ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。
それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。
そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。
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最近やらせてもらっているシリーズものの企画の仕事で、ちょっとした緊急事態が発生。自分のスケジュール管理能力不足が原因で、千葉県にある総武本線の「干潟駅」と「旭駅」の中間ほどにある1軒の飲食店に、その日のうちに取材に行かなくてはならないことになった。
場所を調べてみると、店がある旭市のお隣は、千葉の東端に位置する銚子市。片道は約3時間。完全に旅行の距離だ。開店時間の夕方6時から取材を始め、スムーズにいって1時間半くらいで終わったとして、一応終電はあるみたいだけど、帰ってくる元気が残っている自信がない。それに、せっかくそんな場所まで行くならば、今後の仕事に生きるネタなんかもついでに見つけてきたい。そこで妻に事情を説明してOKをもらい、急遽、銚子に1泊することにした。
すぐに旅行サイトを調べ、最安の数千円で泊まれる宿を見つけて予約。取材は無事終わり、その後、少しの時間ではあったけど、ひとりでふらりと、夜の銚子で酒を飲んだりもできて大満足。なんだかんだで、突発的銚子旅を満喫したのだった。
また、値段だけを理由に予約した「大新旅館」という宿が良すぎた。創業が今から380年近くも前の1645年という老舗らしく、戦災で焼けてしまった後に建て替えられた現在の建物も、昭和20年(1945年)に建てられたもの。なので、さすがに設備は最新ではないけれど、館内の手入れは行き届いていて快適そのもの。しかもなんとここ、古くから、伊藤博文、大隈重信、後藤新平、島崎藤村など、多くの要人や文人に愛されてきた宿なのだとか。最初はなにかの間違いかと思ったが、きちんとチェックアウトできて、そのまま泊まれてしまったことに、むしろ驚いたほどだ。
朝、町内スピーカーから流れる牧歌的なメロディーにゆったりと起こされると、まだ7時。昨日入りそびれてしまったので、さっそく大浴場へ向かう。
これまた、想像の何倍も広く快適な風呂で、宿泊客が少なかったこともあって、貸し切り状態。念入りに体を洗って湯船に身を沈め、心ゆくまで、極楽朝風呂タイムを楽しんだ。
部屋に戻ってカーテンを開けると、眼下に利根川の流れが見える。河口域が近いからか、雰囲気は漁港ムードだ。あいにくしとしとと雨が降っているが、その感じもなんだか銚子という街に似合っている感じがしていい。
チェックアウトは10時。突発旅だったので、どうしても今日書いてしまわない原稿がある。持ってきたノートPCを開き、しばし文豪気分に浸りながら原稿を書くことに。
しばくして気づくと雨は止んでいて、雲の切れ間がどんどん広がりはじめ、そこから降り注ぐ陽光が、川面をキラキラと照らしている。今は仕事中ではあるけれど、旅行中でもある。たまらず館内の自販機で350mlの発泡酒を買ってきて、湯呑みに注いでちびちびとやりつつ、全身全霊で非日常の多幸感を味わった。
10時ギリギリになんとか原稿が終わり、チェックアウトを済ます。あとは夕方までに家に帰れればいいだけだ。まずはあたりを気ままに散策し、早めの時間から一杯やれそうな、この街ならではの店を探すことにしよう。
さすが、水揚げ量全国1位を誇る銚子漁港を擁する街。うまい魚介類が食べられそうな店がちらほらと見つかる。だけどそういう店には、どこか観光地っぽさもある。もうちょっとこう、地元民のみなさんが普段使いするような、平熱の店はないだろうか。
すると、駅前からほど近い商店街に、1軒の古そうな食堂を見つけた。「吉原食堂」という名前で、完全に僕の好みドストライクの佇まい。外のメニューを見てみると、なになに、日替わりサービス品が「かつ煮定食」で、650円か。これこれ! こういうの!
食堂にしては広めの店内には、テーブル席多数と、広めの座敷もある。ほとんど11時の開店と直後に入ったが、すでに先客は2組。どちらも午前中から幸せそうに飲んでいる。僕のあとからも次々と客はやってきて、30分くらいでほとんど満席状態になった。人気店だな。「はいよー」が口ぐせらしきフロアを仕切るお姉さんの仕事っぷりも見ていて気持ちがいい。
メニューを見てみるとかなり品数豊富で、ラーメン、そば、うどん、丼もの、定食、そして単品料理と、守備範囲が幅広い。そうそう、まさにこういう店に来たかったんだよ。いや~、嬉しいな。
それにしても、見れば見るほど迷いが生じ、また、どう攻略するもんかと興奮するメニューだ。「ラーメン」は550円、「焼そば」は500円。定食類最高値の、たとえば「えびフライ定食」でも1050円。ただし、「おさしみ定食」「煮魚定食」「焼魚」定食は、世にも恐ろしき"時価"となっていて、はたしていくらくらいなんだろうか。
定食を単品に変えると、基本200円引き。そのうちの「肉どうふ」と「もつ煮」の2品だけは(小)が頼めて、それぞれ220円だ。たぶん、他の料理と違って鍋から適量よそえばいいだけという手間のかからなさからのサービスだろう。しかしながら、そのきめ細かいホスピタリティには感服するばかり。
また僕は、ドリンクメニューの中央にありながら、他よりずっと細い線で書かれているためあまり目立たない「おつまみセット」の存在を見逃さなかった。先に言ってしまうが、これは我ながらのファインプレイ。
というわけで、「ビール(中ビン)キリン」、「肉どうふ(小)」、「おつまみセット」を注文する。
おつまみセットの内容は、キャンディーチーズがふたつ、枝豆が4つ、ちょっとした豆菓子。それが、1皿にまとまっていたっていいのに、わざわざ小皿3つに分けてある。わかります? この良さ。そりゃあ、それぞれが「うめー!」と叫んでしまうほどの絶品ではないけれど、その心遣いや存在感、そして絶妙なちょうど良さに、100円をはるかに超えた価値があると、僕は思う。
大切に、ちびりちびりとつまみつつ、よく冷えたビールをぐいっ。
肉豆腐がこれまた本当に可愛らしいサイズなんだけど、たまらなく嬉しい一品。豚肉、豆腐、ねぎというオーソドックスな構成で、それがキリリと塩気強めの醤油味で煮込んである。この小鉢ひとつで瓶ビール1本ねばれと言われたら、余裕でいけるやつだ。
このあたりで、店内の状況的にも早めに頼んでおいたほうがいいと思い、先ほど注文しておいたメインの定食がやって来た。
個人的に、銚子といったらいわしのイメージが強い。たとえば天ぷら屋や天丼屋に行って、他にもいろいろとラインナップがあるなかから、いわし主体の定食を選ぶかと聞かれたら、ちょっと微妙かもしれない。が、銚子に来たらこれは頼まざるをえないだろう。
そしてやって来たのは、750円という良心価格に涙が出そうになるほどの豪華な品々だった。
みそ汁の具は、豆腐と大根と、ほうれん草の茎? だろうか。ほうれん草の力強い味と香りに、体力が回復してゆくようだ。きゅうりとくらげの酢のものや、シンプルな煮物も妙にうまい。小皿は大根おろし? と思いきや、適量のとろろだ。いい!
そしてそして、メインのいわし天。こいつがも~......サクサクの衣に包まれた肉厚ふわふわの身、それを噛みしめると、いよっ、さすが! としか言えないくらい、とれたての魚の力強い風味が口いっぱいに広がる。
ちょっと濃いめの天つゆに浸し、大根おろしとしょうがをのせてがぶり。うまい白メシをばくばく。ビールぐいーっ! ボリュームもケチケチしていないから、この幸せがずっと続くような気さえして、あぁもう、銚子万歳だ。
ビールを飲み干し、天ぷらもごはんもまだまだ残っているから、「酒(大関一合)」を常温で追加で。
今、前日には想像すらしていなかった状況に、自分がいる。なじみのない街の古い食堂で、いわし天をつまみに冷(常温)の日本酒を飲んでいる。そのシチュエーションの愉快さと、この店の名店っぷりをぞんぶんに味わい、大満足。
まだ昼を少し過ぎたばかりにもかかわらずほろ酔い気分で、ふたたび銚子の街を歩きだすのだった。さて、腹ごなしの散歩をしつつ、おみやげ屋でも冷やかしにいくかな。
パリッコ
1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。
著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。2022年には、長崎県にある波佐見焼の窯元「中善」のブランド「zen to」から、オリジナルの磁器製酒器「#mixcup」も発売した。
公式Twitter【@paricco】