桜前線と共に訪れる、謎の焦りと闘う今日この頃桜前線と共に訪れる、謎の焦りと闘う今日この頃
『週刊プレイボーイ』で連載中の「ライクの森」。人気モデルの市川紗椰(さや)が、自身の特殊なマニアライフを綴るコラムだ。今回はモールス信号や電信機でおなじみの「モールス」について語る。

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対極的なように思える「科学」と「芸術」が交差するのは珍しくありません。ヘリコプターや自転車の設計スケッチを残したレオナルド・ダ・ビンチや、チームラボなどの現代のデジタルコンテンツ集団も、アートとテクノロジーが融合した例。好奇心や新しいものへの興味、独自の発想力や想像を形にしたいという情熱を持っている彼らが、ザ・理系の科学とザ・文系の芸術の両方に惹ひかれるのは納得できます。

そんな発明×アートの融合を一番体現した人物は、サミュエル・モールスかもしれません。モールス信号や電信機でおなじみのモールスは、もともとは芸術家。彼が活躍した19世紀の人々にとって、モールスは肖像画や歴史画で全米的に有名な画家でした。

モールスは1791年、アメリカの現ボストンのエリート家庭に生まれました。名門イェール大学在学中に絵画に目覚め、絵だけで生計を立てられるほどになったそうです。彼は富裕層の肖像画やアメリカの歴史画を描きましたが、最初は「Landing of the Pilgrims」という作品で有名になりました。

イギリスで宗教的迫害を受けて北アメリカに移住した巡礼始祖を描いたこの作品で、当時の社会の宗教観と愛国心をうまくとらえて知名度を上げたモールス。写実的な技術も評価され、当時のトップアーティスト、ワシントン・オールストンに誘われて、ヨーロッパで本格的に絵画手法を学びます。

そこで数多くの美術館を訪問し、ミケランジェロやラファエロなどマイスターの作品に触れました。写真がない時代に名作を鑑賞できる経験は、今では想像がつかないほど刺激的だったはず。モールスは、「世界がもっとつながってほしい」という思いを胸にアメリカに帰国しました。

帰国後、順調にキャリアを重ねるモールス。1816年に手がけたアメリカ合衆国第2代大統領ジョン・アダムズのポートレートは、今でも美術館や行政の建物内で複製を見ることができます。そして1833年、モールスはルーブル美術館の中を描いたギャラリー画「Gallery of the Louvre」を発表。

ギャラリー画(画中画)とは、絵の中に絵を描くジャンル。映像やインターネットがない時代に、「ここの美術館はこんな内装で、こんな絵がある」と伝えつつ、過去の巨匠たちの作品を模写することで自分の技量を見せつけることができます。

このルーブルのギャラリー画を描くにあたって、モールスは「ヨーロッパにはこんなにすごい場所がある。アメリカのみんなにもパリを身近に感じてほしい」と力を入れたものの、お披露目では「エリート向けすぎる」と大批判。同じタイミングで、連邦議会議事堂の広間に飾る歴史画のコンペにも落選し、モールスは絵を描くのをやめます。

絶望したモールスは、アトリエを片づけながら昔から趣味でいじっていたものを引っ張り出します。それが後の電信機。1837年にモールスは継電器を使った電信機の実験に成功し、翌年にモールス信号を考案。そして1858年、大西洋が海底ケーブルで結ばれました。絵ではなかったものの、世界をつなげることに成功したんですね。

●市川紗椰
1987年2月14日生まれ。米デトロイト育ち。父はアメリカ人、母は日本人。モデルとして活動するほか、テレビやラジオにも出演。著書『鉄道について話した。』が好評発売中。厨二病の一環で、なぜかモールス符号をすべて覚えた。公式Instagram【@sayaichikawa.official】

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