『物語要素事典』。B5判で本文は4段組み。立項されている物語要素は1135にも及ぶ 『物語要素事典』。B5判で本文は4段組み。立項されている物語要素は1135にも及ぶ

昨年10月に出版された『物語要素事典』が、異例の事態を巻き起こし続けている。3万円弱の本なのに、売り切れ続出。発売後1週間で重版がかかり、今もなお売れ行きが止まらない!

辞書や事典は共同執筆されるケースが多い中、本書を構想し、執筆したのはたったひとりの研究者。1300ページを超える大著は、いかにして生まれたのか?

■1冊3万円弱ながら異例のヒット

『物語要素事典』が発売されたのは、昨年10月のこと。1冊2万8600円もする高価な本ながら、わずか1週間で重版。その勢いは衰えることなく、すでに3度目の重版がかかったという。

同書は延べ1万1000超の物語から要素を抽出し、1135の要素別に再配列した事典だ。採用した作品は文学に限らず、映画やマンガ、演劇、落語、昔話などさまざま。

見出し語をざっと見てみると【死体から食物】【妊娠(男の)】といった神話っぽいものから、【嘘対嘘】【首のない人】【絵の中に入る】のようなミステリの雰囲気を感じるもの、さらには【冷凍睡眠】【時間旅行】などSFみたいな要素までずらりと並んでおり、目次をひと通り眺めるだけでも短編集を読んだような気になるかもしれない。

一例として見出し語【周回】を引いてみる。そこには周回に関連する下位項目があり、最初に「男と女が、木や柱の周りをまわって結婚する」という、『古事記』でイザナギ、イザナミが天御柱(あめのみはしら)の周りをまわって国産みをした話と、大洪水の後に生き残った兄妹が木の周りをぐるぐる走ってぶつかり夫婦になった中国の伝承が挙げられている。

次の下位項目には「一人の人間が、木の周りを一周して男と女になる」コンゴの神話。そしてさらにその後には「杭(くい)につながれた状態で、グルグルまわる」という項目が続き、禅の故事である繋驢桔(けろけつ)や、『平家物語』の杭につながれた馬に乗って逃げようとする兵のエピソードが紹介される。

いったい世の中にはグルグルまわる話がどれだけあるんだと、目が覚めるような気になる。

項目のあらすじは簡潔に書かれているものの、そのチョイスにもセンスが光る。例えば【弱点】の項目で紹介されている『ドラえもん』では、ドラえもんの道具で「◯(マル)」が怖くなったジャイアンのエピソードがピックアップされており、「ネズミではなく、そこから取るのか」とシブいチョイスにうなってしまう。

事典や辞書の類いを読む目的で買う人は少ないと思うが、『物語要素事典』はどの項目を読んでも面白い。SNSでも「2万8600円で一生楽しめる」とか「小さな図書館を手に入れた」など、引くわけではなく読むために本書を購入したとおぼしき人も散見される。

■ワープロが革命を起こす

驚くことに、この事典はたったひとりの男が40年近くの時間を費やして作り上げた。愛知学院大学名誉教授の神山重彦先生(73歳)だ。

神山少年は幼い頃から、絵本を読むのが好きだったという。しかし、幼心に絵本が2種類あることに気づく。それは『桃太郎』や『かぐや姫』といったストーリーのある本、そして植物や昆虫の図鑑のようなストーリーのない本だ。その頃に、物語のある本が好きだと自覚したという。

成長した神山少年は、その後の人生を大きく左右する体験をする。

「12歳の10月に、名古屋市科学館のプラネタリウムで、ギリシャ神話の勇者ペルセウスが怪物を退治する作品を見ました。そこで思ったんです。前に『日本誕生』という映画を見たんですが、そこで描かれたスサノオのヤマタノオロチ退治に極めてよく似ているなと」

怪物メデューサを退治したギリシャ神話の英雄・ペルセウス。英雄が大蛇を退治する物語は各地に見られ、『物語要素事典』でも【蛇退治】として立項されている 怪物メデューサを退治したギリシャ神話の英雄・ペルセウス。英雄が大蛇を退治する物語は各地に見られ、『物語要素事典』でも【蛇退治】として立項されている

中学生になると、運命を決める重要な本に出合う。

「14歳の8月に星新一のショートショート(短編小説よりもさらに短い小説)に出合って夢中になったんです。これも衝撃的な物語体験で、このふたつがその後の私の人生を決めました」

ショートショートに夢中になる神山少年はそのうち、自分でも面白いショートショートを作って多くの人を喜ばせたいと思うようになる。

しかし、中学から高校にかけて数十編を試作した末に、星新一を超えることは困難だと痛感。創作ではなく研究という面から取り組もうと、大学では日本文学を専攻する。

ところが、大学での勉強は期待したものとは違った。神山青年は「人類が作ってきた物語の総体を把握したい」という思いがあったものの、一般的な研究はひとつの作品、あるいはひとりの作家を深く掘り下げるというスタイル。自分の思うような研究はできなかったのだ。

さらに当時は、星新一などのショートショートは、文学とは程遠い低級な読み物と見なされていた。そのため、卒業論文でショートショートのオチの種類を分類して分析するというもくろみもあったが、とてもそんなことを口に出せる雰囲気ではなかったそうだ。

大学卒業後は大学院に進み、そして大学の講師という職も得る。しかし「人類が生み出してきた物語全体を概観し、いつかそれらの物語を体系化したい」という思いは、日に日に募っていった。

『物語要素事典』著者・神山重彦氏 『物語要素事典』著者・神山重彦氏

1980年代、ワープロやパソコンといった新しい機器が急速に普及し始めた。ワープロを使い始めた神山先生は、文書同士の結合・分離も自在で、文書の保存や管理がとても簡単にできることを知り「これは50音順の事典が作れるな」と気づく。1986年秋のことだ。

早速、物語の事典作りに取りかかった神山先生だが、当初は「文学」という言葉にとらわれていたという。

「最初は『物語・説話等モチーフ集』という名前で、文学作品のみを取り上げていたのです。

それが、物語の構造などを研究する物語論の研究者、ジェラルド・プリンスの『物語論辞典』を40代の初めに読んで、そこでは映画も文学作品と同じように物語として扱っていることを知りました。それ以来、映画やマンガも小説と同様に物語として事典に取り入れることにしたんです」

このときに『物語要素事典』という現在のスタイルが確立した。

「それまでの文学・非文学という枠組みを捨て、『物語』という視点で小説・映画・マンガなどを見るのは、ものを見るレンズの焦点が変わったようなもので、それまで見えなかったいろいろなものが見えるようになってきました」

この柔軟で寛容な枠組みが、例えば【赤ん坊がしゃべる】という項目に『コーラン』や『神仙伝』に交じって『天才バカボン』のハジメちゃんが出てくる事典としての面白さにつながっていると言える。

■なぜ分冊にしなかったのか?

自らに課していた「文学・非文学」の枠組みを取り外し、編集方針は定まったが、日々積み重ねられていく物語要素のデータをそのままにしておくわけにはいかない。かつては簡易製本したものを配布したこともあったが、限界はある。

そんな中、神山先生はインターネットの存在を知る。これを使えばわざわざ本として印刷せずとも、広く世の中に発表できると気づき、ネットにデータをアップしたのが1998年、今から27年も前の話だ。

版元である国書刊行会の編集担当・河野さんはもともと大学で文学の勉強などもしており、そこで神山先生のWeb版『物語要素事典』のことを知ったという。

「国書刊行会に入社して『物語要素事典』を担当することになり、どこかで読んだことがある気がすると思って確認すると、大学時代にサイトをブックマークしていたことを思い出したんです」

河野さんは、もともとコンサル会社で働いていたものの、中途採用で国書刊行会に入社。そして『物語要素事典』の担当になった。

本書発売前の2年間、特に校了前の数ヵ月間は、朝出社して退勤するまでひたすらゲラ(印刷前の点検のための見本刷り)だけをチェックするという毎日が続いた。

「ほかの書籍と並行するといつまでも校了できないので、この本だけにかかりきりになりました。ゲラの残りの分量とチェックのスピードを計算して作業していました」と、まるでアスリートのトレーニングのような毎日だったという。

河野さんは、『物語要素事典』の担当としては2代目で、初代は伊藤さんという別の編集者が担当していた。伊藤さんはこう言う。

「もともとWeb版の『物語要素事典』は愛読していて、これは書籍になるといいなという、素朴な動機からすべては始まりました。神山先生にお声がけをしたのは2015年1月のことです。

売れるかどうかはもちろん考えましたけど、少なくとも損はしないだろうという確信はありました。ただ、今のような爆発的な読まれ方、売れ方は当時の想像をはるかに超えてますね」

神山先生は当初、Web版の内容をそのまま出版するとは考えておらず、ミニサイズの抄録版を作るというプランもあった。しかし、伊藤さんはそれを選択しなかった。

「Web版の分量が、今のサイズでキリよく1冊に収まりそうな分量だったこと。それから、これは通読するような読み方が想定できるので分冊しませんでした。上製(ハードカバー)函入りの合本にするのが良いと、最初から迷いはなかったですね」

Webで読める文章を本にするのは、テキストをそのままコピペして印刷するというものでは決してない。伊藤さんは編集作業について次のように語る。

「物語要素を説明する本文自体については、校正(文字の間違いを直す)をほとんど加える必要はありませんでした。校閲(内容の間違いを直す)も確認事項は多かったものの、神山先生の丁寧な仕事ゆえもろもろは正確でした。むしろ、ひたすら本のユーザーインターフェース部分をどうするかという作業でした」

例えば、Webのテキストデータを紙に印刷した場合、読みやすさの点では圧倒的に勝るものの、テキスト検索やハイパーリンクの機能がなくなってしまう。いかに紙版としての長所を引き出し、短所を補うのかという問題がある。

「紙の本ならではの『視認性の高さ』をひたすら伸ばしました。本文見出しを大胆に大きくする、他項目を探しやすいインデックス(本の側面部分の見出し)をつける、他項目への参照指示記号のデザインを工夫するなど、事典としての使い勝手を強化しつつ、巨大ショートショート集のように読み物としても楽しめる見やすさを目指しました」(伊藤さん)

77ページの抜粋。【石に化す】だけでこれほどの物語があるというのにも驚きだが、古代ローマから中世日本、近世ナポリ王国の作品と、時代も地域も異なる作品を隣に並べているのも工夫のひとつだ 77ページの抜粋。【石に化す】だけでこれほどの物語があるというのにも驚きだが、古代ローマから中世日本、近世ナポリ王国の作品と、時代も地域も異なる作品を隣に並べているのも工夫のひとつだ

紙面デザインの工夫は、伊藤さんだけでなく、神山先生、デザイナー、会社の先輩とも相談し、会社や家にあったあらゆる事典や辞書を参考に検討した。

「基本的には、過去の事典類のフォーマットの集積と、デザイナーである美柑和俊さんという巨人たちの肩に乗って作った感じですね」

途中から編集を引き継いだ河野さんによると、函や装丁にもこだわりがあるという。表紙タイトルまわりのレインボー箔と呼ばれる箔押しは特にこだわったところで、一冊ごとにその光り方や色のつき方が違うものだ。

「古今東西のあらゆる物語を象徴する意味で、極彩色のレインボー箔押しを選びました。図書館では函は用いずに本体のみとなることが多いので、図書館の棚でもずっと美しいたたずまいでいられるよう、本体の3ヵ所、表紙と背表紙、裏表紙に惜しみなく箔押ししています。

一方、店頭でも異質な魅力を放てるよう、函のほうは収録作の写本の文字などをびっしりあしらうという独特のデザインにしていただきました」

表紙、背表紙、裏表紙にはレインボーの箔押しタイトルが(写真は表紙)。一冊ごとに光り方や色のつき方が異なる 表紙、背表紙、裏表紙にはレインボーの箔押しタイトルが(写真は表紙)。一冊ごとに光り方や色のつき方が異なる

紙の本としてこれだけ話題になり異例の売り上げを記録しているが、神山先生はすでに増補したい意向があるという。「すでに、製本の限界にあるような状態なのに、これ以上どうやって増補したらいいのか......」と河野さんは頭を抱えるが、これほど多くの人に読まれているのを見ると、読者の期待も大きいのではないか。

「そうなんです。それにしても、神山先生のエネルギーは途方もなくて......汲めども尽きぬ知性と情熱にあふれた、底知れぬ存在だと感じます」

世界に物語が生まれる限り、神山先生の探求は終わらない。

●神山重彦(かみやま・しげひこ)
1951年生まれ、愛知県出身。愛知県立大学文学部卒業。名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。名古屋大学助手、山形大学助教授、愛知学院大学文学部日本文化学科教授を経て、2021年から同名誉教授。約40年かけて『物語要素事典』を編纂した

■『物語要素事典』(神山重彦、国書刊行会)
1135に及ぶ物語要素別に、延べ1万1000超の作品の筋書きを紹介した大事典。4段組み1368ページ、上製函入り。2万8600円(税込)

西村まさゆき

西村まさゆきにしむら・まさゆき

鳥取県出身、東京都在住。めずらしい乗り物に乗ったり、地図の気になる場所に行ったり、辞書を集めたりしている。著書に『ぬる絵地図』(エムディエヌコーポレーション)、『押す図鑑 ボタン』(小学館)、『ふしぎな県境』(中公新書)、『そうだったのか!国の名前由来ずかん』(ほるぷ出版)など。

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