おなじみのキャラが極彩色なアート作品に変身(写真/PARCO MUSEUM TOKYO)おなじみのキャラが極彩色なアート作品に変身(写真/PARCO MUSEUM TOKYO)

東京・渋谷のPARCO MUSEUM TOKYOで開催中の『TANAAMI!! AKATSUKA!!/That's All Right』展(~2月13日)。1960年代からアーティスト、グラフィックデザイナー、映像作家など多彩な創作活動を展開し、86歳の現在も精力的に制作を続けている田名網敬一(たなあみ・けいいち)氏による、赤塚不二夫作品を大胆にフィーチャーした作品が並ぶ。

なぜ今、赤塚作品だったのか? その経緯、マンガへの思い、そして今回のコラボ企画への熱意を田名網氏に語ってもらった。【田名網敬一氏インタビュー Part1】

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■アートディレクターとして関わったPLAYBOY

──田名網さんは『PLAYBOY日本版』(通称『月プレ』)をはじめ、数多くの雑誌のアートディレクションを手がけられていますよね?

田名網 『月プレ』は1975年の創刊から約10年間やりました。他には音楽雑誌の『guts』『ヤングミュージック』とか。『明星』のタイトルロゴは、僕が作ったものが今でも使われていますね。

ほかにもいろいろやりましたよ。僕は武蔵野美術大学のデザイン科出身だったんで、ファインアートと並行して、グラフィックの仕事もずっとやっていたんです。ただ『月プレ』をやっているときはめちゃくちゃ忙しくて、他のことは何もできなかったですけどね。

『月プレ』は最初、こういった大判サイズの雑誌は売れないという前評価があって、いろいろ議論されたようです。でも僕自身はシカゴにあるPLAYBOY本社に何回も行って、向こうの編集者からいろいろ話を聞いたりして、それからスタートしたので、これは絶対売れるって思っていました。

創刊号は、かなりの部数を刷ったと思うんだけど、1週間ぐらいで完売しちゃって、急きょ増刷になった。雑誌で増刷なんて珍しいじゃないですか。当時、そういうサイズとか、グラフィカルな本っていうのはそれほど出ていなかったんで、初見効果がすごく大きかったんでしょうね。

──雑誌のアートディレクションをされるときの方針みたいなものはあるのですか?

田名網 もちろん、その雑誌によって考え方が全然違うんで、それぞれですけれども、やっぱり売れなきゃしょうがないんで、ビジュアル効果というか、要するに最初にパッと開いたときのインパクトとか、そういう点は非常に大事にしました。

──なるほど。今回のエキシビションもインパクトが強烈ですが、そもそものきっかけは?

田名網 話の発端は、グラビア印刷の方式が2022年末になくなる、印刷の機械自体が解体されるということでした。

その理由というのは、僕ははっきりとはわからないけど非常にコストがかかるとかいろいろあって、グラビア印刷をこのまま使っていけないということで印刷会社が決断したんですよね。とにかく2022年末の12月20日ぐらいにはすべてを停止するということになっていたんです。

そうしたら、グラビア印刷が終わる記念として、この印刷方式を使って、何か印刷物を作って、それを残したいというお話をいただいたんです。言ってみれば、グラビア印刷の作品を版画のような扱いで残すっていうこと。

最初、僕一人でそれをやるって話だったんですが、僕は赤塚不二夫さんが昔からとにかく大好きで、いつかコラボレーションをやりたいってずっと思っていたんですよ。それで、これはいい機会だなと思って赤塚さんを誘って、というか、もうお亡くなりになっていますが、一緒にやったらもっと面白いんじゃないかっていうことを提案したんです。

■赤塚不二夫氏とは新宿二丁目で飲んでいた

──田名網さんは、もともとマンガ家志望だったとか?

田名網 そうです。僕、マンガ家になりたかったんですけれども、なれなかった。スタートがそういうことなんで、マンガに対してはすごい愛着があるんです。中でも、手塚治虫先生と赤塚不二夫さんが大好きでしたね。

──赤塚さんとは、ご交流はあったんですか?

田名網 ええ。飲みに行く店がだいたい同じだったので、新宿二丁目あたりで、インゴという店だったり、アイララという店だったりで、しょっちゅう顔を合わせていました。最初に会ったのは、映画監督の若松孝二さんが、僕が赤塚さんを好きだっていうのを知ってて新宿の飲み屋さんで紹介してくれたんですよ。

そのときに、若松さんが赤塚さんに、映画の資金が足りないから出資してくれっていう話を横でしていました。こんなこと聞いてていいのかなっていう感じだったんだけど、そのまま話が進んで、最終的に赤塚さんが「いいよ」って言ってましたね。そういうのが最初の出会いでした。

赤塚不二夫さんとの思い出を語る田名網氏赤塚不二夫さんとの思い出を語る田名網氏

──田名網さんにとって赤塚さんとは、どんな存在でした?

田名網 赤塚さんは、ものすごくアバンギャルドなマンガもたくさん描いているんですよ。マンガの中でできる恐らく限界ぐらいの実験をやっている。

例えば、原寸大のマンガを描くとか。それから、全部余白に××ってコマをバッテンでずっと進行していくマンガがあるんですよ。ほとんど描かないで、一見手抜きのような。今ではとても考えられないんだけど。しかもバリバリの商業誌の中で、そういうアバンギャルドな実験をしているという点が、僕にとってはたまらなかったですね。

つげ義春さんなんかは、『ガロ』とかの一種のスモールスケールのメディアの中でやったマンガ家じゃないですか。赤塚さんっていうのは本当に何十万部っていう雑誌の中で活躍した人でしょ。そこが大きく違いますよね。

赤塚さんが、つげさんについて書いたものの中で印象的だったのは、「僕は嫌なときでも、どんなときでもマンガを描いた。つげさんは、好きなときしか描いてない」っていうの。そこに赤塚さんの自負が表れているじゃないですか。どんなコンディションであっても描くんだっていう。そういうのがカッコいいなと思うんですよね。

マンガ家になりたい一心だったのになれなかった僕からすれば、赤塚さんはスーパースターですよ。だから逆に、なんて言うのかな、すごい引け目があったんです。それで、赤塚さんに「今度いらっしゃい」とか呼ばれたりしても、なんかけっこう卑屈になっちゃってね、気軽に行ったりできなかったっていうのがあるんですよ。

今から思えば、赤塚さんは年齢的にも一つ上で近かったし、ものすごく仲良くなれたと思うんだけど、僕自身があまりにもマンガというものを崇(あが)めていたので、どうしてもなんか親しくするっていうのができなかったっていうのを、いまだに後悔しているんですけどね。

──では今回、そんな赤塚さんの作品とコラボできるということの意義は大きいと?

田名網 赤塚さんのお嬢さんのりえ子さんとは、僕、仲が良かったので、りえ子さんに、こういう企画をやりたいって言ったら快諾してくれて、彼女もすごく喜んでくれました。とにかく僕にとっては夢のような話なんです。

今回の企画に合わせて制作された画集。デ、デカすぎ!今回の企画に合わせて制作された画集。デ、デカすぎ!

『TANAAMI!! AKATSUKA!!/That's All Right』展の詳細は公式サイトにて。

◆作品の販売など集英社マンガアートヘリテージ事業の詳細は公式サイトにて。