日本ではお笑い芸人が権力を堂々と批判することは少ないが、昨年末の『THE MANZAI』でウーマンラッシュアワーが原発など様々な問題を風刺するネタを披露したことで「お笑いと政治の関係」がホットな話題になっている。
芸人でもあり、コメンテーターとしても活躍する「パックンマックン」のパックンこと、パトリック・ハーラン氏はこの議論をどう見ているのか?
前編記事(「お笑いに政治を持ち込むな」という空気に縛られるな!)では、欧米における政治風刺の歴史をひも解いたが、後編では日本の芸人が権力批判をしにくい理由、そして昨年大晦日の『笑ってはいけない』で問題になった“黒塗り”についても斬り込む!
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─先ほど、アメリカの政治家はお笑い芸人にとって、ツッコミどころ満載の「ネタの宝庫」だというお話がありました。確かにトランプ政権の定例記者会見を見ていると、ほとんど毎日、報道官が記者たちから激しいツッコミを入れられて、まるで「ツッコミショー」を見ているようです。
一方、安倍政権の定例記者会見を見ると、菅官房長官の発言に「そこ、ツッコミどころでしょ!」と感じることは多いけど、しつこくツッコミを入れる記者は少ない。
パックン 確かにアメリカと比較すると、日本のメディアは政治に厳しいツッコミを入れないことが多いし、そんなメディアに対して国民もツッコミを入れない。アメリカだと、きちんと政府にツッコミを入れないメディアに対しては視聴者からツッコミが入って「●●ネットワークのニュースは見ない」などの不買運動に繋がることもあります。
そういう現象を「Voting with your feet」(足で投票する)というのですが、メディアごとに政治的スタンスは異なるにせよ、国民のツッコミがあるからメディアもそれぞれの立場で政治にツッコミを入れ続ける。そしてメディアも国民も「表現の自由」は守られるべきという意識が強いから、お笑いでも権力を風刺したりすることが当たり前になる、という土壌があります。日本ではそのへんの意識が希薄なようですよね。
─そんな状況で、芸人に権力批判を期待するのは酷(こく)ですよね…。
パックン 芸人の立場はすごく弱いですよ。我々、中堅以下の芸人の代わりはいくらでもいますから。日本とアメリカの芸能界の大きな違いは「規模」と「多様性」。日本だとギャラの単価が低いのでひとつの局だけで仕事していたのでは食えないし、問題発言をして各局から干されると、もう生きていけなくなる。
アメリカはそこがちょっと違って、例えば、ビル・マーというコメディアンは失言により4大ネットワークから干された後に、ケーブル局で見事な復活を遂げました。毒舌のマーはABCで、その名も『ポリティカリー・インコレクト』(政治的に正しくない)というトーク番組を持っていたんですが、9.11同時多発テロで当時のブッシュ大統領がテロリストを「臆病者」と言ったことに対し「我々は遠隔地からミサイルを発射して人を殺している。どちらが臆病者なのか」といった無神経な発言をして被害者遺族や多くの国民を傷つけた。
これによりスポンサーが撤退し番組は終了したのですが、その後、ケーブル局のHBOで『リアルタイム・ウィズ・ビル・マー』をヒットさせ以前よりも大人気になったんです。
アメリカでは、たとえ4大ネットワークで干されても他でやっていけるチャンスがある。でも、日本では「干されたら最後」みたいな感じがあるじゃないですか。何しろ、よしもとだけでも6千人ものタレントを抱えているわけですから。そういう意味では、芸人に「なんで政治にツッコまないんだ!」とツッコむのは、確かに酷かもしれませんね。
―そもそも、政治的なお笑いに対する需要がどこまであるかもわからないですしね。
パックン お笑いの基礎は、芸をする側と見る側が同じ文化を共有することなんです。モノマネという芸が成り立つのは、ネタになる有名人をみんなが知っているから。なぜ政治家のモノマネが難しいのかというと、政治家の発言やイメージをみんながそこまで共有しているわけではないから。そういう面もあると思います。
弱小事務所の「ガイジンタレント」ですから…
─なるほど。音楽の世界では、海外だとミュージシャンが政治的な発言をするのは珍しいことじゃないし、ロックは元々「反体制」がバックボーンのひとつでもあったりします。でも、日本ではミュージシャンが歌詞に政治的なメッセージを込めたりすると賛否両論が巻き起こることが多いですよね。
パックン そこにはふたつの理由が考えられます。まず単純に、聴衆がついていけない。多くの人は興味のない政治よりも恋愛とか家族とか自分が共感できる内容の音楽が聞きたいじゃないですか。もうひとつは、政治に関心があったとしても、ミュージシャンの政治理念が自分とは合わないことがわかると、それまで好きだった音楽が楽しめなくなる。
音楽ではないですが僕自身もそういう経験があって、俳優としても映画監督としてもクリント・イーストウッドが大好きだったんだけど、彼が共和党の全国大会で、誰も座っていない椅子にオバマが座っているという体(てい)ですごく下品なひとり芝居をやったのを見て大ショックを受けて、大好きだったイーストウッドが僕の中で“許されざる者”になっちゃった。
お笑いや音楽に「政治を持ち込むな」と言っている人たちには、そういう気持ちを味わいたくないというのもあるのかもしれません。
─「政治とお笑い」に関連して、昨年大晦日の日本テレビ系『笑ってはいけない』で問題になった“黒塗り”について、「ポリティカル・コレクトネス」の観点からパックンの考えを聞かせてください。
パックン 「表現の自由」は守られるべきだと主張している僕が「黒塗りは黒人差別に繋がるからダメだ」と言ったら、偽善者だと思われても仕方がないんだけれど、この問題に関しては敢えて偽善者になります!
アメリカにはかつて「ミンストレル・ショー」という、顔を黒く塗った白人が黒人を演じるショーがありました。そこに登場する黒人は怠け者だったり暴力的だったり白人女性の尻を追いかけたり、ひどくネガティブなもので、それをバカにして笑いをとる演劇文化が黒人差別を助長した。こういう歴史を知る人たちにとっては、黒塗りは受け入れられないものなんです。
もちろん、日本には酷い黒人差別の歴史も奴隷制度の歴史もないから「それはアメリカの話で日本には関係ないでしょ!」という主張も理解できます。しかし、日本にも多くの黒人の方々が住んでいるし、今は日本のお笑い番組もネットを通じて海外でも見られるじゃないですか。
だから「日本では問題がない」と思っても、それが自分の知らない場所で、思わぬ形で人を傷つけて、それが自国に対する激しい反発になって返ってくる可能性もあるということは理解する必要があると思います。
─日本にいながら「アメリカでは絶対にやっちゃいけないこと」をすべて理解するのは難しいし、ネットを通じてメディアがグローバル化する中で、海外の誰かのことまで気にしながらネタをやらなきゃいけないっていうのは悩ましい問題ですよね?
パックン もちろん、社会の常識を乗り越えることは芸人が一番挑戦しなきゃいけないことだし、他国の文化まで意識して自制することで芸の幅を狭めるのはもったいないことだと思います。
もちろん、際どいこともやっていいですよ。ただ、やるならばリスクを念頭に入れてやるべきでしょう。その上で、議論を呼び起こすに値する面白さがある、大事な問題なんだという必要性があれば、多少の批判を浴びても挑戦する意義はあると思います。
僕自身はふたりの子供と35年ローンを抱えた、弱小事務所の「ガイジンタレント」ですから…と「自虐」をかませつつ、「挑戦のしすぎには気をつけてね」なんて、ちょっと空気を読んだ発言でお許しいただければと思います。
(取材・文/川喜田 研 撮影/保高幸子)
●パトリック・ハーラン 1970年生まれ、米国コロラド州出身。ハーバード大学卒業後、1993年に来日。吉田眞とのお笑いコンビ「パックンマックン」で頭角を現す。最新刊『世界と渡り合うためのひとり外交術』(毎日新聞出版)など著書多数。BS-TBS『外国人記者は見た+日本inザ・ワールド』(毎週日曜夜10時~)のMCを務める