パリッコぱりっこ
1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。
著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。2022年には、長崎県にある波佐見焼の窯元「中善」のブランド「zen to」から、オリジナルの磁器製酒器「#mixcup」も発売した。
公式X【@paricco】
ある日、あるとき、ある場所で食べた食事が、その日の気分や体調にあまりにもぴたりとハマることが、ごくまれにある。
それは、飲み食いが好きな僕にとって大げさでなく無上の喜びだし、ベストな選択ができたことに対し、「自分って天才?」と、心密かに脳内でガッツポーズをとってしまう瞬間でもある。
そんな"ハマりメシ"を求め、今日もメシを食い、酒を飲むのです。
* * *
この連載も今回で169回目とだいぶ回数を重ねてきたが、同じ飲食店を二度紹介するのは今回が初めてだったかと思う。 ついにネタ切れ? とは思わないでほしい。というのも、以前紹介した地元の大好きな店が突然、今年の1月いっぱいで閉店してしまうことを知り、どうしてももう一度だけ、いや、可能な限り何度かは行っておきたくて、その記録を残しておきたかったので。
好きな店だから、当然頼んだものも前回と同じ「春菊天そば」になる。けれども、何度伝えたっていいじゃないですか。東京都練馬区、西武池袋線大泉学園駅南口前にある「そばうどん松本」の良さは!
チェーンではない立ち食い系(松本には椅子はあるので"系")そば店は、近年どんどん店舗を減らしており、もはや絶滅危惧種的存在だ。そんななか、僕の生まれ育った街の駅前にずっとあってくれる松本は、大げさではなく地元民としての誇りだった。
池袋にあった立ち食いそばの名店「君塚」の系譜にある店だと聞いたことがあるが、君塚も一昨年に残念ながら閉店してしまったので、その貴重さはなおさら。創業は1996年だから、歴史は30年近くにもなる。そんな松本が閉店してしまうという噂を聞いたのは地元の友達からで、あわてて確認しに行ってみたら、店頭には確かに「閉店のお知らせ」という張り紙があった。
実際に文章を読むと、やっぱりどうしても泣ける。ただ、閉店の理由はネガティブなものでなく、建物の老朽化による建て替えのためだそう。「また皆さまにいつかお会いできるよう頑張ってまいります」の言葉を心の支えに、そのいつかまで、粛々と過ごしていくのみだ。
ところで個人的な松本の思い出といえば、会社員時代。当時、定期的に大きな締め切りがやってくる仕事をしていて、僕は夜型人間ではないので、その日に向けてどんどん出社時間が早くなる。すると朝6時半から営業してくれているこの店の存在がありがたく、まだ薄暗い冬の朝、ここで熱々のそばをすすって心身を奮い立たせてから会社へ向かうのは、もはや僕にとっての儀式だった。むしろあのそばを食べることが楽しみで、あのそばがあったから、ハードな仕事をがんばれたことは間違いない。
が、今は気ままなフリーランス家業。せっかくだからビールも飲んでしまう。そもそも、ここのメニューに缶ビールがあることに気がついたのは、会社員を辞めてからだった。それまでは、ひたすらそばを食べて元気をもらう店だったから、メニューにあっても視界に入っていなかったのだろう。サービスメンマをつまみにぐいっとやる瞬間が、至福。
注文は、これまたせっかくだからよくばっておきたい。僕はカレーライスが大好物なのに、そういえばここでは食べたことがない。けれども、当然そばも食べたい。そこで、カレーライスとかけそばがセットでなんと税込650円という、お手頃にもほどがある「そばセット」を選んでみる。「春菊天」(150円)もトッピングしちゃえ。
すぐに料理が到着。お盆の上に、気取らないカレーライスと春菊天そば。なんて贅沢で、心落ち着く光景なんだろうか。「最後の晩餐になにを食べたいか?」なんて定番の話題があるけれど、今気がついた。僕にとっては、これこそがそれなのかもしれない。
初めて食べる松本のカレーは、昔ながらの和風もったりタイプでありながら、塩気とスパイス感もほどよく利いていて理想的な味わいだ。真っ赤な福神漬けを少しずつ合わせて食べるのが最高。
続いては、人生で何度食べたかわからない春菊天そば。
太め、色濃いめで、しっかりと風味のあるそば。しかしながら若干のぼそっと感があり、それが立ち食いそば好きの僕にはたまらない。だし香る甘じょっぱいつゆも完璧で、やっぱり好きすぎるな。松本の春菊天そばが......。
ほろ苦く香ばしい春菊天は、時間の経過とともにもろもろと崩れ、そば、つゆと一体になってゆく。この味が、あと2週間ほどしか食べられないなんて、なんて寂しいんだろう。
僕がいちばんよく通っていたのは先代のご主人の時代だったが、今は若い店主が引き継がれている。それでもファンの多さは変わらず、閉店の情報が広まっているからだろう。平日の午後2時くらいというアイドルタイムにも関わらず、数席のカウンターはずっと満席だった。
「また皆さまにいつかお会いできるよう」
あらためて、この言葉が胸に響く。そしてきっとそれは現実になると、僕は信じている。
1978年東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。
著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。2022年には、長崎県にある波佐見焼の窯元「中善」のブランド「zen to」から、オリジナルの磁器製酒器「#mixcup」も発売した。
公式X【@paricco】