ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。
それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。
そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。
* * *
とある平日の午前中、仕事の打ち合わせで飯田橋へ。かなり久しぶりにお会いする編集者さんと、初めてお会いする編集者さんと3人、カフェで小一時間ほど打ち合わせをし、それはつつがなく終了した。
時刻はちょうど昼どきで、自然と「このあとどうされるんですか?」なんて会話になる。僕は予定時間より30分ほど早くこの街に着き、ふらふらと散歩をしていて、その時に見つけた店のことを思い出した。
「ここに来る途中にきしめん屋さんを見つけて、そこがなんとなく気になって、行ってみようかな~なんて思ってたんですよね」 「そうなんですね! 私たちもこれからお昼をと思ってたので、よかったらご一緒してもいいですか?」
思えばコロナ以降、様子を見ながらおそるおそる、久々に会う飲み友達と夜の街へ。なんて機会はちらほらとあったけど、このように自然な流れで、家族以外の人とランチをご一緒するなんてことはなかった。なんだか懐かしくて嬉しく、もちろんぜひぜひ! とお返事をし、できるだけ平静を装いつつも内心ウキウキと、きしめん屋に向かった。
その店は、「神田 尾張屋」といい、数軒離れた並びにある同店名のそば屋の系列店らしかった。僕がその店が気になった理由は、店頭の「ランチ特盛メニュー」。各880円で「特大かしわせいろ」「特大肉せいろ」「特大カレーせいろ」「特大海老天せいろ」と4種類。なかでも特大海老天せいろの、海老天がどれほど特大なのかが気になる。
というわけで3人で店の前にたどり着き、あらためて店頭メニューを眺める。するとあることに気がついた。よく見ると件のメニュー表に「きしめん特盛り(400g)」との記載がある。つまりどういうことかというと、各メニューの頭にある「特大」は、「肉」や「海老天」などにかかっているのではなく、「きしめん」のほうにかかっていると推測されるわけだ。
そうか~。いや、もちろんそのリーズナブルさとサービス精神は嬉しいんだけど、今は無我夢中に特盛のきしめんをすすりたいという腹ペコ具合ではないんだよな。となると、これはちょっと違うのかも。じゃあどうしようかな~。と、突然生じた迷いとともに、ひとまず入店し、テーブル席に着いた。
そこでじっくりとメニュー表を眺める。するとまず驚いたのは、そんじょそこらの酒場に負けないくらい豊富な、おつまみメニューの数々。系列のそば屋と距離が近いからこその充実ぶりなのかもしれないが、ものすごく飲める店のようだ。
加えて、きしめんの種類の多さもすごい。気になって数えてみると、「温かいきしめん」の部が27種類、「冷たいきしめん」が15種類、夏限定が4種類、冬限定が6種類、単品だけでも合わせて52種類ものきしめんメニューが存在する。そこにランチやセットものを加えると、バリエーションははるかに膨大だ。
ゆえに、迷いはさらに加速する。そんななか、うしろの席の常連さんらしきサラリーマンが店員さんに向かい、慣れた口調でこう注文した。「鬼っ子セット、あったかいほうで」。
鬼っ子セット? ......あぁ、よく見ると確かにある。「天盛セット」「とろろセット」「カレー丼セット」など、イメージが想像しやすいセットメニューのなかに、「鬼っ子セット」が。しかもその横にもうひとつ謎の「にこにこセット」なるメニューもある。どちらも980円だ。
突然、心が決まった。なんらかの具材が2個ずつ出てくるのか? はたまた、かまぼこやゆで玉子を使ってにこにこの笑顔を再現したうどんが出てくるのか? 現状まったく謎ではあるが、にこにこセット、そのかわいらしい響きに、今日の昼は身をゆだねてみようと。
ひとりの編集者さんは僕のその案にのり、「じゃあ僕は『鬼っ子セット』いってみます」と、もうひとりはオーソドックスに「かき揚げ天ぷら」のきしめんということになった。そして、真面目にお仕事中の社会人のおふたりには面目なくも、せっかく初めての店でこんなわくわくの注文をしたところだしと、ぼくは瓶ビールもいかせてもらう。
すぐにビールが到着。お通しの山菜のおひたしが小皿に3皿ぶん来てしまって面目なさは加速するが、おふたりに「どうぞ遠慮なく!」と言ってもらい、僕だけが軽い昼飲みを始める。もはや、こういう場面では遠慮などしない。ごくっごくっ......っふぅ。シチュエーション的に、ほんのりとした罪悪感というか、居心地の悪さを感じなくはなくも、やっぱり昼ビール、うま~!
数分後、我々が頼んだ料理たちが順にやってきた。かき揚げ天きしめんは、大きなどんぶりに温かいきしめん、その上に、見るからに軽快で美味しそうなかき揚げがなんとふたつものっている。鬼っ子セットの"鬼"は、どうやら"おにぎり"のことだったようだ。ビッグサイズのおにぎりふたつに、からあげもふたつ。それから温かいきしめんに、サラダに漬物と、かなりのボリュームだ。
そして僕の頼んだにこにこセット。これがなんというかまぁ、今の自分の気分にドンピシャというか、あまりにも魅力的なセットだった。
内容はまず、大きな海老天ののった温かいきしめん。それから、甘辛く煮込まれた細切りのあぶらあげが添えられた、せいろきしめん。さらには茶めしのように見えるごはんと、漬物。それぞれが適度なサイズで、まさに、初めての店であれこれ食べてみたいモードに対して、いいとこどりにもほどがある構成だろう。
それではいざ! と、まずは温かいつゆをすする。あぁ、これは、関西風のだし文化の、じんわりと心身に沁みる系の美味しさだ。そういえばあまり意識せずに入ってしまったけど、きしめんといえば名古屋の名物だったっけか? 山梨の「ほうとう」とはまた別物だよな。しかし、店名には「神田」がついているし......。
まぁ、うまけりゃいいか! 続いて肝心の麺をすすると、清純な印象で透明感のあるふわふわの口当たりが、うどんともそばとも違ってたまらない。
その余韻があるうちに茶めしをふた口ほどほおばり、せっかくの海老天がぐずぐずになってしまわないよう、その空きスペースに一時避難させる。......と、避難させながら気づいたことに、なんとこの茶めし、栗ごはんだ! それも、大きな栗がごろごろと入ったタイプではなく、あくまで塩気がメインで、細かく刻まれた栗がアクセント的に甘みを足す絶妙なバランス。最近ぐっと空気に秋の気配が強まってきたタイミングで、なんと粋なサプライズだろうか。思わずビールがすすむ。
お次はせいろだ。真っ黒なつゆにまっ白な麺をたっぷりと浸し、一気にすする。おぉ! 温かいほうとはまた違った、なんという心地いい食感。つるつる、もちもちで、こんなにも薄ぺったい麺なのに、ぶつぶつとちぎれてしまうようなこともなく、びよんびよんとした心地いい弾力とともに、ぴろぴろと口のなかに吸いこまれてゆく。
また、このつゆの、なんていうんだろうか、どこか伊勢うどんにも近いような、甘みの強い醤油味との相性が、なんとも最高なんだよな。
海老天、温きしめん、栗入りの茶めし、漬物、冷きしめん、ビール。こんなにも心地いいリズムに身をまかせられる昼飲みはなかなかない。もはやこれは、"フリージャズランチ"と言えるかもしれない。
そういえば同席の編集さんのひとりがこんなことを言っていた。「私、個人店で食事をした時に書いてもらう伝票の味わいが好きで、つい写真に撮っちゃうんです」。伝票の味わい? 今まで意識したこともなかったな。と思ってふと見てみたら、一瞬でその意味を理解した。
飲食店や酒場には、まだまだ僕の気づいていないおもしろさがあると勉強になった瞬間だった。
それにしてもきしめんって、うどん、そば、ラーメン、パスタなどに比べると若干のマイナー感はあるけど、めちゃくちゃうまい麺類だよな。は~、大満足。
......あ! そういえば、肝心の「にこにこセット」の意味を聞き忘れてしまった。まぁ、温と冷、2種類のきしめんがあるからとか、そのくらいなんだとは思うけど、次に行ったときにこそ聞いてみよっと。