各国で火花を散らしている、新型コロナウイルスのワクチン開発競争 各国で火花を散らしている、新型コロナウイルスのワクチン開発競争

世界中の人々が待ち望む、新型コロナウイルスのワクチン開発をめぐって火花を散らすアメリカと中国。すでに開発の最終段階に入ったワクチンもあるというが、実用化はいつになるのか?

また、「ワープスピード作戦」と「健康シルクロード構想」というワクチン開発のネーミングから透ける両国首脳の思惑とは?

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■9つのプロジェクトが最終段階へ

世界全体の累計感染者数が3000万人を超え、連日数十万人単位で新規感染者が増え続けるなど、いまだにとどまるところを知らない新型コロナウイルスの感染拡大(9月18日時点)。

そうしたなか、大きな期待が寄せられているのが、現在、各国で開発が進められているワクチンの実用化だ。

WHO(世界保健機関)によれば、9月17日時点で進行中のワクチン開発プロジェクトは182件。そのうち、すでに9件が「フェーズ3」(第3相臨床試験)と呼ばれる、開発の最終段階に入っているという。

この開発競争に莫大(ばくだい)な予算を投じ、ライバル心むき出しで火花を散らしているのがアメリカと中国だ。

アメリカのトランプ大統領は100億ドル(1兆円以上)を投じて、最短でも数年はかかるとされるワクチン開発をわずか数ヵ月で実現し、アメリカの人口に相当する3億人分のワクチンを確保する「ワープスピード作戦」を宣言。各州政府に対し、11月にはワクチンの供給に対応できるよう、準備を進めておくように通達が出されている。

対する中国の習近平国家主席も、中国が進める巨大経済圏構想「一帯一路」を通じて、ワクチン開発や供給、新型コロナ対応などでアジアやアフリカ諸国と幅広く協力する「健康シルクロード構想」を発表。国内だけでなく、カナダにも生産拠点を確保するなど、着々と準備を進めている。

国の威信をかけたワクチン開発競争は、急激に悪化する米中関係や、今年11月のアメリカ大統領選などをめぐる両国の思惑も絡んでヒートアップ。

100億ドルという巨額の予算を投じて、いち早くワクチン開発と確保に動いたトランプ大統領は、すでにアメリカの人口に当たる3億回分のワクチン供給を製薬会社から取りつけている 100億ドルという巨額の予算を投じて、いち早くワクチン開発と確保に動いたトランプ大統領は、すでにアメリカの人口に当たる3億回分のワクチン供給を製薬会社から取りつけている

7月にはワクチン開発のスパイ疑惑を理由に、アメリカが在ヒューストン中国総領事館を閉鎖。対抗措置として中国側も成都のアメリカ総領事館を閉鎖するなどの外交問題に発展し、もはや新薬開発競争の枠を超えた場外乱闘の様相を呈し始めている。

しかも8月11日、そんな米中の間隙を縫ってロシアが突然、「ワクチンの実用化に成功した」と発表。ワクチンの名前は世界初の人工衛星にちなんで「スプートニクV」と命名され、臨床試験の結果、参加者全員に抗体反応が確認されたという論文が9月に入り、イギリスの医学雑誌『ランセット』に発表された。

ただし、「スプートニクV」は、フェーズ3という多くの人を対象にした安全性、有効性を確認する最終段階の臨床試験において結果が出る前に承認されており、世界中の科学者から疑問の声が上がっている。なお、フェーズ3は承認後にスタートし、現在進行中だ。

この特集では、「ワープスピード」vs「健康シルクロード」に「スプートニク」まで乱入し、混迷を極めるワクチン開発競争のウラ側を探っていこう。

まずは、米中を中心としたワクチン開発の状況について、『日経バイオテク』副編集長の久保田 文さんに聞いた。

「新型コロナウイルスのワクチン開発が、前代未聞のスピードで進んでいるのは事実です。臨床試験のフェーズ3に入っているワクチンのうち、現在トップを走っていると言われているのがオックスフォード大学とイギリスの製薬大手アストラゼネカ社が共同で開発を進めているワクチンで、これを中国シノバック社、米モデルナ社/米国立アレルギー感染症研究所、米ファイザー社/独ビオンテック社、中国シノファーム社の武漢生物製品研究所と北京生物製品研究所、中国カンシノ・バイオロジカル社/北京バイオテクノロジー研究所が猛追。ロシアのガマレア研究所のスプートニクVはフェーズ3の臨床試験が始まる前に承認されてしまいました」

アメリカはイギリスやドイツでのワクチン開発にも多額の資金提供をしているので、これら欧州のプロジェクトをアメリカ系とカウントすれば、フェーズ3に入ったワクチンはアメリカ系が4種、中国系が4種、ロシア系が1種という状況です。

アメリカ系の3種は『ウイルスベクターワクチン』や『mRNAワクチン』といった最新の遺伝子技術を使っている。

「ワープスピード作戦では、こうした最新技術の積極的な活用でワクチン開発を大幅に短縮しようという考えがあったのだと思います。ただし、これまで世界で承認されたウイルスベクターワクチンはエボラウイルスワクチンのみ。

mRNAワクチンに至っては、これまでひとつも実用化されておらず、新型コロナウイルスに対して何がベストな方法なのか、まだ見えていないのが現状です」(久保田さん)

■選挙対策としてのワクチン開発

また、開発が最終段階のフェーズ3に入ったといっても、「ワクチンの実用化」に向けた道はここからが正念場だという。まずは大量の臨床試験を重ねて多くのデータを集め、ワクチンの安全性と有効性を確かめる必要があるが、多くのワクチン開発がこの段階でつまずいてしまうからだ。

実際、9月6日にはオックスフォード大学とアストラゼネカ社が共同開発しているワクチンの臨床試験が一時的にストップした。詳細は明らかにされていないが、治験の参加者のひとりに深刻な症状が出たためだと報道されている。

その後、同社は独立した委員会や規制当局によって安全性が確認されたとして、9月12日からイギリス国内での臨床試験を開始した。前出の久保田さんによれば「今回のように情報が公開されることはまれ」だが、今後もこうした形で臨床試験が中断する可能性は十分にあるという。

ちなみに、同社のワクチンは日本政府も1億2000回分の供給を受けることで合意済だ。

一方で、仮に安全性や有効性が確認できても、世界規模の流行に対応するためには、数十億人のニーズに応えるための「量産能力」も重要な鍵になると、前出の久保田さんは指摘する。

「もちろん、これだけ大規模な開発が各国で進んでいるのですから、ワクチンが比較的早い段階で実用化される可能性はあると思います。

 ただし、そこでいう『実用化』というのは、おそらく政府の要人とか、限られた医療関係者や一部の高齢者といった、特に優先すべき人に少量のワクチンを打つという意味での実用化で、万人がワクチンを打てるようになるには、その後、年単位の時間が必要になるでしょう。

では、そうした非常に限定的な意味でのワクチンの実用化が可能かというと、それは正直、ワクチンの安全性や有効性の見極めに関する、各国規制当局の『さじ加減』だと思います。

開発競争の勝ち負けに本質的な意味があるとは思いませんし、人の命のために医薬品を作るのが本来の使命なので、各国がさまざまな形で協力をしてゆくべきだと思います。

しかし仮に、どこかの国の為政者が政治的な理由で『どこよりも早い実用化が何より大事だ』と考えれば、十分な安全性や有効性が確認されないまま、見切り発車的な形で実用化が認められてしまう可能性はあるかもしれません」

久保田さんが指摘するとおり、ワクチン開発の目的が特定の国の「国益」であってはならない。だが、米中の開発競争の裏側には両国首脳の「政治的な思惑」がかなり露骨に表れている。

「11月の大統領選挙を控えたトランプ大統領にとって『ワープスピード作戦』が選挙のネタなのは確実です」

と語るのは、パックンことパトリック・ハーラン氏だ。

「アメリカでの新型コロナ問題の切実さは、文字どおりの『アメリカファースト』状態にあります。世界1位の感染者数と死亡者数を誇り、先進国の中で唯一、第1波を抑え込めていません。そうしたなか、アメリカ社会と政治には深刻な分断が生まれているのですが、ワクチンの重要性に関しては共和党も民主党も一枚岩で、巨額の資金を充てることに反対意見はありません。

ただし、どんなに『ワープ』しても、11月の大統領選挙までにワクチンができる可能性はゼロでしょう!

実はトランプ大統領、すでに今年3月の時点で『ワクチンはもうすぐできる』と言っていて、6月には『ワクチンが200万人分完成。安全性さえ確認されれば出荷できる』とも発言してますが、もちろんウソです。そんな感じですから、実際にワクチンが完成していなくても選挙対策として、ワクチン開発を強くアピールし続けるのは間違いありません」

もうひとつ、トランプ大統領の選挙戦略で重要な要素が「中国叩き」だと指摘する。

「トランプはアメリカでここまでコロナが広がった責任をすべて中国のせいにしたいので、あらゆる形で中国バッシングを繰り返し、それを自分の大統領選挙に利用しようとしています。中国やWHOを激しく批判し、WHOからの脱退を宣言したのもそのためで、当然、ワクチン開発でも彼らへの敵視は変わらない。

だから、自国民のワクチン確保を優先するアメリカファーストな姿勢や、中国への対抗意識をむき出しにしたワクチン開発競争も、すべては大統領選挙狙いのキャンペーンとみるべきです。

でも実際の開発競争となれば、アメリカは有利だと思いますよ。だって、これだけ感染者が多ければ、ワクチンの臨床試験もやりやすいですからね!」(パックン)

■コロナ発生源の中国は嫌われないよう必死?

フィリピンのドゥテルテ大統領は、ワクチン供給を条件に、中国と対立していた南沙諸島の領有権問題をあっさり棚上げにするような発言をした フィリピンのドゥテルテ大統領は、ワクチン供給を条件に、中国と対立していた南沙諸島の領有権問題をあっさり棚上げにするような発言をした

一方、中国はどうか?

「流行を抑え込んで普通の生活にある程度戻ったという感覚が中国にはあるので、一般の人々がワクチンに対して期待してるかというと、そうでもないというのが実感です」

と語るのは、中国事情に詳しいジャーナリストの高口康太氏だ。

「ただし、政治の面ではワクチンの開発と実用化が、外交的にも非常に強力なカードになるので、なんとしても作りたいという気持ちはあると思います。

軍人が志願して、開発段階のワクチンの接種を受けるとか、中国のCDC(疾病対策センター)に当たる組織のトップが実験中のワクチンを自分に打ったなどという報道があったり、かなりクレージーなワクチン開発を進めているようです(笑)。

習近平が打ち出した『健康シルクロード構想』というのも、中国にはずっと途上国や第三世界のリーダーとして振る舞ってきたという自覚があるので、それらの国々に対して、中国は協力を惜しまないというのをアピールしたいのでしょう。

特にアフリカ諸国に対しては長年にわたって大規模な投資をしていますから、ワクチンの提供を通じて、関係をさらに強化したいと考えていると思います。

ただし、これは『マスク外交』のときもそうでしたが、中国が具体的な見返りを期待して、途上国へのワクチン提供を訴えているのかといえばそうでもない気がします。むしろコロナの発生源となった中国としては、国際社会の中で嫌われないために、必死なのかもしれません。

それでも、中国がまだ存在しないワクチンを『提供する』と言っただけで、フィリピンのドゥテルテ大統領が南沙諸島の領有権問題で譲歩を示唆するぐらいですから、中国にとってワクチン開発が強力な外交上のカードになることは間違いないでしょう」(高口氏)

ゲノム編集やAIなど、最新のテクノロジー分野に詳しいジャーナリストの小林雅一氏は次のように話す。

「ワクチン開発で何よりも優先されるべきは科学的なアプローチと、それに基づく信頼のはず。それが米中の政治的な思惑によって歪(ゆが)められかねない現状には危うさを感じます。

トランプ大統領の言葉にも、習近平政権の言葉にも、誰もが疑いを抱いているような状況でワクチンが完成したとしても、われわれはそれを信頼できるでしょうか」

ワクチン実用化で「ポストコロナ」の時代が実現するのか、それともそれは醜いワクチン争奪戦の始まりか? ワープスピードでも健康シルクロードでも構わないから、米中両国トップは邪念を捨てて「健全なウイルス開発競争」に邁進(まいしん)してもらいたい!