2021年は三木道三の『Lifetime Respect』が発売されてから、ちょうど20年の節目だった。同作は日本のレゲエ史上、初めてオリコン1位を獲得。日本にレゲエが浸透したきっかけとなった歴史的作品だ。

しかし、当の三木道三は『Lifetime Respect』発売の翌年に突如引退。2014年にDOZAN11の名前で復帰するまで、ほとんど表舞台には姿を現さず、一時は死亡説も流れたほどだったが、何もしていなかったわけではない。

大ヒットした『Lifetime Respect』について、空白どころか濃密すぎた引退期間についてなど、この20年に起きた出来事をありのまま話してもらった。

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――『Lifetime Respect』はどんな曲だったのか、改めて教えていただけますか?

DOZAN11 こんな曲を作ろうとか、そういう準備をして制作に向かったわけじゃないんです。なんの曲だったか覚えてないですが、(レゲエの本場である)ジャマイカのレコードはB面がインストになっていることが多くて、それを流していたら、ぶわーっと出てきたという曲です。

――『Lifetime Respect』はラブソングで、それまでは社会性の強い楽曲も多く出していましたけど、どういう想いで作ったんですか?

DOZAN11 僕は子供のときから日本のポップスは日本語が大事にされていない印象を持っていて、例えばラジオのDJが英語でしゃべっているのを聞いて、「誰に対して言ってるんだ?」って、もやっとしていた。でも、ジャマイカの人たちは、欧でもなければ米でもない、しかもかつて奴隷制度もあり差別されていた立場なのに、自分たちの言葉で、自分たちのスタイルで、世界中に自分たちの音楽を広げていた。それが非常に痛快だな、これを日本に持ってきたいなと思って、僕はレゲエを始めたんです。

だからデビュー曲だった『JAPAN一番』(1996年発表)では、歌詞カードがなくても聞き取れる日本語で、日本のことを誇りに思う気持ちを歌いました。その後の『Lifetime Respect』では、「赤ちゃんBaby」と歌っているんですが、昔『HOLD ME抱きしめて』みたいな歌詞を聞いて、「意味一緒やないか〜い!」と思ったのを逆に自分もフザけてやったりしてます。

――そんな意味があったんですね!

DOZAN11 あと、巷のラブソングで「フォーエバー」とか「永遠(とわ)に」とか、よく出てきますけど、「それ、いつまでやねん!」と思っていたので、「一生一緒に」と期限を区切っていたり。そういう既成のものに対しての自分なりの提示というものがありました。

「SEX」という言葉もシモネタじゃなくて、「愛のあるSEXに精ェだしたり」という歌詞にしたら、ちゃんと受け入れられて、ラジオでも流してもらえた。そういうことが芸術として成立するジャマイカとか、アメリカのヒップホップとかのアートフォームを日本に輸入したかったというか。そういうスタイルにはずっとこだわりがあるかもしれないです。

――そうだったんですね。歌詞が関西弁ということもあって、溢れ出る感情をバンと出した曲というイメージを持たれがちだと思うんです。

DOZAN11 持たれがちかどうかはわからないですけど、音楽を作ることって、誤解を恐れずに言えば、数学的、パズル的なものなんです。だから、巧妙なライミングを作ろうと思ったら、そんな思った言葉をパンパン並べただけじゃ作れないんですよ。

そもそも関西弁を使ったのも、そのまんまの喋り言葉を乗せているジャマイカ的なスタイルでもあるんです。普段使っていない言葉を使って、取り繕った表現にすることに違和感があったので、自分なりにジャマイカのスタイルを吸収した表現をしました。

――それが大ヒットして、当時はどんな心境だったんですか?

DOZAN11 ライフタイムは、それくらいいくんじゃないかと思っていたので、思っていた通り、それくらいにはなったなという感じはしました。

――まわりの環境も変わったんじゃないですか?

DOZAN11 一気にプライベートがなくなる感覚には閉口しました。街を歩けなくなったのが、本当に嫌でしょうがなかったです。自宅のポストに切手のない封筒が入っていて、「え、誰!?」っていう。

――自宅バレは怖いですね。ヒット後は翌年に全国ツアーをして、すぐに引退。なぜだったんですか?

DOZAN11 ひとつの理由というわけではないんです。心境の変化もあったし、交通事故などで何度も手術をしてきた影響で体も不調だったので。

■三木道三を形成した幼少期の『論語』

――心境の変化というのは?

DOZAN11 10代でジャマイカのダンスホールレゲエを好きになって、そこから10年くらいやっていたんですけど、もともとヤンチャでフザけるジャンルだったので、大人になるにつれてフィットしなくなっていきました。それとジャマイカの音楽シーンも変わっていって、そのときの自分の好きなものとズレが出ていたんです。

――このまま続けて、もっと大きいことをやりたいとか、そういう欲はなかったんですか?

DOZAN11 大きな会場でやりたいとか、テレビに出たいとか、そういうことはなかったです。レゲエ自体がサウンドシステムと言って、スピーカーをドンと置いて、レコードをかけながらワーッとやって、筋書きのないドラマで盛り上がるものなので、あんまり演出したものには興味がなかったんです。金銭欲とか物欲とかは全然なかったですし、昔は特に。

――普通は若いときのほうがありそうですけどね。

DOZAN11 そういう感覚はよくわからないです。その「普通」に当てはめるのも、「なぜなんだ?」という思いはあります。

――逆になんで当てはまらなかったんですか?

DOZAN11 昔、父親に「金のことは考えるな」とは言われました。僕は子供の頃、父親に『論語』(儒教の始祖である孔子の言葉をまとめた本)を読まされて育ったんですよ。

――すごい! 子供が読んで理解できるものなんですか?

DOZAN11 それは理解できてることもあれば、理解できてないこともありますよ。でも、わからないなりに読んでいくと、それが染み付いていって、何かあったときのメッセージとして、自分のなかから出てくるんです。だから、しっかり習得して血肉になったというのとは程遠いですけど、そういう教えを多少受けたので、目立つとか儲けるとかは、活動の動機にはならなかったんだと思います。

■「レゲエなら日本一になれる」と思った意外な理由

――引退せずに続けて、もっとレゲエを広めるということは、活動の動機にはならなかったんですか?

DOZAN11 その意味では続けたほうがよかったのかもしれないですね。ただ、そもそもダンスホールレゲエは、ユニバーサルでグローバルな欧米文化でもなくて、非常にマニアックでローカルなジャマイカ文化なので、日本での認知もシーンも非常に小さいところから始めて、それにしては随分広めたんじゃないですかね。

僕が引退してから「三木道三でレゲエを知りました」、「『Lifetime Respect』でレゲエに初めて触れました」という人も大量に流れ込んできて、レゲエイベントの人数も増えて、レゲエブームになっていったところもあると思いますし、まぁまぁ役割を果たしたんじゃないかなと思います。


――そこは引退を思いとどまる理由にはならず、スタートもお金や名声でなく、ただただレゲエに惹かれて、これを日本でやりたいっていうのが、いちばんのモチベーションだった。

DOZAN11 そうですね。そもそも子供の頃から変わり者というか、どうやら自分は人とは違うんだっていう思いはありましたから。「何者になるんだろうな?」とわからなかったときに出会ったのがレゲエで、これは自分はできるし、やったら日本一になるだろうと思って、やり始めたんです。

――なぜ日本一になれると?

DOZAN11 なんとなくです。まだ才能の層も厚くなかったし、人の前に出るのも苦じゃなかったし、音楽も読書も好きだったので、歌も作れると思ったから、などなどです。

――それまで音楽の経験はあったんですか?

DOZAN11 楽器の練習とかは、まともにしたことはなかったです。ただ、母親が家でピアノを教えていたので、小さい頃から母親のレコード棚から取り出したレコードと、父親の本棚の本の内容をマッチングして、音楽を聞きながら読書していたんですよ。「項羽と劉邦」が戦っているときは、ドヴォルザークの「新世界」がピッタリだな、みたいな。

――それで自然と感覚が研ぎ澄まされていた。

DOZAN11 そうですね。自分なりには。そういう言葉と音楽のマッチングは、そこで培われたところはあります。

■5度の全身麻酔手術、ブラジルでの寝たきり、逆流性食道炎...三木道三を襲った不調

――話を戻しますけど、引退から2014年にDOZAN11として復帰するまでの間は、何をされていたんですか?

DOZAN11 引退してすぐ、サッカーの日韓W杯があったんです。その決勝戦を生で観て、ブラジルの優勝までのプロセスとか、応援の仕方とか、帰りの電車がサンバトレインみたいになっていた様子とか、最高やなと思って、数ヶ月後にブラジルに行ったんです。そしたら優勝の熱気が残ったリオのカーニバルを見れました。

それで、もうサンバが大好きになっちゃって。それもまず歌詞に惚れて、「こっちやったな!」と思ったんです。遠回りした、と(笑)。それで日本に帰ってから、サンバ修行が始まったんです。日本人がやっているサンバチームに行って、楽器を鳴らしてみたり。2年くらいサンバしか聞かないような生活をして、結局ブラジルには5回行きました。

――その頃はもう、体の不調はよくなっていたんですか?

DOZAN11 僕、それまでに全身麻酔の手術を5回やって、骨の移植も2回やっていて。その交通事故がきっかけで、これはいつ死ぬかわからないし、早くプロになろうと思って、レゲエに突っ走っていったっていうのもあるんです。

それで引退後、手術をやり直したくて、それに備えようとブラジルでジムに通ったら、腰を激しく痛めて、ヘルニアだと診断されて、ブラジルで2カ月寝たきりになっていたんです。そのときに2002年のW杯で得点王になったロナウドの手術とリハビリを担当した先生が、ロナウドと一緒に作った「エヒノビ」という病院に通って。ポルトガル語でエヒは「R」、ノビは「9」。ロナウドの頭文字と背番号なんですよ。これがかっこいいなと思って、「DOZAN11」の名付けに影響を与えました。

――そうだったんですね! なんで「11」なんですか?

DOZAN11 それは諸説あるんですけど。

――自分の話なのに(笑)。

DOZAN11 引退後のプロデュース活動をしているときに、根詰めすぎて倒れちゃったことがあって。自律神経のバランスが崩れて、2年くらいまた寝たきりみたいになってたんです。自律神経は交感神経と副交感神経があって、簡単に言うと、ポジティブとネガティブ、陰と陽、プラスとマイナスとか、そういうことなんですよね。そのバランスを整えたいなということで、プラスとマイナスを漢字にしたら「十一」になる。

あとは引退して、またレゲエの世界に戻ってきたんですが、イチから再スタートという感覚ではなかった。以前の活動で10まで行ったから、今度は11からだという感じだな、と。

――いろんな意味を込めた「11」だったんですね。

DOZAN11 それらが名前の由来です。だからブラジルの病院でリハビリしたり、自律神経の不具合で倒れていたり。あとは2014年の復帰より何年か前に、レコーディングしようとしていたときがあったんですけど、歌うたびに喉が焼けるように痛くて、2年くらい経ってやっと逆流性食道炎だったと分かったんです。それで復帰予定が遅れて。体の不調との付き合いが長かったですね。

■新たな音楽との出会いで、再びレゲエへの情熱を

――それで体の具合もよくなってきたから、2014年に復帰したということですか?

DOZAN11 ブラジルのサンバのあと、トリニダード・トバゴに行って、ソカ(ソウルとカリプソの要素が混ざったトリニダード・トバゴ発祥の音楽)にハマったんですよ。

――また新しい話が(笑)。

DOZAN11 今年8月にMINMIとのコラボでリリースした『花火』という歌もソカなんですけど、これもカーニバルの音楽なんです。その後もソカをきっかけに、ブラジルのバイーアのカーニバルも見に行ったんですけど、地理的にもカーニバルのスタイル的にも、リオとトリニダード・トバゴの間というか。それでジャマイカのレゲエとリオのサンバという点と点が、間にジャマイカと同じカリブ圏のトリニダード・トバゴと、リオと同じブラジルのバイーアを挟むことで線になったんです。

それと、ジャマイカの音楽自体も、僕が引退しているうちにぐるっと一周して、若い人たちが昔の匂いのするレゲエをやりだした。それを聴いて「こんな感じやったら、また自分もできるし、やりたいな」と思って、アルバムを作って、ステージに復帰しようかなと思うようになったんです。

――体調の回復とやりたいものが合致して復帰しようと。

DOZAN11 あとは東日本大震災の影響もありました。アーティストという立場だと、できることがいっぱいあるじゃないですか。被災者を鼓舞したり、仲間と物資を集めて運びに行ったり。引退していたので、あんまり表には出なかったですけど、無料で曲を発表して、「よかったら募金してください」とか、そういうことをやってみました。だから、フロントマンでいるということは、やはり貴重で素晴らしいことなんだと改めて思い直して、もう一回やろうかなと思った部分もありましたね。

(明日配信予定の後編記事に続く)