政治に対する不満、救国の思いに当時との相違は…

明日で80年ーー二・二六事件は「昭和維新」の理想に燃える青年将校たちが起こし、失敗に終わったクーデターだ。

都心に兵営を置く精鋭部隊の中から1500名近くの兵が動員され、政府の要人らを殺し改革断行を求めた、前代未聞の大事件だった。

彼らはなぜこんな事件を起こしたのか。当時の時代状況から3点、遠因となる事情を挙げよう。

1929年に世界恐慌が始まると、日本もそのあおりを受けて昭和恐慌と呼ばれる不況に見舞われた。深刻なデフレが続き、中小企業の倒産が相次ぎ、失業者は増える。

この時期、特に打撃を受けたのが農村だった。東北地方では天災(三陸津波や冷害など)も加わり、生きてゆくために泣く泣く娘を身売りに出す家さえあった。

そして軍隊は当然、こうした悲惨な状況にある農家や他の貧困層からも兵をとる。部下思いの隊長ほど、彼らの家を心配し、その思いは救国の悲願となるだろう。

「私は、少なくともこれ(二・二六事件)が成功していたら、勝利者としての外国の軍事力を借りることなく、日本民族自らの手で、農地改革が成就していたに違いない、と考える」と評するのは、青年将校たちへの敬意を強く表明していた文豪・三島由紀夫である。

その頃、陸軍には「統制派」と「皇道派」、ふたつの派閥があった。どちらも自分たちで立派な国にしたいと考える点に変わりはないが、抱くビジョンに大きな違いがあった。

暴力に対して国民に免疫があった時代

統制派は、よく言えば合理的。ヨーロッパの最新の戦争(総力戦)を学び、これに勝てる体制をつくろうと合理的に考える。当然、国家総動員体制を目指すようになる。

対する皇道派は、よく言えばロマン的。日本を改造するには、余計なことをする政治家や私腹を肥やす財閥を取り除いて、天皇親政を実現するしかないと考える。こちらは直接行動も辞さない。

両派の争いが熾烈(しれつ)化するが、もとよりしたたかな政争手腕を持つのは統制派で、危なっかしいのは皇道派だ。クーデター計画を立てた磯部浅一(あさいち)一等主計の免官を皮切りに、統制派は人事面で攻勢をかける。皇道派の武器は実力行使。それは若く、正義感あふれる者の専売特許ともいえる。

平成の世で、もし首相が殺されたら大半の人は、たとえその首相が大嫌いだとしても犯人がどんなに爽やかでハンサムだろうと、やっぱり顔をしかめ、事件を不快に思うことだろう。

ところが戦前の国民の感覚は暴力に関して私たちよりむしろ幕末の人々のほうに近かったようだ。この4年前に海軍の青年将校らが首相を殺害した事件があったが(五・一五事件)、その時は実行犯の減刑を求める嘆願書が100万通以上寄せられたという。今と違ってワンクリックで「いいね」とかシェアとかできるものではないことを考えると、この数は異常だ。

それほど政治に不満があっただけではなく、手段としての暴力(いわゆる「天誅(てんちゅう)」)に対して免疫があったのではないか。事件を起こす側にとっては、その背中を押す空気が醸成されていたのではないだろうか。

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(取材・文/前川仁之)