ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。
それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。
そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。
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ここ2週間ほど、仕事の都合でいろいろな店の「かた焼きそば」ばかりを食べる日が続いていた。揚げた中華麺に、五目と言いつつたいてい九目も十目も具が入ったとろんとろんの餡がかかる、あれだ。
好きで始めたことだけど、そもそもかた焼きそばなんていう文字通りハードなメニューは、月に1、2回食べるくらいがちょうどいいもの。いい大人が連日のように食べていると、胃腸および心の"かた焼き疲れ"は避けようがない。
そんな生活もやっとひと段落し、ついになんでも好きなものをチョイスできる昼が訪れた。さてなにを食べようか。思いついたのは「キッチン美好」だ。
キッチン美好は、辛うじて僕の住む石神井公園エリアにあると言っていいのだろうが、駅からは15分ほども歩く住宅街のなかにある、昔ながらの洋食屋だ。前からその存在は気になっていたものの、今回のかた焼き探訪の一環で初めて訪れ、今まで来なかったことを後悔した名店だった。
古いが清潔に保たれた店内は、カウンターのみで10席にも満たない。ご主人が厨房に立ち、女将さんがそれをサポートする正当スタイル。メニュー表は裏表で「中華」と「洋食」に分かれ、ラーメンやチャーハン類ひととおりと、カレーやオムライス、ハンバーグにフライ各種に「スパゲテー」などなど、幅広くも安心感のあるラインナップが揃う。
ちなみにここのかた焼きそばは、今回10軒の店を食べ歩いたなかで、最もハードスタイルだった。注文するなり、大鍋でジャーっと麺を揚げはじめるご主人。何気なく見ていると、一向にそれを鍋から上げる気配がない。見ているこっちが、「あの、さすがにそろそろ......」と声をかけそうになるころにやっと取り出し、具沢山の餡をかけられて出てきたそれは、ほんのりと焦げ風味がするくらいにバキバキの揚げあがり。が、これが香ばしくて食欲をそそり、たまらなく酒が進んだ。
食べるにあたり、ご主人に「料理の写真を撮ってもいいですか?」と聞くと快諾してもらえ、客が他にいなかったこともあるのだろう。ちらほらと世間話を聞かせてくれた。
「最近、たまに若い方なんかが、そうやって写真を撮ってらっしゃいますね。インターネットに上げるだとかで。そういう方に人気なのが、『スペシャルオムライス』ね」「うちも昔は流行ったんですよ。だけど、当時はハイカラだったのが、今じゃレトロになっちゃった」「だけど、これでも50年やってこられたからね。それだけでいいかなって思うようになりましたよ」
長く商売をやられてきた方の話は、すべからくおもしろい。これからはちょくちょく来て、少しずついろんな話を聞かせてもらいたいな。と思いながらも、やはり気になるのは「スペシャルオムライス」だ。そこで聞いてみる。
「ところで、『スペシャルオムライス』ってどんなのですか?」
「『オムライス』は、いわゆる昔ながらのオムライスね。それよりも卵を多めにして、生クリームも使ってふんわりと仕上げたのが『スペシャルオムライス』」
なにそれ......絶対食べたいんですけど。
話は戻り、いよいよかた焼き生活から解放された日。真っ先に「食べたい!」と思い浮かんだのが、スペシャルオムライスだった。よし、かた焼き疲れの胃腸を癒しに、美好へ行こう!
注文はすでに決まっている。カウンター席に着くと同時に、スペシャルオムライス(850円)を注文。それからもちろん、ごほうびの「缶ビール」(450円)も。
サービスのたくあんをつまみにちびちびとビールを飲みつつ、厨房を眺める。ご主人が鍋を温めつつ具材を準備し、その横で女将さんが、ラーメンどんぶりで溶き卵を作る見事な連携プレイ。
スペシャルオムライスは、すぐに僕のもとへとやってきた。鮮やかに黄色いオムレツの、つるんときめ細やかな質感。これぞ50年の熟練の技だ。真っ赤なケチャップがその美しさをより映えさせる。
スプーンをすっと差し入れると、想像以上に柔らかな手応えとともに、カツンと皿に当たる。なるべく断面が美しくなるように掘削し(それがオムライスに対する礼儀な気がする)、ぱくり。表面にはハリがあり、中はふわりとろりと柔らかいオムレツが、穏やかな味のケチャップライスを包みこみ、口のなかで混ざり合う。このまろやかさが生クリームの賜物なのだろうか。ケチャップライスの具材は、ピーマン、玉ねぎ、マッシュルーム、そしてチキンではなくハムか。あ! もしかしてメニューのハムライスってこれのこと!?
ふた口めでケチャップのたっぷりかかったエリアに当たると、こんどは容赦のない甘酸っぱさが加わり、さっきとはまったく違う表情に。うむむむ、こりゃビールだな。ごくり......はぁ、この幸せな開放感!
ソースやマヨネーズで食べる生野菜たちや、ねぎとワカメのみそ汁の懐かしさもいい。さくり、ぱくり、もしゃもしゃ......さくり、ぱくり、ズズズ......ビールごくごくごく。
長年この場所で時をともにしてきたからだろう。ご夫婦の間には必要最低限の会話しかなく、だけどその信頼関係は、たった2回来ただけの僕にもしっかりと伝わってきて美しい。おふたりの連携から生み出される未食の料理はまだまだある。次回はハムライスの真相を確認してみるか、それとも中華の部を攻めてみるか......。