「抵抗勢力のドン」にして、この国の差別と戦い続けた男・野中広務の生涯とは―? *写真はイメージです

1月26日に逝去した“影の総理”は、自民党の最強フィクサーとして政敵をなぎ倒し続けながら、自身が被差別部落出身であることを公言し、差別される人々のために戦い続けた男でもあった。まさに清濁あわせのんだ生涯を、作家の菅野完が解説する。

■麻生太郎の差別発言に、野中広務は……

野中広務の訃報が伝えられると、共産党の志位委員長や立憲民主党の枝野代表、そしてかつて野中から「悪魔」と面罵(ば)された自由党の小沢一郎代表までもが「他の追随を許さない政治手腕」と最大限の賛辞で哀惜の意を表し、その死を悼みました。

しかし皮肉にも、これほど野中広務が「過去の人」であることを印象づけるものはないでしょう。現実政治にもはや何も影響力を持たないからこそ、立場の違う人々も足並みをそろえて褒(ほ)めることができるのですから。

15年前に政界を引退するまでの野中は、その絶大な影響力ゆえか、さまざまな“ふたつ名”を持っていました。「影の総理」「政界の狙撃手」などなど。一方で、その後、自民党内で力を持つこととなる、新自由主義路線とナショナリズム路線の旗手である小泉純一郎や安倍晋三など(派閥でいえば清和会=旧福田派系の人々)からは「抵抗勢力のドン」「古い自民党の象徴」と不名誉なレッテルを貼られます。

事実、野中広務は極めて多面的な政治家でした。右かと思えば左、左かと思えば右。野中の事績を追いかけると、彼の一貫性のなさばかりが目立ちます。

その象徴ともいえるのが、彼が小渕内閣の官房長官を務めていた頃の事績ではないでしょうか。小渕内閣が発足したのは、金融危機の真っただ中の平成10年。その翌年の平成11年には、国旗国歌法、通信傍受法など今から思えばその後の日本の「右コース」を決定づけるような重要な法律が次々と誕生しています。

その一方で、女性の社会進出促進や女性差別解消に法的根拠を与える男女共同参画社会基本法が生まれたのもこの年。支持層が真逆ともいえるこれらの法案をまとめ上げ、議論百出する自民党内の根回しをし、国会では粘り強く野党と折衝し法律の成立まで漕ぎ着けた政治家こそ、野中広務でした。よく言えば柔軟。悪く言えば変節漢。本当につかみどころがありません。

ですが、野中の長い政治生命のなかでたったひとつだけ一貫していたものがあるように思えるのです。

彼の訃報が流れた際、「野中広務は弱者に寄り添う政治家だった」という言葉が流布されました。しかしその表現はまだ甘いように思います。野中がやり続けていたことは、「弱者に寄り添う」というセンチメンタリズムではなく、もっと具体的で身体的な「差別と戦う」という一点だったのではないでしょうか。

野中のような政治家はもはや必要とされない

野中は要職にあったときから沖縄への熱い思い入れが目立ちました。その遠因は、彼が昭和37年に沖縄を訪問した際、タクシーの運転手が「ここで妹が日本軍に殺された」という話をして車を止めて泣きじゃくっていた光景にあると、野中自身も語っています。

しかし野中は、「泣いている弱い人」を見ればすべて優しく接するようなタイプでもありません。彼の怒りにがぜん火がつくのは「あからさまな差別の実態」を目にするときでした。その代表例が、麻生太郎による差別発言事件でしょう。

政界を引退する直前の、平成15年9月の自民党総務会の席上で、野中はこう怒りを爆発させます。

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会(当時麻生が所属していた派閥。現・志公会)の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の3人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストに就いていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

当時の麻生太郎は自民党の次世代リーダーとして頭角を現したばかり。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いです。かたや当時の野中は「抵抗勢力のドン」と烙印(らくいん)を押され「過去の政治家」との印象が拭(ぬぐ)えなくなっていました。この野中の絶叫は、当時の小泉内閣のもと目まぐるしく進む自民党の世代交代に掣肘(せいちゅう)を加えるものであると同時に、「このような人物に政治家をさせていてよいのか」という将来に向けた彼の心の叫びだったように思います。

その直後、部落差別解消のために野中が尽力してきた「人権擁護法案」は衆議院解散とともに廃案となり、それを見届けるかのように彼は政界引退を宣言します。

■なぜ野中広務は必要とされなくなったのか

それから15年。野中が職業政治家として最後に戦った麻生太郎のような人物が政界では栄華を極め、地方議員からの叩き上げだった野中とは正反対の世襲議員ばかりが閣僚の席を占めるようになりました。

そして国会では、野中が活躍していた頃のような活発な議論は発生せず、ただただ官邸の方針に従うだけの陣笠(じんがさ)議員だらけになっています。自民党も国会も無視して、官邸直属の諮問会議で法案の素案や人事案などすべての物事が決定される今の仕組みでは、野中のような政治家はもはや必要とされないのです。

「痛みの中に体をおけるひと」だった

平成26年2月、政界を引退していた野中は参院の調査会に参考人として呼ばれます。このとき野中は、安倍政権が外交・安全保障や経済政策で偏った立場のブレーンを集めて政策を決めていると指摘し「議会制民主政治は機能不全となる。今日、相当に危険な事態になっているのではないかと心配している」と、すべてが官邸サイドの思惑だけで動く政権運営に警鐘を鳴らしています。

安倍政権のように万事を官邸が取り仕切る、意思決定の早い政治のあり方と、野中が「影の総理」として君臨していた当時のようになんでも党内や議会で揉(も)んで慎重に事を運ぶ、不合理さ含みのスローな政治のあり方。このふたつのどちらが正しいか、私には判断がつきません。

ただひとつだけ、おそらくではありますが、断言できることがあります。

野中が引退を表明したとき「議員引退の撤回を求める緊急要請書」が彼の元に届けられました。送り主はハンセン病訴訟全国原告団協議会ら、ハンセン病差別に苦しんだ人々です。彼らは野中を「痛みの中に体をおけるひと」と評しているといいます。

「痛みの中に体をおけるひと」。

政治家としておそらく最高の栄誉であろうこの冠は、差別と戦い、差別の被害に遭う人々を支え続けた、野中広務の頭上にこそふさわしいものであると、私は思うのです。

●菅野完(すがの・たもつ)1974年生まれ、奈良県出身。『日本会議の研究』(扶桑社新書)で昨年度の大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞を受賞。昨年10月に始まった会員限定メルマガも好評。【https://sugano.shop】

【参考文献】御厨貴・牧原出編『聞き書 野中広務回顧録』(岩波書店、2012年)/魚住昭『野中広務 差別と権力』(講談社、2004年)/野中広務・辛淑玉『差別と日本人』(初版)(角川oneテーマ21、2009年)