右と左、保守とリベラル。改憲派と護憲派の対立......と、まるで噛(か)み合わない議論の中で広がり続ける政治への無関心。分断が深まる日本社会の現状をもたらしたものはなんなのか?
その答えを「リベラル」と呼ばれる人たちのあり方に求めたのが、弁護士・倉持麟太郎氏の新著『リベラルの敵はリベラルにあり』だ。安倍政権を引き継いだ菅政権誕生後も自民党一強状態は続き、日本の民主主義や法の支配が危機に瀕(ひん)していると叫ばれる今、求められる「本来のリベラル」の姿とは?
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──本書のタイトル『リベラルの敵はリベラルにあり』が非常に挑戦的です。「敵」というぐらいですから、最初の「リベラル」とふたつ目の「リベラル」は違うんですよね?
倉持 違います。あえて、わかりやすく補うなら前者が「本来のリベラル」で、後者は「自称リベラル」という意味だと考えてもらえればいいと思います。
──では「本来のリベラル」ってなんでしょう? それと倉持さんの言う「自称リベラル」は何が違うのでしょうか?
倉持 リベラルの厳密な定義を説明しようと思うと、ローマ帝国からフランス革命やら、啓蒙(けいもう)思想などに触れねばならず、かなり大変なのですが、すごく単純に言うなら「自由」が最も大切な価値で、それを守るための社会の仕組みをしっかりとつくるべきだという考え方がリベラルだと思ってください。
そして、その実現のために、人々の多様性を受け入れる寛容さや、自由を守るための法の支配、そしてひとりひとりの社会的責任などを重視するのが本来のリベラルの姿勢です。
ところが、こうしたリベラルの考え方が、戦後の日本ではいわゆる「護憲左翼(野党勢力)」と政治的に結びついて次第に変質、硬直して、本来のリベラルが持っている寛容さを失ってしまった。
それが私の言う日本の自称リベラルで、政治家だけでなく、メディアや市民運動なども含め、こうした自称リベラルの「不寛容」で「潔癖性」で「上から目線」な態度が、普通の人たちを政治から遠ざけ、結果的に「安倍一強」のような状況を生み出してしまった要因のひとつだと考えています。
──具体的に日本の自称リベラルの何が問題なのでしょう?
倉持 最も象徴的なのが「改憲議論」です。最大野党の立憲民主党をはじめ、日本の護憲左翼はひたすら「安倍政権の下での憲法改正は絶対に許さない」と訴え続けるだけで、憲法改正の必要性の有無も含めて、議論にすら応じようとしません。
ですから、彼らは国会の「憲法審査会」を開かせないようにしたり、憲法審査会が開かれても、まともな議論を行なおうとすらしない。それどころか、手を挙げて意見を言おうとする人がいても、特定の人は最後まで発言させないといった、にわかには信じられないような光景が展開されています。
安倍改憲を本気で阻止したいのならば、その問題点を国民に広く伝えるためにも議論せねばなりません。しかし、議論すれば国民が「改憲派」に取り込まれるという愚民思想が、その先にある根本的な問題です。
──ただ「護憲リベラル」の人たちは、そもそも改憲の必要はないと考えているのではないでしょうか?
倉持 でも、本当にそうでしょうか? 例えば、日本国憲法第9条第2項ではハッキリと「戦力の不保持」と明記されているのに、この国には「防衛力」として自衛隊という事実上の軍隊が存在しています。
これほど大きな憲法と現実の乖離(かいり)を、自称リベラルの人たちまでが「合憲」だと認めてしまうのでは、もはや憲法と現実のズレなど意味を持たない。
そんな人たちが立憲主義の大切さを訴え、その一方で「安保法制は違憲だ」と声高に訴えたところで、果たしてどれだけの説得力があるでしょうか? 憲法に明記されている価値を自壊させているのは自称リベラルではないでしょうか。
──憲法を尊重するなら、本当はどちらも「違憲」だろうと。
倉持 より身近な例でいえば、新型コロナ対策があります。国会で「新型コロナ特措法」が成立し、安倍政権が「緊急事態宣言」を出したとき、自称リベラルはどう反応したのか?
実はこの法律は大問題で、法的な強制力はないのに自粛を要請しながら、自粛に対する補償の仕組みなど、国の責任が明確でないまま、外出制限や営業規制という形で国民の自由を実質的に侵害しているのです。
本当はリベラルを名乗る人たちが「おい、ちょっと待って、自由が制限されるのだから、国の責任を含めた法的な根拠が必要!」と声を上げるべきなのに、リベラルを名乗る野党の政治家だけでなく、メディアや学者までが「自粛要請という自由の侵害」を容認してしまった。
その結果、何が起こったのかといえば、国民が自分たちの自由を投げ出して「国家」に依存する一方で、市民間には自粛警察に象徴される不信と不寛容が広がりました。本来、そこに対して「ダメ」と異を唱えるのが、リベラルの役割なのです。
──本書では、社会の分断の背景として「アイデンティティの問題」にも注目していますね。
倉持 「自称リベラル」「ネトウヨ」「LGBT」でもなんでもいいのですが、今の社会では多様化という名の下で、さまざまなアイデンティティの人々をカテゴリーに分け、ラベルを貼って、政治が自分たちの支持層として取り込み利用しようとします。
彼らはそうやって「囲い込んだ支持層」の声に応え続けることで一定の票を維持し、自分たちの政治的な立場を守ることしか考えていません。
そのなかには、「無党派層」や「政治に関心のない人々」というカテゴリーもあって、選挙で自分たちの有利に働くなら、政治の側はあえて「政治に無関心な人たち」や「選挙に行かない人たち」までつくろうとする。
SNSやそれを支えるAIのアルゴリズムの発達は、社会にメリットももたらす一方で、そうやってラベルを貼られ、バラバラにカテゴリー分けされた人たち同士の分断をさらに広げていく可能性もある。
そうした時代のリベラルが今のようにかたくなで、不寛容で議論すら否定する「分断されたカテゴリーのひとつ」になってしまっていいのか?
僕は今の立憲民主党のような自称リベラルが、目先の100議席確保という選挙ビジネスのための大義なき「共闘」をしても、この国の政治の現状は変わらないと考えていますし、それは前回の都知事選の"非小池"の人々の投票行動でも証明されていると思います。
憲法論の「護憲派vs改憲派」やコロナ対策の「経済か? それとも命か?」といった単純な二項対立から脱して、きちんと議論ができる、そして法の支配の下で自由を尊重する「本来の意味でのリベラル」がこの国に生まれなければ、今や45%近くを占める「無党派層」の心はつかめないと思うのです。
●倉持麟太郎(くらもち・りんたろう)
1983年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学法学部卒業、中央大学法科大学院修了。2012年弁護士登録。日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事、弁護士法人Next代表弁護士。ベンチャー支援、一般企業法務、「働き方」などについて専門的に取り扱う一方で、TOKYO MXテレビ『モーニングCROSS』レギュラーコメンテーターなど多方面で活動。共著に『2015年安保 国会の内と外で』(岩波書店)、『時代の正体 vol.2』(現代思潮新社)、『ゴー宣〈憲法〉道場』(毎日新聞出版)がある
■『リベラルの敵はリベラルにあり』
(ちくま新書 1100円+税)
2015年、日弁連から安保法制の国会論戦における法的な論点整理役の指名を受け、政治の世界と接することになった著者。憲法に象徴されるリベラルな価値への確信を心に秘めて論戦に臨んだものの、著者の思いはあっさり砕け散り、その経験を通じて「リベラルの敵はリベラルにある」と思い至った。「敵」である「自称リベラル」の問題とは? 「本来のリベラル」の役割とは? 自民一強政治を打ち破る無党派層の掘り起こしに必要なこととは? 気鋭の法律家がリベラル再生の道を探る