「日本を、取り戻す。」というキャッチフレーズの下、第2次安倍政権が誕生してから間もなく3年半。この国の姿は急激に変わろうとしている。
この夏の参院選で安倍首相は、改憲勢力で3分の2以上の議席を獲得し、悲願の「憲法改正」に向けて、強い意欲を示している。
そんな中、にわかに注目を集めているのが、憲法改正の必要性を主張し、安倍政権に大きな影響力を持っているといわれる保守系市民団体「日本会議」の存在だ。その関連団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、日本会議の元会長などが役員を務め、改憲に賛同する1千万人の署名を集めようとしている。
安倍政権と日本会議はなぜこれほどまでに改憲に熱心なのか? この国を誰から「取り戻そう」としているのか? そして彼らが目指す「美しい国、日本」の姿とはなんなのか?
日本会議の背景にある「国家神道」や「新宗教」に詳しい宗教学者の島薗(しまぞの)進・東京大学名誉教授と、日本を代表する憲法学者で慶應義塾大学名誉教授の小林節(せつ)氏のふたりに「立憲主義の危機と宗教」について語ってもらった。
■自民党改憲案は、憲法が保障する思想、信教の自由を無視
―7月の参院選では安倍首相自ら「悲願」だと公言する憲法改正が重要な争点のひとつだと思いますが、そこで注目を集めているのが「日本会議」の存在です。ただし、日本会議については、その実体が明らかでない点が多いのも事実です。彼らをどう捉えるべきなのでしょうか。
島薗 『愛国と信仰の構造』(共著・集英社新書)で分析したように、私は日本会議を戦前の国家主義を支えた国家神道に極めて近い思想を持つ宗教ナショナリズム、つまり「国体論」に根ざした団体だと捉えています。
ここでいう「国体」というのは、「日本が天照大神から続く神の子孫であり、万世一系のつながりを持つ天皇家の下に途切れることなく続いてきた、世界にも他に例を見ない素晴らしい国である」という考え方で、これは今の安倍政権や日本会議がよく使う「美しい伝統の国柄」という言葉の背後に隠れているものです。
非常に心配なのは、そうした人たちが「国家主義」あるいは「全体主義的」な方向性をもって、今の政治勢力を支えているということです。今回、安倍首相がG7サミットを三重県の伊勢志摩で開催したことも、天照大神を祀(まつ)った伊勢神宮が国家神道における最高位の施設であるという文脈を見落としてはならないのです。
小林 憲法学者として日本会議について申し上げると、彼らの思想が端的に表れているのが自民党改憲草案です。『「憲法改正」の真実』(共著・集英社新書)でこの改憲草案をこと細かく点検しましたが、この草案の最大の問題のひとつが、戦前の教育勅語(ちょくご)のような道徳を憲法の下で押しつけていることにある。
「天皇」は神であり、日本はその天皇を頂く「神の国」であるという思い込みが、私が長く付き合ってきた自民党議員たちの中に根強くあります。それが日本会議の思想と共鳴してでき上がったのが改憲草案といえるでしょう。この草案は、現行憲法が保障する国民の「人権」を蔑(ないがし)ろにするものだし、「信教の自由」とも明らかに矛盾する。
だからこそ、彼らは日本国憲法を敵視し、早く廃棄したいと躍起(やっき)になっているのです。現行憲法を支える「立憲主義」や「民主主義」をも憎んでいます。
「裏切り者だ」みたいに人格攻撃が始まっちゃう
島薗 立憲主義の軽視という意味では、安保関連法制が象徴的です。
小林 僕のような憲法学者は、立憲主義は現代の国家において当然の前提だと思っていたけれど、それは大きな間違いでした。例えば、僕が「憲法とは国民ではなく国家や権力を縛るものです」と言うと、「先生、私はその憲法観を取りません」なんて平気で言い返す政治家がいる。ちなみにこれは今、総務大臣をやっている高市早苗という人の国会の場での発言ですけどね。
島薗 なぜ立憲主義かという点では我々、学者の間にも、ある種の油断があったというか、少し反省すべき点はあるかもしれません。
小林 では、立憲主義とはなんなのか。人間はそれぞれ違う顔、異なるDNA、異なる好き嫌い、思想や宗教を持っていても、皆平等でそれぞれに尊重されなくてはならないという原則の帰結です。つまり、すべての人がお互いの違いや個性を最大限尊重する社会をつくるための「国の形」、その基本的なルールを「憲法」という形で定めて、それを大切に守りながら暮らしていこうということなのです。
これは民主主義の原点ともいえるアメリカ独立宣言の精神でもあるわけです。しかし、僕がそういうことを言うと、やれ「アメリカかぶれ」だとか「それは西欧の思想だ」とか、しまいには「小林は裏切り者だ」みたいに人格攻撃が始まっちゃう。
でも、人間は生まれながらに個性的で等しく尊重されるべき存在である、というのは洋の東西を問わず近代的な憲法の本質ですよ。ところが、自民党の改憲案は「個性を持った個人の尊重」という原則を捨て去る条文になっている。
島薗 確かに、立憲主義という思想そのものは西欧から輸入されたものですが、人間ひとりひとりの人間性を尊重するという考え方は仏教や儒教にも、神道にも存在します。つまり、洋の東西を問わず、人類が過去のつらい経験を通じて学んだ普遍的な価値でもある。
小林 ところが、日本会議やその周辺にいる人たちは「日本人は皆、○○でなければならない」という奇妙な信念に固執している。例えば、日本会議系の「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の幹事長を務めている百地章(ももち・あきら、日大法学部教授)という憲法学者がいます。
以前、彼から電話があって「小林さん、終戦記念日に靖国神社や護国神社に参拝するのは日本人なら当然の社会常識ですよね?」と言うのです。「そんなことが常識とは思わないし、同意もできない」と答えたら、それ以来、口をきいてくれなくなった(苦笑)。
憲法が保障する思想や信教の自由を無視して、そういうヘンテコな「常識」を押しつけようとするのが、あの人たちの特徴です。
※この続きは明日配信予定! 大日本帝国憲法の立憲主義的な考えが変わった転換点とは?
(構成/川喜田 研 撮影/岡倉禎志)
●島薗進(しまぞの・すすむ) 1948年生まれ。宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長。専門は日本宗教史。日本宗教学会元会長。主な著書に『国家神道と日本人』(岩波新書)、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(中島岳志氏との共著・集英社新書)など
●小林節(こばやし・せつ) 1949年生まれ。憲法学者、弁護士。慶應義塾大学名誉教授。モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学名誉博士。元ハーバード大学ケネディ行政大学院フェロー。著書に『「憲法改正」の真実』(樋口陽一氏との共著・集英社新書)など。政治団体「国民怒りの声」を設立、参院選比例代表に出馬する考えを表明