2014年12月、東京都江戸川区北小岩1丁目東部地区は無人の町となった。ここで暮らしていた約90世帯は、国の「スーパー堤防」計画のために立ち退いたのだ。
最後まで立ち退きを拒んだ4軒のうち、高橋新一さん(58)は夜勤明けで自宅に戻っても、空き地となった現場から昼寝もできないほど工事音が容赦なく響き、地域付き合いも失われたという。
隣に住む母・喜子さん(86)は「区はこれを街づくりといいますが、これでは街壊しです」と憤った。立ち退くまいと決めていた宮坂健司(62)さんも激変する環境と進行する工事とに家族が精神バランスを崩し、やむなく立ち退きを決めた。
スーパー堤防とは、150~300メートルもの幅をもつ巨大堤防で、洪水が越水しても崩れないことをウリにしている国の事業だ。1987年に始まったものの、幅数百メートルもの堤防が必要なだけに川近くの住民の大規模立ち退きを必要とする。そのため、実際に手を出す自治体はほとんどなかった。
だが江戸川区はこれに着手。区の試算では完成までに200年と2兆7千億円を要し、区内3河川周辺から9万人を立ち退かせる予定だという。本気か?
区土木部に確認すると、「何十年、何百年かかるかは算定できません。ひとつひとつの区画整理事業を粛々とやるだけです」と、当事者責任に疑問を感じさせる回答が返ってきた。
区はいったん建設予定地の住民を立ち退かせるが、その地域の堤防が完成する3年後には戻ってきたい人は戻ってもいいと触れ込んでいる。だが、わずか3年で2度の引っ越しを強いられるため、実際に区が最初に手がけた平井7丁目では82億円をかけて73戸が立ち退いたが、スーパー堤防完成後、戻ったのは半分だけ…。
また、「堤防の上に住む」ということは、河川法の縛りを受け、家の改築が自由にできないことも敬遠材料となった。例えば、自宅の地下室の増設、駐車場の拡張、増改築が自由にできないのだ。前出の高橋新一さんは「北小岩1丁目は区で一番標高が高く、水害に遭ったことがない」と工事の必要性を疑い、同時に「区はずるい」と訴える。
「スーパー堤防事業と言いながら、私たちは完成後の土地を区画整理するという区の計画で立ち退かされた。そうすれば、国のお金を使って、本来は区が負担すべき区画整理事業をほとんどタダでできるからです」
さらに高橋さんが「ずるい」と思うのは、江戸川区の荒川沿いにある平井4丁目の事例だ。ここもスーパー堤防の計画地だったが、大手不動産がマンション建設を予定。その会社はスーパー堤防の完成を待っては竣工が遅れると計画に難色を示していたが…。
「すると、国はそこを計画からあっさり外しました。そうなると、スーパー堤防は細切れで完成することになる。線でつながらない堤防ってなんなんでしょう。私が何より憤るのは、住民の反対には耳を傾けず、大企業の主張にはあっさりと折れたことです」
国の事業とはいえ、この推進には東京都も大きく関わっている。なぜなら、国の直轄事業について、都道府県は直轄事業負担金として1/3を負担する立場であり、同時に東京23区で行なわれる土地区画整理事業の認可権者は都であるからだ。
小池知事が考える「スーパー堤防」計画
小岩1丁目に次いで狙われているのは、同じ区の篠崎1丁目だ。立ち退きを拒否する数十世帯がいるため着工には至っていないが、すでに数百世帯が立ち退き、大きな空き地ができている。
小池知事はこの計画を一体どう考えているのか。2016年12月、東京都政策企画局が出した報告書「都民ファーストでつくる『新しい東京』」ではこう述べている。
「私が目指すのは、『新しい東京』です。 誰もが安心して暮らし、希望と活力を持てる東京。成長を生み続けるサステイナブル、持続可能な東京。(中略)「新しい東京」をつくるため、「セーフシティ」「ダイバーシティ」「スマートシティ」の3つのシティを実現していきます」
「セーフシティ」とは例えば、「地震が起こっても、倒れない・燃えない」街づくりを指すが、報告書では都内の隅田川等の主要河川について、大地震に対する安全性を図るため、スーパー堤防や緩傾斜型堤防の整備を推進する、と記述している。だが小池知事は江戸川区の現地視察をしたこともない。
今年5月に北区、足立区、荒川区、墨田区、台東区、江東区、中央区を流れる隅田川にできたスーパー堤防を視察したことはあるが、住民の立ち退きもなかった地域で、ビフォーアフターの“アフターのみ”のきれいな現場だけ視察して、取材陣には「水辺は東京の宝であり、どうこの資産を生かすか参考にしたい。水辺は楽しみもあるが強靭化が必要だ。おしゃれに安全を確保するということが大事」と語っている。
おそらく、江戸川区で起こったことの詳細も知らないのではないか…。事務方で粛々と事業が推進されているようだ。
今回の都議選に合わせ、市民団体「公共事業改革市民会議」や「江戸川区スーパー堤防問題を考える協議会」などが共同で江戸川区からの立候補予定者6人(自民2人、都民ファースト2人、公明1人、共産1人)にアンケート調査を実施している。スーパー堤防を知っているか、東京都に直轄事業負担金が発生することを知っているか、問題点はなんだと思うか等々を尋ねた内容だが、ふたりから回答があった。
ひとりが共産党の河野ゆりえ候補者。もうひとりが都民ファーストの田の上いく子氏(元江戸川区議会議員、元東京都議会議員)だ。田ノ上氏は区議会議員時代にはスーパー堤防に反対の声を上げていたが、今回の回答では「見直しの検討をすべき。スーパー堤防は、すべて堤防化しなければ意味がない」という、反対ともとれる内容だった。
そしてもうひとり、都民ファーストの上田令子氏(元江戸川区議会議員、現東京都議会議員)は無回答。上田氏もかつて江戸川区議会議員を務め、都議会議員では野党(みんなの党、かがやけTOKYO)議員として活動するが、一貫してスーパー堤防反対を声高に訴えていた。ところが、小池都政が発足し、都民ファーストに移籍してからはこの件に沈黙している。
市民団体によるアンケート前に、記者が上田氏に「都民ファーストに在籍しながらも、スーパー堤防計画には反対していくのか」との質問をH.P.経由で送った。だが、やはり無回答だった。
そして、今回の都議選の都民ファーストの会の公約にも「スーパー堤防」の文字はない。だが、国、都、区が200年もかかる事業を本気で継続するとも思えない。どこかで頓挫する公算は大だが、それでも言えるのは、このままでは篠崎も小岩1丁目と同じ運命を辿(たど)ることだ。
前出の通り、 篠崎でも多くの住民が立ち退いたが、まだ数十世帯の住民と妙勝寺という寺が頑なに移転を拒否している。もしこの人たちを立ち退かせるために行政代執行しようとすれば、それは江戸川区の仕事になる。小池都政、そして都民ファーストの会はそれを黙認するのだろうか。選挙の結果を問わず、これは注視されなければならない。
住民にすれば、小池知事の言うところの「おしゃれに安全を確保」するために立ち退くなど冗談ではない話だ。
(取材・文・撮影/樫田秀樹)