三本指は市民に銃を向ける国軍への「不服従」のポーズ。当初は処罰覚悟の帰国を考えていた

なぜ彼は祖国を離れる決断をし、どのように行動を起こしたのか? W杯アジア2次予選のために来日したサッカー・ミャンマー代表の控えGK、ピエリアンアウン選手による突然の"亡命"劇。ジャーナリストの木村元彦(きむら・ゆきひこ)氏が密着取材した。

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■「母が生きていたら泣くだろうか」

6月15日の夕方、大阪市内でエスニック料理店を営む在日ミャンマー人のアウンミャッウインは、入念にハイアット リージェンシー 大阪の駐車場の導線を確認していた。

823号室に宿泊しているミャンマー代表のGK、ピエリアンアウンと約束した時刻は22時半。W杯アジア2次予選のタジキスタン戦を終えてホテルに戻った後、食事会場経由で2階の駐車場に姿を現すという段取りだった。

ピエリアンアウンは5月28日に行なわれた日本代表戦で、自国の軍事クーデターに対する抗議を示す三本指サインを出した。アウンミャッウインはテレビでそれを見た。

「ミャンマーでは無辜(むこ)の市民が800人以上も国軍に殺されている。彼はその現状を命がけで知らせようとした。ただ、このまま帰国させたら生命が危ない。逮捕と拷問で社会的に抹殺される」

アウンミャッウイン自身も軍事政権から逃れて来日し、2004年8月に日本で難民認定を受けている。ミャンマー国軍が支配する恐怖政治を骨の髄まで知っている。

一方、ピエリアンアウンの抗議のアクションは強い覚悟の上だった。

ミャンマーで軍事クーデターが起こったのは2月1日。事実ではない「国政選挙の不正」を口実に、国軍出身のミンスエ副大統領によって非常事態宣言が発令され、ミンアウンフライン国軍総司令官にすべての権力が掌握された。

そのとき、ミャンマー代表チームは国際試合に備えてヤンゴンで合宿中であった。一報がSNSで流れてきたとき、選手たちは冗談だろうと思った。そんな愚行が許されるはずがない、と。しかし、厳然たる事実だった。スポーツ界の幹部も逮捕されて代表合宿は解散となった。

選挙に負けたからといって三権分立を破壊し、自国の国民に銃を向ける。こんな独裁は許せない。代表選手たちも抗議デモに参加した。それは政治ではなく人間としての尊厳の闘いだった。しかし、国軍はデモ隊に容赦なく銃弾を撃ち込んできた。ピエリアンアウンが振り返る。

「怖くて必死に逃げました。私は知らない民家に飛び込んで匿(かくま)ってもらいました」

国軍の暴力はサッカー界にも容赦なく襲いかかった。ハンタワディ・ユナイテッドに所属するチェボーボーニェエンはU-21ミャンマー代表のキャプテンであったが、デモ中に殺害された。ピエリアンアウンの地元マンダレーのリンレットFCのGKアンゼンピョもまた撃ち殺された。

「チェボーボーニェエンはとても素晴らしい若者でした。コロナ禍で食料配布のボランティアなどをして、弱い立場の人のために働いていました。アンゼンピョは同じポジションの後輩として私のことを慕ってくれていました。なぜ、彼らのような人物が殺されなければならなかったのか? 迫害を受けているのは、選手だけではありません。私のチーム、マンダレー・ヤダナボンのサポーターのリーダーも逮捕されてしまったのです」

6月16日夜、関空でチェックインした時点でも同僚と共に帰国便に搭乗するつもりだった

そんななか、3月25日の開催予定から延期になっていた日本戦のため、再び代表合宿が行なわれることになった。ミャンマーサッカー協会は選手たちに対し、「まず集まろう。そして君たちの声を聞いて、われわれの声明を発表する」と呼びかけてきた。

だが、度し難い現実を受け、代表チームはふたつに分裂した。タイなど国外でプレーする選手たちはこんなひどい国家のためにプレーをしたくないとボイコットを選んだ。一方、ピエリアンアウンを含む国内の選手は、ミャンマーサッカー協会が毅然(きぜん)とした態度で国軍政権との距離を取ってくれると期待して残った。

「私たちは当然、クーデターに反対でした。『サッカー協会は軍事政権から独立した組織だ』と宣言をしてくれることを期待していました。しかし、だまされました。5月19日に発表された声明は『このままW杯予選に出場しないとFIFA(国際サッカー連盟)からペナルティを科せられるので出場をしなくてはならない』というものでした。

そして、ボイコットをする間もなく22日に日本に連れてこられたのです。私はここで抗議の意志を示そうと決意しました。あなたたちのひどい支配を決して私は許してはいないのだという不服従と、ミャンマーのひどい現状を世界に知らせる意味で」

試合前、憂国のGKは国歌を歌わず、そして三本指を出した。その瞬間、ピエリアンアウンは13年前に腎臓を病んで亡くなった母のことを思い出していた。

「母さんが生きていたら泣くだろうか。いや、きっと僕のことを誇りに思ってくれるはずだ」

事実、ミャンマーの市民はこの行為に勇気づけられ、SNS上では膨大な感謝の言葉が氾濫した。

しかし、ここから身の危険をいやでも感じざるをえなくなった。帰国したらどうなるのか、と。

■監視が厳しくホテル脱出に失敗

前出のアウンミャッウインはピエリアンアウンと連絡を取り、日本に残りたいという意志を確認した上で、そのサポートを始めた。決行の15日を迎えるにあたって、ピエリアンアウンからは食事会場などの様子を映した動画が送られてきていた。

そして、冒頭の駐車場での待機中、予定時刻を30分過ぎた頃だった。突然、アウンミャッウインが叫んだ。

「部屋のドアが開かないだって!」

ピエリアンアウンはホテルを抜け出そうとしたものの、警戒していたミャンマーサッカー協会のスタッフに見つかり、両脇を抱えられて連れ戻され、部屋の外に出られないという。

午前1時頃、事態を知った大阪弁護士会所属の空野佳弘(そらの・よしひろ)弁護士がホテル前に駆けつけた。空野はかつてミャンマー難民マウンマウンの担当として、高裁で初の「難民認定」逆転勝訴を勝ち取った弁護士である。ホテルの内と外でスマホを介しての意思確認のやりとりが始まった。ピエリアンアウンの気持ちはグラグラと揺れていた。

「協会のスタッフがゾウゾウ会長とのテレビ電話をつなぎました。会長は『君が帰国しても逮捕をしない。帰ってきなさい』と。関係者にもお世話になったので、自分だけが日本に残るのは心苦しい」

「何も悪くない市民を撃ち殺している軍を到底許せるものではない。そんな国の代表としてプレーはしたくない」

画面に映るのは、軍に銃撃されたU-21ミャンマー代表の主将。「犠牲者を忘れたことはない」

彼の取ろうとしている行動はかつてイビツァ・オシム(元サッカー日本代表監督)が故郷サラエボをユーゴスラビア人民軍が包囲し、市民の殺戮(さつりく)を開始した際に取った行動と酷似する。オシムは「私はこのチームの指揮はもう執れない。これが私がサラエボに対してできる唯一のことだ」との言葉を残してユーゴスラビア代表監督を辞任したのだ。

ピエリアンアウンに国から逃げる気持ちはなく、ミャンマー市民の気持ちを代弁する意思で国軍政府にNOを突き付けたにすぎない。だから彼はこうも言うのだ。

「自分が逃げたら家族が心配だ」

故郷マンダレーには父と3人の兄弟がいる。葛藤は続くが、いずれにしても選手が監視されて部屋の外へ出る自由がない状態は尋常ではない。空野は大阪府警に向かい、不当監禁だとして告発状を提出。この間もピエリアンアウンと支援者たちのやりとりは続いた。家族の安全に対する危惧には、「あなたが難民認定されれば、家族を呼び寄せることも可能ですよ」との声が寄せられた。

印象的だったのは、空野の「よければ、私が明日の8時に直接、あなたの意見を聞きましょう」という問いかけに対しての言葉だ。

「弁護士がいてくれるのはうれしいが、自分はもっとひっそりと単独で動きたい」

どんな判断をするにせよ、弁護士のアドバイスをもらったほうがトラブルもなく、安全ではないかと言うと、アウンミャッウインは首を振った。

「独裁のミャンマーで育った人間には、法治国家という概念がそもそも薄いのです。警察や裁判所に対する決定的な不信感がある」

翌日、再びスマホによるやりとりが続いたが、13時、ピエリアンアウンは空野に対して「やはり日本に残りたい」という明確な意思をメールで伝えてきた。

支援者とのやりとりで確認されたのは、チームからの離脱を試みるタイミングは2回ということ。まずは夕食時(19時)、前日同様に自力でホテルの外に出てきて保護を求める方法。

そして、ラストチャンスは関西国際空港のイミグレーション(入管)。そこで日本に残ることを宣言し、承認を受ける方法だ。現在、日本政府はミャンマー情勢を鑑みて、ミャンマー人に対しての緊急避難措置として在留、就労を認める方針を打ち出している。万が一、難民認定が下りなくとも在留や就労が可能なのだ。

■「自分の判断で残ることを決めた」

好きなGKはカシージャス。難民認定の申請後、「なんの仕事をしたいですか?」という記者団の質問には「できれば日本でサッカーを続けたい」

19時、ホテル前でアウンミャッウインと空野は車に同乗して動きを待っていた。しかし、何も起こらなかった。監視が厳しかったのか、それとも食事会場へ出る機会自体が奪われていたのか。後は関空で待つしかない。

20時過ぎ、ミャンマー代表の選手たちを乗せたバスがホテルを出発した。支援者と弁護士を乗せた車が後を追う。関空の出発フロアは選手団との接触を阻む形で警備がなされていた。

と、ピエリアンアウンが支援者たちに視線を向け、両手を合わせて「ごめんなさい」と言うようにお辞儀をした。

どういうことか。真意を計りかねていると、スマホの画面に視線を落としたアウンミャッウインが声を絞り出した。「『すみません。帰国します』と言っているよ」

ミャンマーへ帰るのか。ここへ来ての変心か。

航空会社のカウンターでチェックインをしたのが見える。あとは保安検査を済ませて出国審査に進むだけだ。もちろん、尊重すべきは本人の決断である。それでも支援者たちは、視界から消えたピエリアンアウンの身を案じずにはいられなかった。ミャンマーサッカー協会の「逮捕しないから戻ってこい」という甘言を本人も信じてはいなかったのだから。ヤンゴンに到着後、ただちに空港で拘束されるのではないか。

だが、空野は「まだ可能性はあると思いますよ」と顔を上げた。彼は東京にいる支援者からの連絡を受けていた。命を大切にしろという、ピエリアンアウンへの説得がなされており、そこでは葛藤がまだ続いているということだった。果たして、彼は入管でなんと言うか。「残りたい」か、「帰国します」か。

22時を回った頃、アウンミャッウインのスマホが鳴った。画面にピエリアンアウンの顔が浮かび上がり、入管職員がそれに代わった。日本に残りたいという意志が再び確認されたのだ。入管は出国ゲートから本人を戻した。

6月16日から日付が変わった深夜、悩んだ末に決断を下したピエリアンアウンは、再び姿を現し、取材陣の質問に答えた。

「自分の判断で残ることを決めました。最後まで苦しんだのは、私がこの行動を起こすことでチームメイトに迷惑をかけないか、そして家族に危害が加えられないかということ。もしも家族に何かあれば、私はそれからでも帰国して身代わりになります」

日本政府にはミャンマーの軍閥政治を膨大な投資によって支えてきた過去がある。それによって買われた武器が市民に向かって発砲された。いつか真の民主化がなったミャンマーにピエリアンアウンを帰国させられるその日まで、彼の身体と生活を守ることは少なからず日本社会の責務であろう。

6月22日、ピエリアンアウンは再び空野とアウンミャッウインと共に大阪出入国在留管理局を訪れた。難民認定を申請したのである。奇(く)しくもこの日、彼の故郷マンダレーでは、民主派の市民らが独自に結成した国民防衛隊(PDF)の拠点を国軍が一方的に襲撃し、8人を殺害、8人を逮捕するという事件が起きた。かような国にピエリアンアウンは帰れない。帰してはいけない。難民認定が一日も早くなされ、再びサッカーがプレーできることを祈念する。(敬称略)

●木村元彦(きむら・ゆきひこ) 
ジャーナリスト。アジアや東欧の民族問題を中心に取材、執筆活動を行なう