23日、東京都知事選(2月9日投開票)が告示された。候補者のなかで大きな注目を集めているのが、昨日、都庁で出馬会見を開いた元首相の細川護熙(もりひろ)氏だ。
小泉純一郎元首相とタッグを組み、「脱原発」を掲げ都政に乗り込んできた細川氏だが、今いちピンとこない若者も多いかもしれない。なにしろ首相になったのは今から21年も前のこと。しかも16年前に政界も引退している。
そこで、改めて細川氏とは何者なのかを簡単に説明しよう。
“殿”と呼ばれることもある細川氏。事実、その家系はあまりにも華麗だ。関ヶ原の戦いなどで名を馳せた細川忠興(ただおき)の子孫で、旧熊本藩主細川家の18代目に当たる。忠興の正室となったガラシャ夫人は明智光秀の娘。母方の外祖父は戦前の総理大臣、近衛文麿(このえふみまろ)公爵である。
そんな細川氏の殿様ぶりを伝えるエピソードを、テレビ朝日コメンテーターの川村晃司氏が紹介する。
「上智大を卒業して朝日新聞の記者になった細川さんが初任地の鹿児島支局に赴(おもむ)こうと、熊本駅から列車に乗り込もうとしたときのことです。若殿の出立を祝う旧家臣団の子孫たちがホームを埋め尽くし、いつまでも万歳三唱の声がやみませんでした。このことは今も語り草になっています」
1968年、30歳のときに朝日新聞社を退社。翌年、衆議院選挙に旧熊本1区・無所属で出馬するも落選してしまう。そして、71年の参議院選挙に自民党公認で出馬し、初当選。政界入りした。
その後、熊本県知事を8年間務めるなどのキャリアを積み、92年、54歳のときに日本新党を結成し、党代表に就任。同年の参議院で国政に復帰した。
一躍、時の人になったのは翌93年。夏の衆院選で223議席と過半数割れした自民党を下野に追い込み、野党8会派で非自民連立政権を樹立。そのトップ(第79代総理大臣)に収まってしまったのだ。
当時の細川政権を一官僚として眺めていた経産省OBの古賀茂明氏がこう印象を語る。
「細川さんが日本の政治を大きく変えてくれるのでは、と期待した官僚は少なくなかったと思います。当時、私は旧通産省の会計課課長補佐として予算編成に携わっていたのですが、それまでは自民党がすべてを牛耳り、自民商工部会などにお伺いを立てないと何も決まらなかった。そんな光景は細川政権になってなくなりました。細川さんは金権腐敗打倒など、政治改革を訴えていたこともあって、若手官僚の間には細川政権を支えようというムードは強かったですね」
一時、支持率は74%までに急上昇するも、細川政権はわずか9ヵ月足らずであっさりと幕を閉じてしまった。政治評論家の浅川博忠氏が言う。
「佐川急便グループからの1億円借入金処理をめぐって自民党から追及されると、細川さんはあっさりと辞意を表明してしまったんです。消費税を廃止し、税率7%の『福祉目的税』を導入するという構想も、政権内外からの反発があると見るや、わずか2日間で引っ込めてしまった。何事もあっさりで、執着しない。権力欲も実に希薄でした。細川さんは善きにつけ、あしきにつけ、やっぱり殿様気質なのでしょう」
その後、60歳でさっさと政界を引退すると、祖母の邸宅があった神奈川県湯河原に工房と茶室「不東庵(ふとうあん)」をつくり、陶芸三昧の日々を過ごすことになった。その腕前はプロ級で、さらに絵画や書なども嗜(たしな)んでいる。
そして76歳の今、風流人としての優雅な生活を捨て、政界に戻ってきた細川氏。彼の決断が東京、さらには日本にとって、吉と出るか、凶と出るか……。
■週刊プレイボーイ5号「都知事選立候補で話題を集める元首相は、こんな人 知識ゼロからの『細川護煕』入門!」より