松本潤主演のNHK大河ドラマ『どうする家康』が注目されている。家康は徳川幕府約260年の基礎をつくった男としては知られているが、実際にどんな性格で何を考えていたのかはあまり知られていない。そこで、専門家と子孫に聞いて真実の家康に迫った!
■家康は熟女好きだった。その合理的な理由とは?
1月8日(日)にスタートするNHK大河ドラマ『どうする家康』。
主人公の徳川家康は、戦国時代を生き抜いた武将で、天下を統一し、江戸に幕府を開いた人物だ。
しかし、同時代を生きた織田信長や豊臣秀吉に比べると、ちょっと地味で、なぜか人気が低いように感じる。それはなぜなのか? 徳川家康は本当はどんな人物だったのか? 『徳川家康という人』(河出新書)などの著書がある東京大学史料編纂所教授の本郷和人(ほんごう・かずと)氏に聞いた。
「徳川家康をひと言で言うと"史上最強の凡人"ですよ。織田信長や豊臣秀吉というカリスマ性のある天才肌の武将に比べると、とても平凡な人。ただ、表面的には律義で我慢強く、堅実で合理的な考え方をする人でした。
家康は三河(愛知県東部)の大名だったときに、尾張(愛知県西部)の織田信長と同盟を結びます(清洲同盟)。
この同盟で信長が家康に期待したのは、甲斐(かい/山梨県)の武田信玄が攻めてきたときに立ちはだかってくれること。しかし、当時の武田軍はとても強く、家康は攻め込まれたときに信長に『援軍を送ってくれ』と何度も要請しているのに信長は全然送らなかった。
戦国時代は同盟を組んでいても破棄したり寝返るのが普通で、家康は武田側に寝返ってもよかった。武田信玄からも『俺と手を組まないか?』と誘われているはずなのに、家康は律義に信長との同盟の約束を守った」
そして"徳川家康は律義な男""信用のおける人物"という評判を得たという。
また、家康は"我慢強い人"でもあった。
「豊臣秀吉が天下人になったとき、家康は秀吉から『今までの領土(三河、駿河、甲斐など)をすべてよこせ。そして、おまえは関東に行け!』と命じられます。当時の関東は今では考えられないド田舎です。左遷以外の何ものでもありません。しかし、家康は『はい。わかりました』と従います。
天下人の秀吉の怒りを買わないように気をつけて、いろいろなことを我慢しました。とにかく自分が生き延びることを最優先したのです。
その結果、8年後に秀吉は病死し、家康が天下を手に入れるのです」
信長に武田戦で捨て駒にされたり、秀吉に領土を取られて僻地(へきち)に左遷されたりしても我慢した。チャンスが来るまでじっと我慢する男、それが家康だ。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如(ごと)し。急ぐべからず」。これは家康が語ったとされる言葉だ。我慢してきた人生だったことが、よくわかる。
また、家康は鷹狩りが好きだった。その理由が合理的。
「鷹狩りでは、たくさんの勢子(せこ/野生動物を追い出す人)を使います。多いときは5000人も動員されたそうです。実は家康は、この鷹狩りを野生動物を狩る趣味というより、勢子をどう動かすかという軍事演習として考えていた面があります。それにプラスして、自分の体力維持なども考えていた。単なる遊びではなかったようです。
また、馬術にも熱心でした。理由は愛馬と心を通じ合わせておけば、自分が戦場で傷を負ったときに『ご主人さまが危ない』と察知して自らその場を逃れてくれると知っていたからだそうです。
ほかに水泳は年を取ってからも練習していたといいます。これも戦で負けて自分ひとりで逃げるときに川を泳いで渡れれば逃げられる確率が上がるからです」
最悪の事態を想定し、粘り強く生きていれば、いつかチャンスがやって来る。そのために、趣味を趣味だけで終わらせない。何か実益を伴わせる。家康は非常に合理的な考えを持った人だった。
その考え方は、女性観にも表れている。
「家康は、若いときは熟女が好きでした。しかも、子供がいる未亡人を狙っていました。
その理由は、すでに子供がいる女性であれば、自分の子供を産んでくれる可能性が高いから。戦国時代の大名は、子供をつくることも大事な仕事だったのです」
ここでも家康は、合理的な考え方をしていたのだ。
「ただ、年を取って子供をつくる必要がなくなってからは、若い女性にアプローチしていたようです」
そして、家康は堅実でもあった。
「家康は白が好きでした。城の天守閣などは漆喰(しっくい)の白で造らせていました。理由は黒だと高価な漆(うるし)を使わなくてはいけないからです。漆に比べて漆喰は安上がり。美しさよりもコストを重視するのが家康でした」
律義で、我慢強くて、堅実で、合理的な考え方をする家康。それは国づくりにも表れている。
「天下人となった秀吉は、国外に目を向けて朝鮮出兵をしますが、家康はしっかりと日本を固めます。日本の北の果てはどこなのか。南の果てはどうなっているのかなど、いろいろと調べているのです。そして、内需拡大に力を注ぎ、戦のない平和な日本をつくります。
関ヶ原の戦いのとき(1600年)の日本の人口は約1200万人でしたが、100年後には約2500万人と約2倍に増えています。それは平和で安心して子供が産めたから。治安が良くて安心して生活ができるからだと思います。また、識字率が世界一高かったのも、勉強をする環境が整っていたからです。
こうした江戸時代の土台をつくったのは、やはり家康の堅実で合理的な考え方があったからだと思います。そして、それが今の日本や日本人の国民性にも生きているのではないでしょうか」
■食べ物の好き嫌いを言わないのが徳川家
その徳川家康の子孫である、19代当主で徳川記念財団理事長の徳川家広(とくがわ・いえひろ)氏は、家康をどう見ているのだろうか。
「まず"我慢の人"というイメージがあります。普通の人ならキレてしまう局面でも我慢し続けた。例えば、織田信長から自分の妻と息子を殺すように命じられたときに実行しました。それは、とてつもない屈辱です。
でも、そのときに信長に反抗したら、自分も家族も家臣団も全員殺されてしまう。それを知っていたから妻と息子を犠牲にすることで、徳川家を守ったわけです。非常に苦しい決断でした。
家康公は家臣をとても大事にしたし、家臣団も家康公にとても忠実でした。物事の決め方も、最後は家康公本人が決断するけれども、家臣たちがそれぞれ正直にというかズケズケと意見を言い、議論して決めるという形だったと思います。
トップダウンではなく合議制のチームだった。これが天下人となってからのブレーン政治へとつながり、長い平和の基礎を築くことになるわけです。
チームでありブレーンがいたことが見えていないと『家康は豊臣家への処分が残酷だったから、邪悪な"たぬきおやじ"だ』という人物評になりますが、それは家康公本人の感情よりも、国益が優先されたからだと思います」
徳川家に代々伝わっているしきたりなどはあるのか。
「父から厳しく言われていたのは『食べ物の好き嫌いを言ってはいけない』です。これは江戸時代の将軍や大名の場合、『料理がまずい』などと言うと、料理人が処罰されてかわいそうだということの名残でもあると思います。
余談ですが、お風呂も一緒で、お風呂を沸かす係の人がいて、『熱い』とか『ぬるい』とか言うとその人が罰せられるかもしれない。だから、いつも『いい湯加減だ』と言わなければいけない。殿様というのは、実はそういう気遣いや我慢をしていたのです」
徳川宗家の当主になるために受けた教育などは?
「特にはありません。私の場合、父もほとんど戦後派なので、個人の自由に任せるという教育でした。あと、教育というか家風ですが、徳川家というと『いつも和服なんじゃないか』といったイメージを抱かれがちですが、意外にも洋風というか国際派です。
16代は少年時代の約10年間をイギリスで過ごしています。そこで、それまでの将軍家とは違うカルチャーが始まりました。17代は外交官でした。18代の父もイギリスに留学しています。私も子供の頃は米ニューヨークで育ちましたし、大学卒業後にもアメリカに留学しています。
明治維新とともに殿様たちは、華族という身分になり、西洋化していくんです。それは『洋風の生活が文明国の証しですよ』と国民に知らせる意味があったためです。
私は今年の1月1日から、19代目の当主になりました。そのための儀式も特に大げさなものではありませんでした。先祖歴代が眠る各地のお寺、神社にモーニングを着てご挨拶に行くだけです」
では、最後に徳川家康のすごいと思うところは?
「260年間にわたる平和で安定した社会の基礎をつくったということです。そして、その社会から生まれた文化は、現代の日本にも受け継がれているのだと思います」
"史上最強の凡人"ともいわれる徳川家康。
信長や秀吉のような天才ではなかったが、律義で我慢強く、堅実で合理的に考えることで、最終的に天下を獲(と)った。2023年、家康のように生きてみたら、何かいいことが待っているかもしれない。
どうする?