対談を行った山崎雅弘氏(右)と内田樹氏(左)
この数年来国内外で繰り広げられている、戦闘的な言論活動ともいえる「歴史戦」と、1930~40年代当時の日本政府と軍部による宣伝活動「思想戦」。

このふたつの"戦い"の類似点を具体例を挙げて丁寧に検証し、昨年の刊行時より話題を集めている『歴史戦と思想戦』(集英社新書)の著者・山崎雅弘氏と、『街場の戦争論』などの著書で知られる思想家・内田樹氏の対談の前編を配信する。

(本対談は昨年に大阪・隆祥館書店にて開催されたイベントの内容を収録。集英社新書編集部が構成したものです)

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■歴史修正主義へのリアクション

内田 まずは『歴史戦と思想戦』をお書きになった経緯をお聞きできますか。

山崎 はい。二年前に『「天皇機関説」事件』という本を書いた時に、その事件のあった1930年代の日本の言論状況や政府の動きを調べるうち、当時の日本政府と軍部が「思想戦」と称する思想宣伝のキャンペーンを行っていた事実を知りました。その内容を調べると、産経新聞社などが展開している「歴史戦」という歴史修正主義の言論活動とそっくりでした。

歴史戦とは、先の戦争中に日本軍が行った南京虐殺や慰安婦の非人道的待遇への批判を「中国と韓国が日本に対して仕掛けている、歴史を武器とした戦い」と捉え、日本もそれに反撃すべきだという概念です。今回の『歴史戦と思想戦』では、この2つの「戦い」の共通性を踏まえつつ、そこで語られる個々の言説について、論理と事実の二つの角度から読み解き、検証する作業を行いました。戦中の「思想戦」で用いられた言葉のトリックや概念操作をヒントにして、現代の「歴史戦」を読み解けば、いわゆる「歴史修正主義」の正体を暴くことができるのではないか、と考えたのです。一見もっともらしい大義名分を拡大解釈したり、特定の言葉が持つ意味を意図的に歪めて用いる手法は、「思想戦」と「歴史戦」に共通するものですが、こうした欺瞞のトリックは現代の政治家も多用しています。つまり、歴史修正のまやかしを見破る力をつけることで、政治家にだまされない免疫力も高められます。

戦前の「思想戦」と現代の「歴史戦」の類似点

内田 なるほど。あえて『歴史戦と思想戦』というふうに二つ並べたということは、1930年代の日本におけるいわゆる思想戦というのと、現在の産経新聞や『正論』などが仕掛けている歴史戦の間に通じるものがある、と。

山崎 構造的に共通する点が多々あります。この本の企画を編集部に提案した段階では、ここまで多くの共通点があるとは思わなかったんですが。問題を「日本と敵国の戦い」に単純化した上で「我々は結束して敵国とそれに同調する『国内の敵』に勝たなくてはならない」という心理誘導の手法や、使われるキーワードもそっくりです。例えば、コミンテルンという言葉。歴史修正主義の論客が、戦前と戦中の大日本帝国の行いを擁護する文脈でよく使う言葉ですが、日本に害を及ぼすコミンテルンという共産主義者の秘密組織が今も水面下で活動しているかのようなことを語る人が大学教授や国会議員にもいる。しかし実際には、コミンテルンという組織は第二次世界大戦中に解散してるんです。

内田 そうですね、1943年になくなっています。

山崎 コミンテルンとは、国際的な共産党の連携組織ですが、日本に対する政治的影響力は限られていました。しかし、当時の日本の憲兵や特高警察は、コミンテルンの日本に対する「思想的な侵略」を警戒し、その影響力を過大評価した。そして、コミンテルンの大会で採択された内容を拡大解釈して、日本の平和主義者や反戦運動家、自由主義者も「共産党のシンパだ」と決めつけて弾圧した。「歴史戦」の論客も、安倍政権に反対するデモを「共産党のシンパだ」と決めつけています。

内田 「巨大な陰謀地下組織の国際的なネットワークがあって、それがわが国を侵略しようとしている」という陰謀史観は目新しいものではありませんが、すべての陰謀史観にも通じていることは、「どこかが侵略してくる」ということについては確信を込めて語るのに、「どこが、何のために」ということについては特段のこだわりがないという点です。「日本を無力化しようとしているものがいる」と彼らは口を揃えて言うわけですけれど、その主体は時にコミンテルンであり、時にGHQであり、時に中国であり韓国であり、あるいはその全てである。そんなことを平気で言う。いくらなんでも、コミンテルンとGHQと中国と韓国とが結託して日本を弱体化する陰謀をめぐらしているというような話は、言っている本人だって無理があるとわかっているはずです。でも、彼らは気にしない。

■歴史戦論者が守りたいのは大日本帝国

山崎 「歴史戦」で語られる説明は矛盾だらけで、個別の論理は全体として全然整合していませんね。この本にも書きましたが、例えば「東南アジアの植民地を解放して独立させたのは日本軍だ」と彼らは言う。その一方で「日本があの戦争を始めたのはコミンテルンの謀略にはめられたからだ」と。その二つを論理的に組み合わせると、「東南アジアの植民地が戦後に独立したのはコミンテルンの功績だ」ということになってしまいます。ただし、個別の論理はバラバラですが、全体を見渡すとそこに一つ共通の流れがある。それは、大日本帝国の擁護です。日本における歴史修正の言説は、ほとんど全てが「大日本帝国の名誉を守る」という共通の目的に沿っている。

では、なぜ彼らは大日本帝国を愛するのか。大日本帝国時代の日本人には、我々がいま享受しているような自由はなく、戦争で苦しい目に遭って多くの人が死んだ。日本の長い歴史において、独立国として主権を失ったのも、大日本帝国時代のただ一度だけです。これらの事実を踏まえれば、日本史上最悪の政治体制と言ってもおかしくない。にもかかわらず、「愛国者」と自己定義する彼らは大日本帝国を愛する。彼らにとって、大日本帝国は今も特別な「権威」を備えているからです。

「自分は孤独で弱い存在じゃないんだ。大きくて強い集団の一部、偉大な民族国家の一員である」というような認識を持つことで、自分の価値が上がったと感じ、自尊心を取り戻して不安を解消する人を、心理学では「権威主義的性格」と呼んでいます。そんな権威主義的性格の日本人の目には、かつての大日本帝国の精神文化や世界観は、きわめて完成度の高い「権威主義のパッケージ」に見えているのでしょう。

日本の歴史上、国内の空気が一番権威主義的だったのは、おそらく大日本帝国時代末期の1935年から45年までの10年間でした。同じ大日本帝国時代でも、大正時代にはまだ自由な空気もあり、外国から学ぼうという学習意欲もありましたが、35年から45年の10年間は「わが大日本帝国は他のどの国よりも優れている」という自国優越思想が肥大化し、間違ったことはしない「無謬国家」の幻想に浸りました。そんな自国優越思想に惹かれて、自分のアイデンティティーを大日本帝国と結びつけた一部の日本人は、大日本帝国の名誉を守ることを自分の務めと考えます。

関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺を「歴史戦」の論客が否定するのも、これと同じ理由です。虐殺は大日本帝国時代の汚点であり、それを否定あるいは矮小化すれば、大日本帝国の名誉を守ることができる。

言い換えれば、彼らは近現代の歴史について、まず「大日本帝国は悪くない」という結論から出発する。そして、その結論から逆算して、論理的に整合しないバラバラの説明を組み立てる。

内田 彼らが「守っている」つもりのものと、彼らが「攻撃してくる」と思っているものも、どちらも幻影なんです。日本を「攻撃してくるもの」はコミンテルンとGHQと現代中国韓国の連合体という「幻想の共同体」であり、それに対して彼らが守ろうとしているものもまた1935年から45年までの日本人にとって存在したと彼らが想定している「幻想の共同体」であるわけですから。

山崎 そうですね。

内田 僕は山崎さんより大分年が上なので、1950年代の戦後日本社会の雰囲気をよく覚えてますけども、当時は戦前的なものに対する懐旧の情なんて庶民の中にはまず見ることがありませんでした。むしろ、「もうこりごりだ」という気分が支配的だった。小津安二郎の映画を見ると分かります。登場人物たちが戦中を回顧したときに口にするのは「本当に嫌な時代だった。物はないし、バカなやつが威張っていて」という言葉です。小津は別の映画でほとんど同じ台詞を二度使っています。「嫌な時代だった」というのは、50年代の日本人にとっての実感だったんだと思います。

あの戦争で日本人は310万人が死にましたけれど、実際に戦闘で死んだ兵士は一部に過ぎません。ほとんどの兵士は戦病死や餓死で死に、あるいは輸送船の沈没で溺死した。彼らは勝ち目のない作戦を立案し、兵站を軽視した戦争指導部に殺されたようなものです。内地でも、空襲で家を焼かれたり、艦砲射撃を受けた人もいますけれど、戦時中の苦しみの実体は、そういう軍事的な恐怖よりむしろ「食べ物がない」「バカなやつが威張っている」という日常的なつらさだったと思います。

山崎 そうですね。

内田 戦時下の生活のつらさにリアリティがあったから、ようやく戦争が終わり、戦地に送られたり、空襲で焼かれて死ぬ恐怖もなくなり、特高も憲兵隊も隣組もなくなって、心底ほっとしていた。だから、1935年から45年の日本を懐かしそうに語る人間なんて、僕の周りには一人もいなかった。友だちの父親に元憲兵隊の下士官だった人がいて、その人だけは酔うと中国人を日本刀で何人もぶった斬ったというようなことを自慢しましたが、僕が子どもの頃に戦中を懐かしそうに語っていたのは後にも先にも彼一人でした。

僕は東京の下丸子にある六所神社という神社の境内にある借地に暮らしてたんですが、その頃の神社のありさまはほんとうに悲惨でした。誰もお参りしないし、お賽銭を上げる人もいない。鳥居の前を通るときに足を止めて遥拝する人もいない。神社は荒れ放題に荒れていて、拝殿の床は抜けて、床下が子供たちの遊び場になっていた。 

■歴史修正主義の台頭は80年代

内田 戦争経験者たちの眼には国家神道と天皇制は許しがたい制度に思えたんだと思います。でも、二つとも戦後はほんとうに力を失っていたので、あえて「打倒する」対象として言挙げされなかった。それより「明日の米びつ」の心配の方が優先した。

だから、戦争経験者が生きている間は歴史修正主義なんてものが出てくる余地はなかったんです。ドイツでもフランスでも日本でも、歴史修正主義が出てくるのは80年代からです。戦争経験者が高齢化して、政治やメディアの第一線から退いた頃になってどっと出てきた。それまでは、「南京虐殺はなかった」というようなことを言っても、「何を言っているんだ、バカ! 俺はそこにいたんだよ」という人がいた。「従軍慰安婦はいなかった」なんて言っても、「バカ野郎、何言ってるんだ! ピー屋(*戦中に慰安婦を「ピー」、慰安所を「ピー屋」と呼んだ)に何人もいたよ」って言う人たちがいた。

ただ、戦争経験者も被害経験については饒舌でしたけれど、加害経験についてはぴたりと口をつぐんだ。それは職場や家庭で話題に出せるような話じゃなかった。だから、黙っていた。この人たちがいる限り、歴史修正主義者に出番はなかった。戦争の「生き証人」がいなくなったのを見計らって歴史修正主義者たちがぞろぞろと登場してきた。

山崎 戦争を経験された人が身近にいれば、浅はかなことを言う人間を直接叱ることもできたのでしょうが、教育の中にきちんと組み込む形であの戦争を総括する作業は不完全だったと僕は思います。たとえば、あの戦争中に神社がどれほど戦争扇動に協力したかを、本当はもっときちんと戦後の社会で話されなければならなかったのに、ほとんどそこに触れられていない。僕が知る限り、井上ひさしさんが戯曲でこの問題を正面から扱っていましたが、それ以外ではほとんど見たことがない。

内田 今言った通り、敗戦直後の神道関係者がもう本当に力を失っていたということが大きかったと思います。それまで政府が神道のパトロンだったのが、消えた。イデオロギー的な支えもないし、財政的な支えもない。民心は神道からは離れていたので、戦後の神社は気の毒になるくらいに寂れていた。だから、あの時代に「神道関係者がどう戦争に加担したのか、徹底的に究明して、責任を追及しよう」という人が出てきたとしても、「まあ、いいじゃないの。もう尾羽打ち枯らして、食べるものにも事欠いてるんだから、これ以上叩くのは気の毒だよ」といって制されたんじゃないですか。国家神道は自然消滅するだろうから、わざわざ手を下すには及ばない...という気分だったんじゃないですか。それに自分たちだって、程度の差はあれ、戦争や軍国主義に加担してきたわけですから、人のことは言えない。

山崎 確かに、靖国神社も戦後存続するかどうかというところで......。

内田 みなさんご存じないでしょうけれど、靖国神社だって、1960年代ぐらいまでは閑散としていて、参拝者もほとんどいない子どもの遊び場だったんですから。

山崎 GHQも「靖国神社はもうミリタリー色が消えた様子だし、存続を許してもいいか」と甘く見てしまったんですね。しかしGHQが帰国すると、靖国神社は大日本帝国の精神文化を継承する一大拠点になった。ドイツに行っても、あんな施設はない。ナチスの精神文化を継承する施設なんて、どこにもないです。

内田 イタリアにもないし、日本だけでしょう。でも、今みたいになるなんて、60年代までは誰も思っていなかった。僕の学生時代には「戦前の日本を懐かしがる」政治勢力や歴史修正主義なんか姿も見えなかった。

山崎 おそらく80年代から90年代ぐらいから、大日本帝国を擁護する言説が、社会の表舞台で少しずつ増えていったと思います。

内田 理由の一つは80年代ぐらいに日本が急激に国力を回復して、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になって、アジア諸国を見下す気分になってきたことでしょう。それが、戦前の大日本帝国の「大東亜共栄圏」マインドとも親和したのかも知れませんね。

◆後編⇒「歴史戦」と「思想戦」の驚くべき共通点とは? 山崎雅弘×内田樹対談

●山崎雅弘(やまざき・まさひろ)
1967年大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)で、日本会議の実態を明らかにし、注目を浴びる。主な著書に、『「天皇機関説」事件』(集英社新書)『1937年の日本人』(朝日新聞出版)『[増補版]戦前回帰』(朝日文庫)ほか多数。ツイッターアカウントは【@mas__yamazaki】

●内田 樹(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。思想家。著書に『日本辺境論』(新潮新書)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)、共著に『一神教と国家』『荒天の武学』(集英社新書)他多数。

■『歴史戦と思想戦 -歴史問題の読み解き方』(集英社新書 本体920円+税)