020年7月12日に北海道の白老町(しらおいちょう)で「国立アイヌ民族博物館」がオープンしました。アイヌ関連では日本最大級の施設で、展示資料も非常に充実していますから、是非とも一度訪れてみてください。
それから、同博物館の運営母体であるアイヌ民族文化財団のホームページにも、さまざまな解説が載っています。アイヌと関わりの深い動植物を扱った「自然図鑑」だとか、「物語の宝箱」という意味の、伝統的なアイヌの物語をアニメーション仕立てにした「オルㇱペスウォプ」などは予備知識がなくても面白いのではないかと思います。
それから、実は北海道以外でも、首都圏では東京の八重洲にアイヌ文化交流センターという施設があり、資料もたくさん揃っていて、講座などのイベントも定期的に行なわれています。私もたまに講座を開いています。
――本に関してはどうでしょうか?
中川 残念ながら、少し昔の名著と言われるものは品切れ・絶版になってしまったものが多いのですが、幸いにも『ゴールデンカムイ』をきっかけにアイヌ文化がブームになったお蔭で、今ではどんどん復刊が進んでいるようです。今後は比較的容易に入手できるようになって、勉強しやすくなるはずです。
例えば、ラッコ鍋の話のネタ元である『コタン生物記』という本は、青土社(せいどしゃ)から復刊が予定されているようです。アイヌで初めて国会議員になったことで有名な萱野茂(かやの・しげる)さん(1926~2006年)による『カムイユカラと昔話』という名著も、山と渓谷社から文庫本が出版されます(『アイヌと神々の物語~炉端で聞いたウウェペケレ~』と改題されて、2020年3月16日に刊行)。
ただまあ、最初に何を読んでいいかわからないという時には、私の最新刊である『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』をお薦めしたいと思います(笑)。『ゴールデンカムイ』ファンの方にはもちろん、原作を知らない方でも面白く読めるように心がけて書いています。最初の入門書としては、わかりやすい一冊ではないでしょうか。巻末にはブックガイドが付いているので、読書案内にもなっていますからね。
――有り難うございました(笑)。
(注)昨今の新型コロナウイルス感染症に関する国内情勢により、各種講座やイベントは中止・延期になっている可能性がございます。公式ホームページ等により、最新の情報をご確認ください。
・アイヌ民族文化財団ホームページ
【https://www.ff-ainu.or.jp/#top001】
・オルㇱペスウォプ
【https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/language/animation/index.html】
・東京・八重洲 アイヌ文化交流センター
【https://www.ff-ainu.or.jp/web/overview/cultural_exchange/index.html】
■中川裕(なかがわ・ひろし)
1955年生まれ、神奈川県出身。千葉大学文学部教授。東京大学大学院人文科学研究科言語学博士課程中退。95年、『アイヌ語千歳方言辞典』(草風館)を中心としたアイヌ語・アイヌ文化の研究により金田一京助博士記念賞を受賞。野田サトル氏の漫画『ゴールデンカムイ』では連載開始時から一貫してアイヌ語監修を務める。著書に『アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー、2020年4月に改訂版刊行)など多数。
『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』
(集英社新書 定価900円+税)
2018年手塚治虫文化賞でマンガ大賞を受賞した、累計1300万部超を誇る冒険活劇漫画『ゴールデンカムイ』。そのアイヌ語監修にしてアイヌ語研究の第一人者である著者が、同作の名場面をふんだんに引用しながら解説を行った唯一の公式解説本にして、アイヌ文化への最高の入り口となる決定的新書。2020年3月時点で累計6万部を超えるベストセラーとなっている。原作者・野田サトル氏によるオリジナル描き下ろし漫画も収録!