ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。
それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。
そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。
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ありがたくも記事執筆の依頼をいただいた新規媒体の仕事において、慣れないものでひとつ、うっかりミスをしてしまった。それは「とある酒場で飲んでいる自分の写真」が必要だったのに、それを撮り忘れてしまった、というもの。
すでに取材済みである"とある酒場"では、たらふく飲み食いして、酒や料理の写真はこれでもかと撮った。なのにたった1枚、自分のまぬけヅラを撮り忘れたため、またもう一度その店に飲みにいかなければいけなくなった。正真正銘のまぬけ野郎だ。
その写真が、ミスが判明した日の翌日の昼までに必要。が、幸いなことに池袋にあるその店は、朝の8時から開いている。そこで娘を保育園へ送り、さらにその日は午前中に定期歯科検診の予定が入っていたのでそれもこなし、午前10時半。僕は、忙しそうに人の行き交う歩道を眺めつつのんきに酒を飲む、酒場の客となっていた。
もとはといえば自分のミスが原因だし、時間だって惜しい。けれども自然と顔はにやけてくる。だって、現にこうして、朝から酒が飲めているんだもん。
「これは仕事だから」と心のなかで言い訳をしつつ、親切な店員さんに事情を説明し、無事必要な写真を撮ってもらうこともできた(めちゃくちゃ恥ずかしかった)ことだし、あとはもう、つかの間の朝酒を楽しむだけだ。
ごく軽いつまみと生ビール、チューハイを飲んで、すっかりいい気分。まだ時間は午前中。久々に来た池袋の街を気ままに散策し、昼メシでも食って帰ろうと、店を出て歩きだした。
東口の大型書店「ジュンク堂」で、たびたびゲスト出演させてもらっているTBSの人気ラジオ番組「アフターシックスジャンクション」プロデュースの「アトロク・ブックフェア」が開催中と聞いていたので覗きに行ってみる。
すると、ディスプレイされたたくさんの本たちのど真ん中に、僕とスズキナオさんの最新共著『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』が並べてあって驚いた。ありがたや。
もっと驚いたのは、2階の酒関連本コーナー。ジャンルがニッチだけに著者別ではなく「酒エッセイ」「おつまみ」とざっくりとしか分けられていない、そのジャンルの 3つ目に「パリッコ」の立て札があったのだ。どんだけマニアックな本屋なんだ。思わず泣いてしまいそうになった。
圧倒的感謝を胸に、そろそろ昼メシを食べる店を探そうと、ふたたび歩きだす。なかなか決定打に欠け、30分ほど徘徊した後、ある店に目が止まった。「サン浜名」だ。
サン浜名は、池袋駅から徒歩10分ほどの、首都高の高架下にある店。筆書きの店名の両側にある「喫茶 中華」「うなぎ 和食」の文字が、見る者を混乱させる。
この付近で長く会社員をしていたこともあり、何度も前を通ったことのある店だけど、一度も入ったことはない。よく考えるとなぜだろう。こんなおもしろそうな店。と、思ったけど、よく考えると会社員時代って、仕事に対するやる気がまるでなく、毎日早く時間が過ぎないかなとばかり考えていた。
昼は決まった立ち食いそば屋にばかり行っていた。「今日はなにを食べようかな!?」なんて、わくわくする気持ちがまるでなかったのだ。そう考えると、昼間っから酒を飲んでへらへらしている今のほうが、いくぶん健康的なのかもしれない。
とにかく、今日はサン浜名が無性に気になる。入ってみることにしよう。ただ、この店の構造はだいぶ変則的で、成り立ちや関係性はわからないが、「喫茶 中華」の部、「うなぎ 和食」の部で、どうやら店が別れているようなのだ。
和食が1階、中華が2階。外観やメニュー看板からするに、1階はわりとまともそうで、2階からは若干のカオス感が漂ってくる。2階だろうな。
入り口横にはおすすめメニューが貼ってあり、店名の一部が名前に入る「サン浜焼きそば」「特浜名オムライス」や、「きくらげ定食」あたりは特に気になる。
2階へと続く階段を覗きこむと、まるで異界へと続くゲートだ。作り上、店内の様子がまったく見えないのもそそる。いざ!
店内の作りが変わっていて、入るとすぐに5席程度の小さなカウンター。後ろをふりかえると、細い廊下の奥にテーブル席スペースがいくつかあるようで、どのくらいの広さかはわからないものの、けっこう人が入っているらしい。
カウンター内の厨房にご主人、店員は若く愛想の良い女性。壁じゅうを埋めつくすのは阪神タイガースグッズで、ご主人のマスクまでそのデザイン。どうやら筋金入りのようだ。 酒類も置いているっぽいので、とりあえず瓶ビールを注文。
中華屋に入り、瓶からグラスにトクトクっとビールを注ぎ、ぐいっとやる一連の儀式の嬉しさ。どんな未知の店でも、これをやると少し落ち着く。
さて、と目の前のメニューを見て気づく。表にはおすすめメニューしかなかったが、全容がただごとじゃない膨大さなのだ。
ごはんもの、一品料理、焼き魚、スープ、飲みものにおつまみ。もはや数える気もおきないほどだし、たった1回来ただけの僕が「どれにしようかな......」なんて迷って、ベストな選択が選べるような生ぬるさじゃない。
しかもよく見るとものすごく飲める店で、おつまみの種類がこれまたすさまじいだけでなく、ビールには350円の「缶」まであるじゃないか! そっちだったか。いや~、楽しいぞここ。
が、ここで粋な注文をしてやろうなどと欲を出しては失敗する。初心者の僕の最善手は、やっぱりおすすめメニューだろう。焼きそばも気になるけれど、よりどんなものかが気になった「特浜名オムライス」をお願いすることにした。
休む間もなく次々と注文の料理をつくってゆくご主人だったが、僕のオムライスもあっという間に到着。目の前に運ばれてきたそれは、見た目はいわゆる昔ながらのオムライスで、ただ、かかっているのがケチャップではなく、デミグラス風のソースのようだ。これが"特浜名"要素なのかな?
さっそくさくりとスプーンを差しこむ。すると、もっと薄焼きっぽい手応えを想像していた玉子焼き部分の感触が、妙にぷるんとしている。その断面を見て驚いた。
玉子がものすっごくふわふわで、その厚みたるやまるで高級羽毛ぶとん! 昔ながらの薄焼き系でもなく、最近流行りのとろとろ系でもない。こんなオムライス、初めて出会ったかもしれない。
チキンライス、ではなくて、たっぷりの刻みベーコン入りのケチャップライスがコク深く香ばしくてまず、うまい。それをふわ~っと包み込む玉子のまったりとした甘さ。さらに、こってり濃厚なデミグラスソースの味も加わり、その三重奏の美しく力強いこと! ひと口ひと口に夢中になってしまう。
長年前を通りすぎるだけだったけど、こんなにいい店だったとは。それこそ会社員時代に気づいていたら、じっくり時間をかけて全品制覇だってできていたかもしれないのに......。
メニューにはふつうの「オムライス」もあり、そちらは800円。50円違いのオーソドックスオムライスはどんな味なんだろうか? あ~気になる。なにしろ、「おしたし」だけで5種類もある店だ。また、のんびりと飲みにくることにしよう。