岩手県奥州市の「黒石寺蘇民祭」が2月17日にフィナーレを迎えた。
ふんどし(下帯)姿の男たちが行列をなし、川の水を浴び、やがて小さな袋を奪い合う――そんな日本を代表する奇祭の火は、その勢いを年々弱めている。
しかし、この地域には終わってしまっても諦められない男たちがいる。
彼らの思いにじっくりと耳を傾けた!
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■かつては朝までぶっ通しの祭りだった
2月17日、妙見山黒石寺(岩手・奥州市)の『蘇民祭』が1000年を超える歴史に幕を下ろした。
下帯姿の男衆が五穀豊穣や災厄消除を願う蘇民祭は、日本三大奇祭のひとつに数えられ、古くから岩手県各地の寺や神社で開催されてきた。
国の無形民俗文化財にも指定される岩手の蘇民祭の中でも、黒石寺の蘇民祭は歴史が最も古く中核的な存在だ。
そんな伝統ある祭りが、なぜ終焉したか? 記者は下帯と足袋を鞄に詰め、開催前日に現地へと向かった。
まず訪れたのは、黒石寺がある奥州市水沢黒石町に隣接する同市・姉体(あねたい)地区、大谷翔平選手の生まれ故郷だ。
ただ、同地区に住む40代の女性がこう話す。
「この地区の住民で蘇民祭に行く人はほとんどいないと思います。子供の頃から、『あの祭りは野蛮だから行ってはいけません』と親にしつけられていましたから......」
黒石寺蘇民祭は、参加者に下帯の着用が義務づけられているが、かつては丸裸で祭りに挑む男性も多かった。
しかし、2008年の〝ポスター騒動〟が下帯必須の転機となる。同年、奥州市が制作した蘇民祭のポスターは、胸毛が生えた半裸の男性がモデルで、JR東日本が「不快感を与えかねない」と駅構内へのポスター掲示を拒否した。これが大々的に報道され、蘇民祭の存在が全国に知れ渡ることになったのだ。
祭りの運営を担う保存協力会青年部の菊地敏明部長(49歳)がこう説明する。
「丸裸で祭りに出ることには、隠し事をせず、生まれたままの姿を薬師様(黒石寺の本尊・薬師如来坐像のこと)に見せるという意味合いもある。そこは警察や市もお目こぼししてくれていたんだけど、08年のポスター騒動以降、メディアから注目されたこともあり行政の目が厳しくなりました」
黒石寺蘇民祭は、夜10時に始まり、寺の向かいにある山内川で水をかぶり身を清める「裸参り」から、お守り(蘇民将来護符)が詰まった蘇民袋を裸の男衆で奪い合う「蘇民袋争奪戦」まで、計5つの行事が夜を徹して執り行なわれ、朝6時頃に閉幕する、というのが本来のスケジュールである。だが、今回は時間短縮のために行事のひとつ「柴燈木登り」(燃え盛る松の木組みに登り火の粉を浴びて煩悩を焼く儀式)が省かれ、祭り自体は夜6時~11時までの開催となった。
■若き住職が下した歴史的決断
午後4時頃、境内に設えられたわら掛けの小屋に参加者が詰め、裸姿で下帯を締め始めた。小屋内には炭火で暖をとりながら酒を飲んでいる地元衆もいる。その他、東京から「観光気分」で来訪したという大学生グループから、「厄払いのために」隣町(花巻市)から駆け付けたという40代男性まで、参加者はさまざまだ。
記者も解説動画を見ながら人生初の下帯を巻く。小屋の外は5℃、凍える寒さだった。
午後6時、男たちのかけ声が境内にこだました。
「ジャッソウ、ジョヤサ!」
裸参りの始まりだ。200人を超える下帯一丁の男たちが行列を成し、沿道を埋め尽くす見物人を横目に、本堂から山内川に下りていく。「蘇民将来!」と叫んで川水を3度かぶり、本堂やお堂の周囲約600mを歩いて川に戻る、これを3度繰り返すのだが、約100段の石段を昇り降りする最中、濡れた下帯と足袋に体温を奪われ、冷え切った足指や股間に激しい痛みが出る。
2周目で「もう限界」と心が折れかけたとき、背中に薬師様の〝視線〟を感じ、何とか踏みとどまった。そして不思議なことに腹の底から「ジャッソウ、ジョヤサ!」と叫ぶほどに、痛みや寒さは和らいでいくのだった。
裸参りで本堂の中を通る際、参加者たちは自らの存在を知らしめるように、堂内の板扉を掌でバンバンと叩く。そのわずか3m先で座禅を組み、薬師様に祈りを捧げていたのが黒石寺の藤波大吾住職(41歳)だ。17年、35歳という若さで第40世住職に就任した6年後の昨年12月、1000年の祭りに終止符を打つ歴史的な決断を下した。
裸参りの一団が堂内の藤波住職の背後を通るとき、「ジャッソウ、ジョヤサ!」のかけ声は一段と大きくなった。そのとき、住職の胸中にはどんな思いが去来していただろうか。
■祭りを中心の担う者たちの〝聖域〟
「ちょっと待ってくれ!」
昨年12月、蘇民祭が終了すると聞いたとき、前出の菊地氏はそう思ったという。その事情を説明するとこうなる。
昨年2月の黒石寺蘇民祭はまだコロナ禍の最中。参加者数を絞る形で「裸参り」だけが執り行なわれた。その祭りが終わると、菊地氏と住職らは「来年はフルでやろう」「頑張りましょう!」などと話していたという。
ところが、「昨年11月に住職から声が掛かり、てっきり祭りの〝フル開催〟に向けた話かと思ったら、住職が口にしたのは『祭りをやめる』という話で」。
それも、3ヵ月後に控えていた今年2月の蘇民祭も開催しないという唐突な話だったという。もちろん、菊地氏は祭りの継続が困難になっている事情を理解していた。
「黒石寺側がやめるというなら仕方がありません。ただ、次の蘇民祭も廃止するというのは待ってくださいと。せめて最後くらい、夜を徹して行なう本来の姿で開催させてもらえないか? と、住職には進言させてもらいました」
即終了を打ち出す寺側と、フル開催を望む保存会。その折衷策として開催されたのが今回の縮小版の蘇民祭だった。
祭りの終了を決めた理由について、住職は黒石寺の公式サイトでこう述べている。
「祭りの中心を担ってくださっている皆様の高齢化と、今後の担い手不足により、祭りを維持していくことが困難な状況となったためです」
住職が言う「祭りの中心」とは、開催日の1ヵ月以上前から実施される、蘇民祭の準備や儀式を指す。
例えば、前述の「柴燈木登り」で使用される松の木や、〝神が宿る場〟として境内の中庭に設えられる「お立木」用の柴木を山へ伐り出しに行ったり、麻の布を編んで蘇民袋を作ったり、若枝を五角形に削り、蘇民袋に入れる升5杯分の小間木(お守り)を作ったりといった作業で、開催日の前日からは「徹夜になる」という。
こうした「祭りの中心」を担うのが黒石寺の檀家だ。寺の近隣にある「黒石地区センター」の職員によると、「蘇民祭に携わる黒石寺の檀家は10軒しかなく、70~80代の高齢者が中心」という。
「蘇民祭の準備は蘇民袋を作る家、小間木を作る家といった形で、檀家ごとに役割が決められているのですが、その作業は、各檀家の家系で先祖代々受け継がれてきた儀式であり、言い換えれば、よそ者が立ち入れない〝聖域〟のようなもの。しかし、10軒の檀家のなかでは跡継ぎがいない家が多いんです」
黒石寺の近所に住む80代の檀家の男性がこう続ける。
「私の息子は40代で、今は県外で家族と暮らしていますが、檀家は、祭りの1週間前から外部の人との接触を断ち、家中で精進に務めなければならないしきたりがあります。会社勤めじゃ1週間も休めないし、祭りのために帰省するということができません。今の若い世代が檀家を継ぐのは、現実的に難しいんです」
こうした事情をくみ、住職は祭りの存続を断念した。
「コロナ前までは何とか祭りの準備を執り行なうことができました。ただ、コロナ禍の3年間、蘇民祭は休止となり、その間に私たちの年齢も上がって、祭りを支えるだけの気力も体力も維持できなくなっているという事情もあります。もちろん、1000年も続いた祭りそのものを、私らの代でなくしていいのかって思いもありますが......住職の決断を尊重したいと思います」(檀家の男性)
■「儀式」か、「イベント」か
前出・保存協力会青年部の菊地部長は、「来年以降も、形は変わるかもしれないが、蘇民祭を残していきたい」との希望を持ち続けている。
だが、そのハードルは低くない。昨年12月、黒石寺が蘇民祭の廃止を打ち出して以降、菊地氏は住職にこんな存続策を提案した。
「檀家さんが代々受け継いできた祭りの準備作業を青年部に任せてもらえないか」
この案を住職に三度持ち掛けたが、いずれも「そこは譲れない」といった主旨の返答だったという。檀家の仕事を手伝える人材がいるのに譲らない。その真意は、どこにあるのだろうか。住職は、地元紙「胆江日日新聞」2月15日付のインタビューでこう話している。
【イベントの「祭り」と、儀式の「祭り」は違う。黒石寺蘇民祭は儀式の祭りであり、その根幹にあるのは薬師信仰。蘇民祭は薬師信仰の手段の一つの形でしかない。となると、無理してそれを維持しなくてもいい】
菊地氏がこう補足する。
「住職のなかでは、檀家が代々受け継いできた作業も含めて儀式の『祭り』であり、そこを外部の者に引き継いでしまったら、信仰の意味が薄れ、『祭り』がイベントになってしまう。だから黒石寺としては、檀家の仕事を外に出すわけにはいかない。そういうことだと理解しました」
住職の決断を尊重しながら、どうすれば蘇民祭を残せるか? 今、祭りの存続を期す地元の男衆の間では、そんな模索が続いていた。保存協力会会長の佐藤邦憲氏はこんな具体案を持っている。
「私が考えているのは、檀家さんが関わらなくてもできるものだけを残し、祭りを継続するということ。例えば、裸参りで使う山内川は寺の敷地の外にあり、これまでも保存会が主体となって執り行なってきたものだから、檀家さんの手を借りずとも継続できる。
檀家さんの存在が必須となる『柴燈木登り』や『鬼子登り』などは難しいとしても、『蘇民袋争奪戦』は麻の布や小間木を用意できれば残せるんじゃないか。ただ、蘇民祭を黒石寺から離れた別の場所でやったのでは意味がありません。黒石寺には、祭りの開催期間に寺の境内と本堂を使わせてもらえないかという話を持っていこうと思っています」
蘇民祭を残していきたいという思いはいったい、どこから来るのだろう。
佐藤氏がこう話す。
「黒石町では、数年前に幼稚園が閉園となり、今年3月末には、黒石小学校が閉校となります。そこに蘇民祭の廃止が重なってしまえば、この町は沈んでしまうのではないか。地域の賑わいを維持するためにも、蘇民祭の火は絶やしてはいけないんです」
菊地氏の思いはこうだ。
「青年部としては、祭りの名称から『黒石寺』がなくなっても、蘇民祭は残すということで決定しています。われわれにとって、蘇民祭は物心がつく頃から当たり前のようにあるものだし、生きがいでもある。失いたくないんです」
■蘇民祭は、今が正念場
午後10時前、祭りのクライマックスとなる「蘇民袋争奪戦」が始まろうとしていた。本堂では約270人の男たちがすし詰めになり、体から白い湯気を立ち上らせながら、蘇民袋が持ち込まれるのを今か今かと待ち構えている。袋が運び込まれると、「ジャッソウ、ジョヤサ!」のかけ声は雄叫びに変わり、男たちの手が一斉に伸びる。
最後に蘇民袋の締め口の部分を掴んでいた者だけがその年の災厄を免れる〝取り主〟となるが、記者は屈強な男たちに揉みくちゃにされ、立っているのがやっとの状況だった。
そのとき、後方から「最後の争奪戦だぞー! 気合入れろーっ!!」との怒号が挙がると、男たちが押し合う力はさらに増し、記者はそこから弾き出されるように本堂の階段から転げ落ちそうになった。
履いていた足袋がボロボロに破けるほど熾烈を極めた争奪戦は、開始から1時間後に決着。前出の青年部部長・菊地氏が見事に蘇民袋を奪い取り、取り主となった。
この最後の蘇民祭で、人目を憚らず男泣きする人物がいた。約20年前から黒石寺蘇民祭の運営に携わり、今年初めて、祭りの中核を担う「世話人」に抜擢された佐々木光仁氏(61歳)。彼もまた、蘇民祭の復活を志すひとりだ。
佐々木氏が涙を流した理由は、「今回の蘇民祭で念願が叶い、たった12人(の世話人)しか身に着けることができない法被と手ぬぐいをもらえた」。
もうひとつある。
祭りが始まる直前、彼は藤波住職と話す機会を得て、「蘇民祭を残したい」との思いをぶつけた。すると、住職はこう返したという。
「檀家さんと私だけで(蘇民祭を終わらせると)決めて、申し訳ありませんでした」
佐々木氏からすれば、檀家の窮状を憂い、住職としての信義を貫いて蘇民祭を止めると決めたのなら、「最後までドンと構えていてほしかったし、謝らないで欲しかった。それが悔しくてね......」。
近年、岩手県内では蘇民祭がいくつも終了している。数年前に達谷西光寺(西磐井郡平泉町)、23年には伊出熊野神社(奥州市江刺区)の蘇民祭が終わりを迎え、さらに昨年12月、黒石寺が終了を宣言した途端、光勝寺(花巻市)など3つの団体が祭りの継続を断念した。
岩手が誇る、〝1000年の奇祭〟を維持できるか。いま、正念場を迎えている。