ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。

それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。

そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。

* * *

ありがたいことに、当連載も150回目。そのお祝いということで、週プレNEWS編集部から、なんとランチ代に上限5000円の軍資金を提供してもらえることになった。ふだんは連載の性質上、自腹で食べたものについて書いているので、こんな事態は異例中の異例。というか、5000円のランチって、自分の日常生活から逸脱しすぎていて想像がつかない。

ちなみに今、そういえばなにを書いたっけ? と100回目をふり返ってみたら、まさかの、ローソンストア100の「ひじきご飯弁当」(税込216円)を食べていた。その差およそ20倍と考えると、大きすぎる進歩。人間、努力していればいいこともあるものだ(毎週毎週、好きなものを飲み食いしてただけだけですけど)。

というわけで今回は特別編。さてなにを食べよう。真っ先に思い浮かぶのは、寿司、うなぎ、ステーキ。ただそれだと、絶対に満足はできるだろうけど、満足できることが予想されすぎな気もする。

そこで考える。自分はそもそも、大衆酒場にばかり通っている人間だ。しかも近年は、なるべく怪しげな店により惹かれる傾向にある。それが楽しいんだからいいとして、40代も後半になって、きちんとした良いものや、歴史のある店を、体験として知らなすぎる気がする。つまり、老舗の伝統の味。そこで今回は、候補を老舗店に絞ってみよう。

と、予算内であれこれ探し、今の自分がもっとも興味を惹かれたのが、赤坂にある「津つ井」という店だった。

「にっぽんの洋食 赤坂津つ井 総本店」 「にっぽんの洋食 赤坂津つ井 総本店」
食事の前に、僕が調べた店の歴史をざっと説明しておこう。

創業は1950年。創業者は筒井厚惣(つつい・こうそう)さんという方で、そのおじいさまはもともと染物屋を営んでいたものの、化学染料の進出により斜陽となり、料亭「こんり亭」を開業。その影響もあって、孫であった厚惣氏は「銀座スエヒロ」で修行し、やがて茅場町で独立。5年後の1955年に赤坂へ本店を移し、現在にいたる。

料理のモットーは「食事は気兼ねなく、気楽に楽しく食べてこそ幸せを感じるものである」。そのため、箸で食べられる「にっぽんの洋食」の開発に尽力されてきたのだとか。ワインやブランデーなどの洋酒は使わず、 醤油をはじめとした和の調味料を積極的に使った、日本人の舌になじむ味わいがその特徴。


では始めさせていただきます では始めさせていただきます

そんな津つ井に、念のため開店の11時半に予約を入れてやって来た。すでに心に決めてあるメニューは、店のいちばんの看板メニュー「ビフテキ丼」だ。どんぶりものでありながら、単品でなんと税込3300円! 牛肉と白米。構成は同じでありながら、各種チェーンの牛丼とは別次元の存在であると言える。

しかも今日は、それにサラダ、赤出し、自家製お新香と、有頭海老フライまでがセットになった「ビフテキ丼&有頭海老フライセット」を食べてやろうと思っている。価格は3950円。予算にはまだ1050円の余裕があるから......よし、いける! 「エビス(中瓶)」(880円)もお願いします! という状況が、今。

店内は都会の喧騒から隔絶された空間で、静かにジャズが流れている。窓の外の日本庭園風の空間には、なんと滝まで流れている。優雅だ。他のお客さんたちもなんというか、わちゃわちゃしていない。心の余裕を感じる。みんなゆっくりと会話と食事を楽しんでいる様子で、店員さんに「ホッピーのナカ、まだ~!?」などと聞いている人はいない(そもそもメニューにない)。

なんだか今だけ僕もそんな人間になれた気がしつつ、ビールをグラスにトクトクっと注いでごくり。うむ......。

「ビフテキ丼&有頭海老フライセット」 「ビフテキ丼&有頭海老フライセット」
そして、ビフテキ丼と海老フライのセットが到着。とにかくビフテキ丼のオーラが圧倒的だ。

う、う、う、うまそう...... う、う、う、うまそう......
これが、筒井氏が生み出したビフテキ丼。たまり醤油に、みりん、砂糖などを加えたタレにくぐらせ、網焼きで余分な脂を落としながらレアーに焼き上げた黒毛和牛のロース肉が、これでもかとどんぶりメシの上にのっている。

まずは豆腐と三つ葉入りの赤だしをすすって心を落ち着け、ビフテキをひと切れ持ち上げて、ぱくり。う、うわー! なんだこれは! そりゃあ僕だってこれまでの人生で、それなりにいい肉を食べた経験くらいはある。けれどもそのどれとも違う、未体験の肉だ。

まず、こんなにぶ厚く切られているのに、噛むのが追いつかないくらいに口のなかでじゅわっと溶けてしまう。もはや液体。信じがたい。たれは見た目より甘辛すぎずにあっさりしていて、それゆえ、肉の旨味や甘い香りがものすごく引き立っている。網焼きの香ばしさのアクセントも悶絶ものだ。それらが口から鼻ではなくて、脳に抜ける感じ。やばい。


しかも近年の僕は、サシの入ったいい肉は、最初のひと切れでいいモードになってきた。それ以上は重い。にも関わらず、このビフテキは、するする食べられる。重さを感じているヒマがない。脂を落としながら焼いた効果か、それとも津つ井の料理には、魔法でもかかっているのか。

ただ無心に味わう ただ無心に味わう
徐々にバターが溶けだし、控えめにふられたコショウと肉と渾然一体となり、その味は荘厳とすら言える域に達する。たれの染み込んだごはんとのハーモニーには、言葉も出ない。 もうなにも言うことはない。どんぶりに、こんな世界があったのか......。と思いきや、今の僕はなんと、海老フライを食す権利すらも有しているのであった。

有頭海老フライ 有頭海老フライ
酸味おだやかなタルタルソースが独特で、ぶりんぶりんな海老を口いっぱいにほおばると、その旨味が最大限に引き立つ。濃厚なみその風味が味わえる頭もバリバリとかじる。もはや、目をつむってただ味わうことしかできない。食の幸せ、ここに極まれり......。

当然ながら、サラダやお新香の味わいもひとつひとつちゃんとしすぎていた。そんな今日のランチのお会計が、トータルで4830円。食べたからこそ断言できる。安い! たとえば地元の焼肉屋に行ったって、ふらりと入った酒場で2時間くらい飲んだって、このくらいの値段になるのはよくあることだろう。ならばたまには、その金額を思い切って老舗に振る。そこには、僕のような庶民にとって未体験の幸福が待っていることがある。そんなことを実感できた、150回記念のハマりメシだった。

ちなみにこちらのお店、メニューは豊富で、ランチは1000円台からあるので、機会があればぜひ、訪れてみられることをおすすめします。

【『パリッコ連載 今週のハマりメシ』は毎週金曜日更新!】

パリッコ

パリッコぱりっこ

1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。
著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。2022年には、長崎県にある波佐見焼の窯元「中善」のブランド「zen to」から、オリジナルの磁器製酒器「#mixcup」も発売した。
公式X【@paricco】

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