日本にFTAを求める理由として、トランプ大統領は対日貿易赤字を挙げているが、「貿易赤字が国の経済をダメにするのであれば、とっくに米国はダメになっている」と指摘するソーブル氏 日本にFTAを求める理由として、トランプ大統領は対日貿易赤字を挙げているが、「貿易赤字が国の経済をダメにするのであれば、とっくに米国はダメになっている」と指摘するソーブル氏

9月末の日米首脳会談で「TAG」(a Trade Agreement on goods=物品貿易協定)の締結に向けて交渉に入ることが合意されたと日本政府は発表した。交渉対象は「物品だけ」と説明しているが、サービスも含む実質的なFTA(自由貿易協定)を目指す米国とのズレが浮き彫りになっている。

強硬的なトランプ政権によって、FTAへと押し切られてしまうのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第130回は、元「ニューヨーク・タイムズ」東京支局記者で、現在は「アジア・パシフィック・イニシアティブ」客員研究員を務めるカナダ出身のジャーナリスト、ジョナサン・ソーブル氏に聞いた――。

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――米国は合意文書に「TAG」という言葉を用いておらず、これは事実上のFTA交渉開始ではないか?という批判が相次いでいます。

ソーブル それは正しい見方で、事実、米国では「日本とのFTA」として認識されています。日本はもともと自由貿易協定の枠組みに入ることには消極的でしたが、FTAのような2国間協定では米国の圧力をモロに受けるため、多国間の自由貿易協定であるTPP(環太平洋パートナーシップ協定)を推し進めてきました。ところが、トランプ政権になってから米国は2国間協定にシフトし、日本にもその矛先が向けられた。日本としては、TAGという言葉を使って協定の範囲をできるだけ狭く定義するしかなかった、というのが苦しい本音でしょう。

そもそも米国が日本にFTA交渉を求めている理由は、対日貿易赤字が膨れ上がっているからですが、貿易赤字を一概に「悪いもの」と決めつけることは間違っています。貿易赤字が国の経済をダメにするのであれば、とっくに米国はダメになっているはずです。

たとえば、私は毎日のように近所のスーパーで買い物をしますが、この行為を2者間のトレードとして考えれば、スーパーに対して私は一方的に赤字を出し続けています。しかし、だからといって私の経済が破綻するかといえば、そんなことはない。対スーパーの収支は赤字でも、別のところから収入を得ているからです。買う物が売る物より多いことは、必ずしも悪いことではない。その大前提からトランプ政権は間違っています。

このように、本来は「貿易赤字=悪、貿易黒字=善」とは言い切れないのですが、皮肉なことに、日本の産業界の主流な考え方と、トランプの考え方は似ています。日本は戦後、輸出産業で経済発展を進めてきた歴史があり、貿易黒字国であることを誇りに思ってきました。そして、製造業への強いこだわりを持っている点でも日米は共通しています。しかし、国境を越えて売り買いされるのは、製造業の商品である「物」だけではありません。金融業、サービス業、またエンターテインメント産業のコンテンツなども売り買いされているし、むしろ現在の世界経済ではこういった商品のほうがトレンドと言えます。

確かに米国は製造業の貿易では赤字ですが、それ以外の産業では黒字になっている分野も少なくありません。ニューヨークなどの都会に住んで金融業界で働いている米国人などは、トランプ大統領の言う「貿易赤字」をほとんど実感していないでしょう。ただし、金融業界の赤字/黒字は製造業のように貿易収支の数字に表れにくいものです。こういった現象、つまり米国が製造業では赤字で、金融業は潤っているという傾向は、米国内で富の格差が拡大していることに繋がっていますが、それは貿易とは別の問題です。

――ソーブルさんの母国・カナダと米国は9月末、NAFTA(北米自由貿易協定)の見直しで合意しましたが、米国とカナダの間にはどのような問題があるのですか?

ソーブル トランプ大統領は米国とカナダの貿易についても米国側の赤字を問題視して不均衡の是正を求めています。これは製造業に限らず、テレビや映画などのコンテンツ産業にも米国はさらなる市場開放を求めています。米国とカナダは言語も同じ、文化も同じなので、米国の有力なコンテンツに市場を独占されてしまう可能性もあります。そのため、カナダ政府は一定の保護政策をとっているのです。しかし、それ以上に強く市場を開放しろと求めているのは、コンテンツ産業と同様にカナダ政府が保護している乳製品の分野です。

カナダ政府による自国の乳製品産業に対する政策は、国が一括して乳製品の原料となる牛乳を買い上げている点で、日本が農業の中でも特にコメを守ろうとしている姿勢に似ています。人口が米国の約10分の1しかないカナダは、食糧安全保障の観点からも危機感を認識し、自国の乳製品産業を守ろうとしているのです。それに対して米国は、日本に農作物の市場開放を求めるのと同じ論理で、カナダの乳製品保護に対しても閉鎖的だ、保護主義貿易だと言って圧力をかけてくる。そもそも日本のコメや、カナダの乳製品は米国の経済とは完全に異なるシステムで流通しているのに、そこにも自分たちのルールに従うよう求めてくるのです。

自動車産業に関しては、日米間でも常に経済摩擦の要因になっていますが、米国はカナダとの交渉でも問題点として捉え、攻撃材料に使ってきます。しかし、米国とカナダの自動車産業は1960年代から一体化が進み、もはや国家間の貿易問題の要因としては考えられないのが現実です。米国で売られている日本ブランドの自動車も、ほとんどは米国内の工場で生産されているものですよね。

グローバル経済が進んだ結果、もはや国境を越えた物の売り買いも、グローバル企業内のAという部署からBという部署へと単に物が移動しただけという見方もできる。しかし、トランプ大統領の貿易に関する思考回路は、ひと言で表現するなら「旧型」です。トランプ大統領にとっては日本とのFTA交渉も11月の中間選挙に向けたアピールだ、という見方もありますが、そもそもトランプ大統領が貿易に関して言っていることは、1980年代から変わっていません。その意味では、彼はブレない男。ブレることなく製造業にこだわり続ける旧型の男なのです。

――では、日米TAGの危険性を挙げるなら?

ソーブル 米韓FTAを例に取ると、日本でも実施されたエコカー減税をさらに大規模にした法案を韓国政府が成立させようとした際に、大型車を中心に製造している米国の自動車産業からの圧力で法案成立が延期になった事例があります。日米TAGはまだ交渉がスタートしたばかりですが、日本で税制面で優遇されてきた軽自動車に対して米国側が圧力をかけ、軽自動車税が一気に1.5倍に跳ね上がるといった事態はすでに起きています。しかし、日本経済が大きなダメージを被るほどにはならないと思います。

危険はやはり"トランプ流ディール"にあると思います。本来、経済交渉の場に安全保障の要素を持ち込むのはタブーです。しかし、トランプ大統領は「交渉に使えるカードはなんでも使う」人物。安倍首相が訪米して一緒にゴルフをした際にも、トランプ大統領は自分の政治資金面でのパトロンであるカジノ・オーナーに日本でもカジノを開業させたらどうかと平気で持ちかけるほどです。内政干渉と言う以前に、国家のトップが口に出す話題とはとても思えません。

日米TAGの交渉を通じて、日本と米国の安全保障の枠組みまで影響が出る可能性も完全に否定できるわけではありません。この点は、日本政府も十分に注意して交渉を進める必要があるでしょう。

●ジョナサン・ソーブル
1973年生まれ、カナダ・オンタリオ州出身。トロント大学で国際関係論、ニューヨークのコロンビア大学大学院でジャーナリズムを学ぶ。ダウ・ジョーンズ経済通信、ロイター通信、「フィナンシャル・タイムズ」、「ニューヨーク・タイムズ」を経て、現在は一般財団法人「アジア・パシフィック・イニシアティブ」の客員研究員を務めている

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