戦後70年を迎え、大きな問題が山積する日本の姿を海外メディアはどのように見つめ、報道しているのか?
新連載「週プレ外国人記者クラブ」第2回は、前『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長、マーティン・ファクラー氏を迎え、9月に参院本会議で可決、成立した安全保障関連法に対する最高裁判所の「違憲審査」について聞いた。
反対派の憲法学者らは違憲訴訟の準備をしているというが、はたしてそれはどの程度の効力が期待できるのか?
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─安保法制には多数の憲法学者も「違憲である」との判断を示しています。また、安倍内閣の「立憲主義軽視」の姿勢を問題視する声も大きくなっている。立憲主義を担保するのは違憲審査制です。
ドイツや韓国は憲法裁判所という特別の機関を持っていますが、日本は米国と同じように最終的には最高裁が違憲審査を行なう制度ですね。
ファクラー 世界的には、たとえ国会で決めた法律や大統領令であっても裁判所の違憲審査で「違憲」の判決が下されたことによって、政府の決定が無効となった例が数多くあります。
米国の連邦最高裁も、1964年の公民権法制定に向けて大きな役割を果たしています。公民権法が制定される以前の米国では黒人差別が公然と行なわれ、それを認める法律も存在していました。
たとえば、南部の多くの州には「人種分離法」と呼ばれる州法がありました。それを根拠として交通機関や学校、レストランなどで黒人と白人の席を分けたり、白人専用の車両や店舗を設けることが認められていたのです。
そんな中、1955年に「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」が起きます。アラバマ州モンゴメリーで公営バスの白人専用席に座っていた黒人女性に対し運転手が白人客に席を譲るよう命じ、女性がこれを拒否したために警官に逮捕され、州の簡易裁判所で罰金刑を言い渡されたというものです。そして、これをきっかけにマーティン・ルーサー・キング牧師らが住民たちに公営バスのボイコットを呼びかける事態に発展しました。
これに対し連邦最高裁は56年、「バス車内の人種分離を認めた州法は違憲である」との判断を下します。その根拠となったのは「いかなる州も合衆国市民の特権または免除を削減する法律を制定あるいは施行してはならない」と定めた合衆国憲法修正第14条です。
他にも54年には公立小学校で白人と黒人の分離教育を認めていた教育委員会に対して違憲判決を下すなど、連邦最高裁の働きが差別撤廃運動を展開する人たちを勇気づけ、公民権法の制定へと繋がっていったのです。
2015年には、連邦最高裁は「同性婚を認めないのは違憲だ」という判決を下しています。同性婚に関しては、米国の14の州で禁止されていて、96年には連邦法でも結婚を男女の関係に限定する「結婚保護法」が制定されていましたが、連邦最高裁の判断はそれも覆(くつがえ)しました。
「一票の格差問題」もグズグズ放置されたまま
─日本でも最高裁の違憲判決により法律が改正された例はあります。しかし、「一票の格差問題」では09年の衆院選、10年の参院選に対して「違憲状態」という判決を下していますが、選挙制度はその後も改正されず、違憲状態のまま12、14年に衆院選、13年には参院選が行なわれています。
また、59年の「砂川事件」裁判では、日米安保条約の違憲性について「高度に政治的な条約に関しては、一見して極めて明白に違憲無効と認められないかぎり、その内容が違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として審査を回避しました。
ファクラー 日本の政治や統治システムをウォッチし続けてきて、強く感じることがあります。それは「なぜ、日本の裁判所はこんなに力が弱いのか!?」ということです。「一票の格差問題」でも、最高裁が「違憲状態である」と判断を下しているのに、国会の動きはグズグズとしていて何年も違憲状態が放置されたまま。
こういった事態は米国では考えられません。もちろん、連邦最高裁も常に正しく機能してきたとはいえません。例えば、第2次世界大戦中に大統領令によって多くの日系米国人を強制収容したことは、今考えれば明らかに違憲ですが、そういった判断が下されることはありませんでした。ただ、それでも“憲法の番人”としての機能でいえば、日本の最高裁よりははるかに大きな働きを示してきたといえるでしょう。
立憲主義という理念の原点は「民主的な手続きを経ても誤った判断は起こりうる。それを憲法に照らし合わせて厳しくチェックする」というものです。そして、それを担保する違憲審査制が機能しなければ、ポピュリズム的な民主主義の暴走から独裁、他国への侵略行為のような事態に発展する危険性があるという理解が、アメリカでは日本よりも深く根づいていると思います。
違憲審査機関が議会と同等、あるいはそれ以上の権限を持っていなければ、立憲主義は保証されません。「三権分立」という日本の統治システムの大前提から考えても、国会で可決された安保法制に対して最高裁がどういう態度を見せるかは非常に重要だといえるでしょう。
本質的なヴィジョンが議論されていない!
─国会周辺で安保法制反対デモをやっていた人たちは、今度は最高裁を取り囲んでさらに熱い民意を示すべきでしょうね。国民の投票によって選ばれた議員たちが民主的に数の原理で法律を制定することはできる。しかし“民主主義の暴走”が起きた時にチェック機能を働かせるのが違憲審査機関の役割ですから。
ファクラー ドイツや韓国など憲法裁判所を持っている国と違い、日本・米国などでは違憲審査も「具体的な事件を解決する」という形で行なわれます。つまり、まず誰かが「安倍内閣主導で可決された安保法制は違憲だから無効にすべき」という訴えを起こす必要がある。
―慶応大名誉教授の小林節(せつ)氏は「平和的生存権」の侵害を根拠に、違憲訴訟の準備をしていますよね。
ファクラー 「一票の格差」を巡る裁判も、弁護士グループが訴訟を起こしたことで、最高裁による「違憲状態」という判決を引き出したのです。今回、国会前で抗議デモを行なっていたSEALDsの人たちには、そういった具体的な手続き面でも頑張ってほしいと思います。
今の日本は「戦後を通じて放置し続けてきた矛盾をどうするのか?」という決断の時期にきています。そもそも自衛隊という、現実の安全保障を考えれば必要であっても、憲法に照らし合わせれば合憲とは言い切れない組織の活動の範囲を新たな解釈による法律で拡大することは、あまりにも無理がある。矛盾の上に新たな矛盾を積み重ねるようなものです。
今回の安保法制可決の過程でも「議論が足りない」と言われましたが、本当は“これからの日本”をどういう国にするのかという議論が行なわれるべきです。現在の憲法第9条を理想論に過ぎない、現実の国際情勢に対応できないというのなら「では、日本はこれから軍隊を持って戦争のできる“普通の国”になるのか?」という議論をするべき。もちろん「憲法第9条を守り抜いて世界の平和主義をリードする国になる」という選択肢もあります。
そういった議論を正面から重ねていけば当然、憲法改正という動きにつながります。残念なのは、安保法制制定の過程でも「集団的自衛権を行使するとしたらホルムズ海峡か南シナ海か?」といった議論ばかりで、本質的な“これからの日本”のヴィジョンが示されなかったことです。
一体、いつまで日本は“矛盾の上塗り”を続けていくのか? その意味でも、今後起こりうるであろう安保法制に対する違憲訴訟には大きな関心を持っています。
■マーティン・ファクラー 米国アイオワ州出身。東京大学大学院で学び、1996年からブルームバーグの東京駐在員。その後、AP通信、『ウォールストリート・ジャーナル』を経て、『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長を務めた。15年7月に同紙を退職。現在は民間シンクタンク「日本再建イニシアティブ」の主任研究員。著書に『崖っぷち国家 日本の決断』(孫崎享と共著 日本文芸社)などがある
(取材・文/田中茂朗)