「超富裕層の実態を暴いた『パナマ文書』がアメリカの貧民層の怒りを買い、トランプ大統領を誕生させた」と語る手嶋龍一氏

インテリジェンス(えりすぐられた価値ある情報)は現代社会を生き抜く武器になる――。

膨大で雑多な情報から、決断のよりどころとなる情報をえりすぐるスペシャリストにしてジャーナリスト、手嶋龍一氏はこう指摘する。

そんな彼の近著『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師 インテリジェンス畸人(きじん)伝』では、戦前に東京で活躍した“伝説のスパイ”リヒャルト・ゾルゲ、現役のインテリジエンスオフィサー(情報戦士)からスパイ作家に転身したジョン・ル・カレほか、実在した“インテリジェンス畸人たち”の知られざるエピソードが魅力的に紹介されている。手嶋氏に聞いた。

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―今回、スパイや裏切り者、詐欺師を「列伝」というかたちで書こうと思ったきっかけは?

手嶋 政治・情報都市ワシントンから帰国してみると、わが日本のあまりの情報後進国ぶりに愕然(がくぜん)とし、インテリジェンスを扱ったノンフィクション、小説、テキストを書いてきました。その最前線に身を置く情報戦士の実像が知りたいという読者の声に押されて、今回筆を執りました。

彼らは人間的な魅力にあふれた人々ですが、何しろスパイですから簡単には素顔をのぞかせません(笑)。宝石のようなインテリジェンスを得るには、ヒューミント、つまり人間力によって集めた情報が欠かせません。超一流のスパイは、このヒューミントを入手する名手。そんな彼らの生きざまをルポルタージュすれば、インテリジェンスの神髄に光を当てることができると考え、本書を書き上げました。

往年のスパイは現代のように検索サイトに頼らず、情報源の懐に飛び込んで、心を通わせながら、世界を動かす情報を得てきたのです。それを分析し抜いて、背後に潜む高度なインテリジェンスを紡ぎ出してきました。私は本書を通じて、人間力の大切さを伝えたかったのです。

―この本の中では、告発サイト『ウィキリークス』の創設者ジュリアン・アサンジ、CIAの国家機密を内部告発したエドワード・スノーデン、そしてパナマ文書など、ネットを通じて世界を騒然とさせた事例も紹介されています。

手嶋 今、情報の主戦場はサイバー空間に移りつつあります。その意味で、彼らのようなサイバー戦士は重要な役割を担っています。ただ、ヒューミントを鍛えるという点では、かつての“畸人たち”に分がありますね。人間的な面白み、深さに欠けています。

パナマ文書がトランプ大統領を生んだ

―しかし、彼らは世界を大きく動かすことになりました。

手嶋 そのとおり、本書の冒頭で書いたように、パナマ文書はトランプ大統領を生むきっかけになりました。世界の超富裕層が租税回避のためにタックス・ヘイブンを使っている実態を暴き出し、庶民の怒りに火をつけました。

タックス・ヘイブンの指南役がパナマのモサック・フォンセカ法律事務所。その極秘情報を入手して、ドイツの有力紙にリークをしたのですが、誰が漏洩(ろうえい)したのかはいまだにわからない。

超富裕層と貧民層に分裂するアメリカでは、パナマ文書問題によって負け組であるプア・ホワイト層の不満が燎原(りょうげん)の火のように広がっていった。貧しい白人労働者の怒りのマグマがトランプ大統領を生み出したのです。

―パナマ文書がアメリカの貧民層に火をつけたんですね。

手嶋 しかし皮肉なことに、彼らが選んだトランプは超富裕層。『ウィキリークス』創設者のアサンジはアナーキストですから、トランプのような人間は本来、最も嫌いな人間のはずです。

―本書で紹介された人物のなかで、お気に入りの人物は誰でしょうか?

手嶋 冷戦のさなか、西側陣営を震撼(しんかん)させたクレムリンの二重スパイ、キム・フィルビー。それから彼の父親シンジャン・フィルビー。シンジャンはインドの植民地官僚にして探検家、さらに多言語を操るアラビア学者です。大英帝国のスケールの大きさを体現する怪物。サウジアラビア建国にも関わり、サウジ王の知恵袋として祖国を手ひどく裏切り、アメリカのオイルメジャーと手を結んだ張本人です。彼こそヒューミントの達人。かの有名なアラビアのロレンスもシンジャンに比べるとスケールが小さく見えてしまいます。

―インテリジェンスの達人は日本にもいますか?

手嶋 激動の時代は達人を生みます。明治が産んだのは陸軍士官の石光真清、昭和なら外交官の杉原千畝(ちうね)でしょう。日露の戦いでは石光インテリジェンスなくして勝利なしと評されました。戦後はアメリカの庇護(ひご)の下で情報力は萎(な)えていきました。そんな状況は今も続いています。

「武器なき情報戦」を戦う

―日本は大丈夫でしょうか?

手嶋 まったく大丈夫じゃありません。日本はG7のなかで唯一、諜報(ちょうほう)機関を持っていない。かつて日本は「サダム・フセインは大量破壊兵器を持っている」というCIAの情報をうのみにし、イラクへの武力行使を同盟国として真っ先に支持した。ブッシュ政権は腕によりをかけて小泉政権にイラク情報を提供し手玉にとったのです。

一方のドイツやフランスは、超大国の前に立ちはだかってイラク戦争にあらがいました。アメリカの諜報機関は日本のためでなく、自国のために情報を集めている。日本のためじゃない。ですから、日本も国益のために独自の諜報機関を持つべきなのでしょう。

―日本でも13年にNSC(国家安全保障会議)が創設されています。

手嶋 NSCは情報を受け取って国家の舵(かじ)取りに役立てますが、情報機関じゃありません。私は単に諜報機関をつくればいいと言っているわけじゃありません。情報戦士を育てるには半世紀の年月がいります。今の日本は、国家の安全を守り抜く枠組みをつくり出すため、何をすべきか、もっと本質的な論議を尽くすべきでしょう。

―大きな国家の枠組みとはどういうことでしょう?

手嶋 これからの時代、一国が独立を全うして生き抜いていくためには力が必要です。こう言うとすぐに、日本も核武装をして強力な軍事力を持つべしと主張する人達が出てきます。でも、インテリジェンスを駆使して諸外国に対峙(たいじ)する「武器なき情報戦」を戦うという選択肢もあるのです。

しかしながら、今の日本にはそんな仕組みも、人材も育っていない。今こそ、真剣に考えるときでしょう。そういう意味で、本書で紹介したインテリジェンスの達人たちから、貴重なヒントをつかんでいただければと思います。

●手嶋龍一(てしま・りゅういち)1949年生まれ、北海道出身。外交ジャーナリスト、作家。NHKワシントン特派員として冷戦の終焉に立ち会い、FSX・次期支援戦闘機をめぐる日米の暗闘を描いた『たそがれゆく日米同盟』、続いて湾岸戦争時の日本外交の迷走ぶりを突いた『外交敗戦』(ともに新潮文庫)を発表。ワシントン支局長として2001年の同時多発テロに遭遇し、NHKから独立後に慶應義塾大学教授としてインテリジェンス論を講じ、現在も各地の大学や公的機関で後進の指導に取り組んでいる

■『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師インテリジェンス畸人伝』 (マガジンハウス 1500円+税)超一流の仕事をしたスパイ、詐欺師たちは人間的な魅力にあふれている―それは彼らが人間力により集められた情報をよりどころに生きているからだ。そんなインテリジェンスの達人たちが生き生きと描かれた本書には、これからの時代を生き抜くためのヒントがある。巻末に著者オススメ10編のスパイ小説を紹介

(取材・文/羽柴重文)