ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。
それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。
そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。
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用事があって吉祥寺の街を訪れたついでに、久しぶりに井の頭公園へやってきた。
あまりにも天気が良くて散歩日和だったこともあるけれど、合わせて「井泉亭」の様子を見に行きたかったのだ。
井泉亭とは、井の頭池の西のはしにある「井の頭弁財天」を臨むように建つ小さな茶屋。江戸時代、弁財天の参拝者たちをもてなすため、地元の有力者や地主たちによって建てられたと伝えられているらしく、その歴史はなんと200年以上にもおよぶのだとか。
そんな歴史を持ちながらも、優しい女将さんが切り盛りする気取らない店で、名物のカレーライスやおでんをつまみに缶ビールやカップ酒を飲めたりする。以前から大好きで、2020年の拙著「天国酒場」でも紹介させてもらった。
完成した本をお送りした際、女将さんから出版社あてにていねいなお礼のお手紙をいただいた。そこには、「長引くコロナの影響で営業できない日々が続き、この先店を続けていけるのかどうかとくじけそうになっていました。けれど、こんなふうにお店を愛してくれる方がいると知り、やれるところまでやってみようと勇気が出ました」と、大まかにそんな内容のことが書かれていて、思わず胸が熱くなったものだ。
というわけで、しばらく行けていなかった井泉亭、営業しているならばぜひ女将さんにご挨拶がしたい。ところが店に着いてみると、予想の斜め上の展開が僕を待っていた。なんと、建物はそのままに、内装がすっかりリフォームされ、ものすご~くお洒落なピザ屋さんに生まれ変わっていたのだ。
店名も「ISENTEI」とリニューアルされたよう。どうやら店内に女将さんはいなそうで、あののんびりとした空間は、もうこの世からなくなってしまったのか......。と悲しくなりつつも、しっかりともとの看板が残してあったりして歴史への敬意を感じるし、なにしろこの場所が、今後も飲食店としてあり続けてくれるのは嬉しいことだ。きっとさまざまな事情があって、最善策を選んだ末のことなのだろう。
なんだか感情の持っていきどころを失ってしまったが、とにかく「200年以上続く茶屋が突然小粋なイタリアンに生まれ変わってしまうのが令和という時代」ということだけは理解できた。うん、おもしろい時代に生きてるな、おれ。
突然のことに動揺したけれど、新しいISENTEIもすごくいい店そうだ。こんどあらためて来てみよう。ただ、今は突然、気合の入った焼きたてピザを食べる"ハレ"のモードにはなれない。幸い、園内には他にもいくつかの茶屋があったはず。なかでも、公園入り口すぐの場所にあったと記憶している店は、気になりつつもまだ入ったことがないんだった。これもいい機会だし、行ってみよう。
記憶の場所へたどり着くと、確かに「明水亭」という茶屋があった。ぱっと見、公園を訪れた人向けの売店のようにも見えるけど、店内利用もできるのだろうか? おそるおそる、建物すみの引き戸をカララと開けてみると、そこには圧倒的な空間が広がっていた。
歴史の堆積を感じさせる、少し雑多で、けれども妙に空気の澄んだ店内。池に面した窓からは燦々と陽光が差しこみ、もはや夢とうつつのはざまのような空間を作りあげている。まさに、天国......。
誰もいない店内から厨房に向かって「すいません、ひとり、入れますか?」と聞くと、女将さんがやってきて快く迎えてくれた。
「メニューはこちらですから、決まったら声をかけてくださいね」
言われて視線を向けた先のラインナップがまたいい。「必要最低限」という言葉があるが、ここのメニューは「必要最低限、ちょっと未満」という感じがする。たとえば、「やきそば」はあるけど、そばやうどん、カレーライスなんかがない感じとか。って、失礼な物言いになっているかもしれないけれど、いやいや、こういう独特の制約のなかでこそ、何を選んでどう組み合わせるかを考えるのが楽しいし、興奮するんじゃないですか。
これは飲み手としてのセンスが問われているぞ......としばらく熟考するも、よく考えたら僕は、素敵なセンスなんて持ち合わせていないんだった。よ~し、ここは欲望に忠実に......「もつ煮」「やきそば」「レモンサワー」だな!
まずはレモンサワーをひと口ごくり。お、これはキリッとして甘くない、僕好みのレモンサワーだ。
すかさずもつ煮をぱくり。もぐもぐ。あ、いい。しっかりと煮込まれて柔らかいモツには変なクセやくさみがなく、とても甘い。これはモツ自体の甘さか、いや、合わせてみりんか砂糖かを多めに加えてるのかもしれない。とにかくそのモツと味噌ベースのつゆが絡まって、こっくり濃厚で、レモンサワーとの並びはまさにゴールデンタッグ!
続いて、焼きそばが到着すると同時に、「井の頭公園」つながりで長野の地酒「井乃頭」をおかわり。
この焼きそばがまた、なんとも愛らしかった。肉はひき肉で、野菜はキャベツ、にんじん、それからたっぷりの玉ねぎ。この玉ねぎの甘みが良くて、控えめなソース味ともちもちの麺とともに、他にありそうでない優しい美味しさを作り上げている。ふりかけられただし粉と紅ショウガのアクセントも、酒飲みには嬉しい。
1月とは思えない暖かい日差し。ときおり窓から吹きこみ顔を冷やしてくれる風の心地よさ。客が僕ひとりの店内には、遠く聞こえる鳥の声、頭上で風に揺れる風鈴の音、そして、BGMというほどではない、女将さんが厨房で聴いているらしきラジオの音声がかすかにするばかりだ。
それらに身をゆだねながら、ただぽーっと飲んでいたら、ラジオからほのかに、奥田民生の「愛のために」イントロが聴こえてきた。1993年にユニコーンが活動休止した翌年、民生が本格的にソロデビューしたのがこの曲だったよな。当時の僕は16歳か。いや~まずい、このシチュエーション×多感な時代に聴いた音楽は......。
この曲を作ったころの民生って(さっきから呼び捨てですいません)、確かまだ20代だったはず。当時も単純にめちゃくちゃかっこいいとは思ってたけど、今あらためて聴くと圧倒的才能にもほどがあるし、なにより歌詞が沁みすぎる。まるで、時空を飛び越えて、今ここにいる自分に向けて歌ってくれているんじゃないかと錯覚してしまうほどに。......いや、酒のせいだってことはわかってますけども。