紛争解決請負人・東京外語大教授の伊勢崎賢治氏(右)と映画作家の想田和弘氏が提唱する、右か左かでは語れない「憲法9条改正」とは? 紛争解決請負人・東京外語大教授の伊勢崎賢治氏(右)と映画作家の想田和弘氏が提唱する、右か左かでは語れない「憲法9条改正」とは?

今年の夏に控えた参院選で争点になりそうなのが、安倍首相が強い意欲を示す「憲法改正」だ。今後、「改憲派」と「護憲派」の間で激しい論争が繰り広げられることが予想される。

そこで週プレが注目するのが、憲法9条を改正して日本も普通の国になるべきだというゴリゴリの改憲派でもなく、9条の条文には指一本触れさせないというガチガチの護憲派でもない、「第3の選択肢」の存在だ。

それは、あくまで9条の「平和主義」は守りながら、より現実に即した新しい9条を自分たちの手でつくるべきだという考え方で、「護憲的改憲論」または「新9条論」とも呼ばれている。

以前から、その必要性を訴え続け、世界の紛争の現場を知る伊勢崎賢治・東京外国語大学教授と、憲法と社会問題を考えるウェブマガジン『マガジン9』に掲載したコラム「憲法9条の死と再生」が注目を集めたニューヨーク在住で映画作家の想田(そうだ)和弘氏に、この「第3の選択肢」について語り合ってもらった!

●集団的か個別的かは重要な問題ではない

―想田さんは、元々は「護憲派」だったのでは?

想田 そう、僕は昔から「憲法9条は変えるべきじゃない」と信じてきたので、文字通りの「護憲派」でした。実を言うと、今でも護憲派のつもりなんですけれどね。

9条って、そもそもは日本が敗戦した後、「非武装化」と「非戦」という流れの中で生まれていて、本来は個別的自衛権も認めないものだったと思うんです。ところがその後、朝鮮戦争が起こって東西対立が進んで、日本国憲法を起草したGHQのマッカーサーが日本の再軍備を指示した。それで警察予備隊が生まれ、保安隊を経て今の自衛隊になり、日本人は「自衛隊は合憲」と、今まで追認してきたわけです。

僕はその時点で、「憲法9条の8割方は死んでいた」と考えていたけれど、それでも「集団的自衛権の行使は認めない」という部分だけは生きていた。たとえボロボロでも9条は一定の歯止めになると信じていたんです。

ところが昨年、安全保障関連法(以下、安保法)が成立して、最後の砦(とりで)だった集団的自衛権の行使も容認されることになってしまった。こうなるともう、9条の条文は一字一句変わってないのに自衛隊が海外で戦争に参加できてしまうことになる。

そこで僕はようやく気づいた…というか、反省したんですね。今までは、「9条の条文を守ること=平和主義を守ること」だと思い込んできたけど、それって実は甘すぎたんじゃないかと。

条文さえ守れれば平和主義を守れるというのは、僕も含めた「護憲派」の横着な考えだったのかもしれない。その思い込みが一種の思考停止というか、「メンタルブロック」になって、本当の平和主義とはなんなのか、現実に何が起きていて、自分たちはどうしたいのかという本質的な議論を避け続けてきたのではないかと思ったんです。

メディアは右か左かの「二項対立」に単純化させる

伊勢崎 「メンタルブロック」っていうのはとてもいい表現ですね。日本の、特に「護憲派」と呼ばれる人たちは「9条を守れ」と叫び続けながら、その一方で自分たちに都合の悪い現実から目を背けてきたという側面があります。ところが、それで済むうちはよかったけれど、どうやらそうもいかなくなってきた。

実は僕も今から11年前に書いた本の中で、「憲法9条に指一本触れちゃいけない」と書いているんです。それは単純に「得だったから」です。9条があれば自衛隊を海外に出さない口実になるし、日本の平和国家というイメージも長年働いていた国際紛争の現場では大きな武器になった。少なくとも、その時点ではブレーキの役割ぐらいは期待できると思っていたんです。

でも想田さんも言われたように、解釈改憲で集団的自衛権の行使が容認され、安保法が成立した今、そのブレーキも完全に焼き切れちゃった。

想田 安保法に関する議論では「集団的自衛権」と「個別的自衛権」の違いが大きな論点になっていましたよね。でも実はそれって重要な問題じゃなかった、ということにも気づいたんです。

例えば今、日本でイスラム国による「テロ」が起きたら、自衛隊は「集団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」の行使でシリアを空爆する可能性がある。だって実際、アメリカが9.11事件を受けてアフガン攻撃をした法的根拠は個別的自衛権でしたからね。

ところが僕たちはそうした実際に起こり得る可能性について、これまで一度も議論していなかった。つまり今の日本の安全保障の議論って、「集団的自衛権はダメだけど個別的自衛権はアリ」というような単純な話じゃなくなったんですよね。

伊勢崎 メディアはどうしても右か左かの「二項対立」が好きだから、そうやって単純化させちゃう。それに、そもそも日本の個別的自衛権と集団的自衛権に関する議論はヘンです。国際法で定められた「交戦権」に関する議論を完全にスルーしている。なぜなら日本の場合、9条で「交戦権」を認めてないからです。

でも、護憲派も含めて多くの人たちが言うところの個別的自衛権の行使って、現実には国際法上、「交戦権の行使」に当たるんです。相手が攻撃してきたら「必要最小限の反撃」として撃ち返す、するとまた相手が撃ってくるからこちらも撃つ…。これってもう「交戦状態」です。交戦せずにどうしても一発だけ撃ち返して終わりにしたいのなら、あとはもう抑止力としての「核武装」をするしかない、という議論になる。

想田 それはちょっと…。でも、まぁ確かにそうなりますよね(笑)。

伊勢崎氏が考える「憲法9条改正案」とは?

伊勢崎 交戦権というのは、国際法上で認められた「敵と戦って相手を殲滅(せんめつ)する権利」です。交戦権があるから戦争で敵を殺しても殺人罪には問われないし、捕虜になってもジュネーブ条約で保護の対象になる。ところが、日本では9条で認められていないから、交戦権についての議論をスルーしたまま「集団的か、個別的か」という二項対立の議論ばかりしているので、おかしなことになる。

想田 そうなんですよね。僕も昨年の夏は、その二項対立ばかりを見ていて、護憲派の人たちと一緒に「解釈改憲を許すな」という議論をずっとしてきました。でも本当はもっと本質的な部分、例えば先ほども話しましたが日本でイスラム国の「テロ」が起こったら…という視点から、日本の安全と9条の「平和主義」を守っていくためにはどうしたらいいのか? そのことをゼロベースで考えなくちゃいけないということですね。

ただ、こういうことを言うと旧来の護憲派の人たちから「護憲派を分断させようとしている」とか「想田は改憲派のトロイの木馬だ」と言われちゃうんです(笑)。

―伊勢崎さんの考える憲法9条の改正案とは、具体的にどんな内容なのでしょう?

伊勢崎 まず陸海空の自衛隊を、自衛のための戦力として憲法で規定し、「交戦権」を与えます。その上で、自衛の権利を国連憲章で定める「個別的自衛権」に限定する。さらに、その個別的自衛権の行使を「日本の施政下の領域に限定する」として、厳しい縛りをかけます。

つまり、自衛権の行使を日本が攻められた場合に限定し、しかも日本の領土と領海でしか武力行使ができないという地理的な縛りをかけることで、絶対に海外派兵ができないようにするのです。

想田 その場合、国連PKOや集団安全保障への責任はどうするのですか?

伊勢崎 武力の行使は日本の施政下に限られますから、当然、国連PKOでも武力は使えません。その代わり日本は国連の軍事監視団に非武装の自衛隊員を派遣する形で貢献する方法があると思います。そもそも国連は紛争を防ぐためにあるのであって、紛争解決のために武力を行使するのは最後の手段。日本は平和国家としてのイメージを使って紛争の予防や仲裁など貢献できることは多い。

想田 僕もそれに賛成です。

■この続き、対談の後編は明日配信予定!

■伊勢崎賢治(紛争解決請負人・東京外語大教授) 1957年生まれ。大学教授の傍ら政府や国連から請われ、シエラレオネやアフガニスタンの武装解除を指揮。近著に『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版)など。アフガニスタンでトランペットをはじめ、都内でジャズライブを定期的に開催

■想田和弘(映画作家) 1970年生まれ。台本やナレーションがない「観察映画」と呼ばれるドキュメンタリーの方法を提唱。その第1弾『選挙』(2007年)は世界の約200ヵ国で放映。第6弾となる『牡蠣工場』が2月下旬、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムほか、全国順次公開予定

(構成/川喜田 研 撮影/岡倉禎志)