対談をおこなった内藤正典氏(右)と池亀彩氏

いまや人口13億人で、まもなく中国を抜き世界一の巨大国家になろうとしているインド。だが、そんなインドについて、日本人が持っているのはステレオタイプなイメージばかりだ。

11月に集英社新書『インド残酷物語 世界一たくましい民』を上梓したばかりの池亀彩氏(京都大学大学院准教授)は現地に長期間暮らし、社会の底辺で生きる人々の生活に触れ、彼らを精神的に率いるグルたちとも交流し、肌感覚でインドを知る人物。

その池亀氏と、『限界の現代史 イスラームが破壊する欺瞞の世界秩序』(集英社新書)などの著書がある同志社大学大学院教授・内藤正典氏が、インド社会の真の姿に迫る。

――まずは内藤先生に、本書を読まれた感想から。

内藤 面白かった。インドについて全くの門外漢として読ませていただいたけど、最初はカースト制度による差別や理不尽な仕打ちを克明に描かれていて、「やっぱりそうだったのか」と。そこからだんだんその背景をときおこしていって、カーストのことだけじゃなく、いろんなグル(宗教的指導者)の話が出てきて、そういうグルが何をしているのか、たとえば民間法廷みたいなことをやったり、という話が出てくる。そういうところへ分け入って、また最後に、差別に向き合ってきた人たちの話へ持っていった。

まさにインドに生きる人たちのレジリエンス、「たくましさ」というのがよくわかりました。時事的な解説ではないし、大向こうに受ける話でもないけど、知っているようで実は何も知らないインドについて、よくわかる本になっていると思いました。

池亀 ありがとうございます。

■極度に単純化されたインドのイメージ

内藤 インドって、あれだけ巨大な国だけど、いろんな単純化をされていますよね。私がやっているイスラム圏の場合もそうなんですけど......。そういう単純化の何が間違っているのか、ということも、この本には書かれている。

それでいて池亀先生は、上から語っていない。非常に慎重に人々の中に入っていって、その中で「読み書きを知らないということは、本当の意味でどういうことか、自分はわかっていなかった」というところから書いている。そこに非常にリアリティーがあるし、形式化されたものを少しずつ少しずつ破っていくという、ものすごく新鮮なものを感じました。

私はイスラム圏だけで手いっぱいで、これまでインドのことを勉強しようという気にはならなかったんだけど、こんなに面白いものだと思いませんでしたね。

池亀 そう言っていただけると本当にうれしいです。どういう形式で書くか、非常に迷いました。私は今まで論文や研究書を書いていて、しかも英語のものが多かったので、ごく一部の人にしか読まれないし、ごく一部の中だけで通じる話をしていたわけです。学者としてのキャリアを築く上には、やらざるを得ない面もあって......。そればかりやっていた中で「でも日本にいる普通の人はインドのことを全然知らないな」と、ふと思って。内藤先生もおっしゃったように、すごく単純なイメージでしか語られていない。特に「カースト社会、ひどいよね」とか「差別があるらしい」とか、最近だと「インド人、頭がいいらしい」とか。

内藤 「数学ができる」とかね(笑)。

池亀 はい(笑)。そういう「インド人ひどい」とか「インド人すごい」とか「中国に対抗できるのは大国としてのインドだ」などというイメージだけがひとり歩きしているので。それに対して、どういう語り方をすればいいのか悩みました。結局、普通の人の話を書くことで、日本で自分たちが生きている生活と、インドの人がインドで生きている生活とは「一見全然違うけど、わかる」。それによって、いわゆる偏見を超えてつながれるきっかけになるんじゃないか、と思ったんです。

内藤 なるほど。この本のP72~73の見開きページで、カーストを図式にして説明してくださってますね。P73の「バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ」っていう4つのカーストがあり、その下に「部族民(アーディヴァーシー)、不可触民(ダリト)」と呼ばれる人がいる、という図は、高校ぐらいまでの教科書に出てくるやつですよね。これを「ヴァルナ制」というんですね?

池亀 そうです。

内藤 右側のP72には、「土地持ち農民カースト(支配カースト)」とか「商人・金貸しカースト」とか「洗濯屋カースト」などの"職業カースト"などで構成される「ジャーティーの世界」というものを示した図がある。その2つの間をどういうふうに捉えていいのか、ということまで、これだけわかりやすく書かれた本というのは、あまりないと思いますよ。

池亀 実はそのカーストの図は、「インド研究者から怒られるんじゃないか」とビクビクしながら描いたんですけど......。

内藤 いやあ、非常にリアルでわかりやすい図です。本文中で触れられているカーストの具体例がどういうふうに結びついているのか、「こんな複雑な社会なんだな」というのを、自分の頭の中でもう一度整理できるようになっている。すごくいい本だと思ったのは、そういう点もあるんです。インドマニアやトルコマニアとか、マニアが書くと、ほとんどマニアにしかわからない話で終わってしまうから(苦笑)。

そしてもう一つ、一般的な学者の書いたものと違うなと思ったのは「何を伝えなければいけないか」というのを絞っていることです。学者、特に人類学者って膨大な引き出しをお持ちですが、それを全部出したら、素人の読者は理解できない。だから「どういう幹のストーリーを描いていくか」が重要で。それを非常に的確に選ばれている。それが非常に面白く、これだけ複雑なインドの話を一気に読ませるものになっている。

池亀 編集者さんのおかげも大きいんです。私はけっこう書き過ぎて、細かい説明をしちゃうんですが、「ここは削りましょう」って、かなり削るアドバイスをいただいて。

内藤 それでいて、大事なところには【解説】が付けられている。これは一般の読者もそうですけど、本当にインドのことを勉強しようという人が読んだ時にも、非常に役に立つと思います。

■植民地時代からの「エリートを作る」システム

内藤 さっき池亀先生が言われたけど、確かにインド人というと「理数系、数学ができる」というイメージがある。そしてインドは先端産業も持っているじゃないですか。どうやってそういうものができてきたんでしょう?

池亀 植民地時代からの「エリートを作る」というシステムが継続しているからだと思います。イギリスの統治政府にとってはエリートを作ればいいわけで、大衆教育には全く関心を持たなかったし、そこにお金も人材もつぎ込まない。でも植民地官僚としてのエリートは作るという、その伝統が残っていると思います。

内藤 なるほど。

池亀 そこにインド人実業家のラタン・タタ(インド最大企業のタタ・グループ会長)などの慈善家が、植民地時代のエリートを作るための教育システムに加えて、理系エリートを作ることに力を入れたということが大きいと思います。

内藤 池亀先生が描いてきた低い階層の中から、そういうところへ這い上がっていくのは、なかなか大変だと思うんですけど......。

池亀 大変です。

内藤 それは分離したままいくんですか、インドという国は。

池亀 もちろん、頑張ってそこにジャンプする人もいなくはないですけど、ほとんど不可能に近いですね。全然教育環境が違うので。まず、普通の人は英語をしゃべれない。

でもいわゆるエリートって、生まれたときから家の中でも英語だし、今のグーグルのCEO(経営最高責任者)のスンダル・ピチャイもインド出身ですが、彼なんかもそういう家庭の出身です。彼らは皆、高カーストで。ピチャイの家はミドルクラスですけど、タミル・ナードゥ州のバラモンで、超高カーストなんです。やっぱりそういう人がグローバルなエリート層とつながりやすい。英語という面でも、そうですし。

内藤 その人たちがインド全体を引っ張って、経済的にもアップグレードしていけるんですか。それとも、大半のそうじゃない人たちは、ずっと今のままなんですか? 

池亀 そういうトリクルダウン(*)みたいなのが本当にあるかどうか、すごく微妙ですね。もちろん生み出しているお金の規模は増えていますが、IT産業が盛んになったといっても、そこで仕事をしている人の数って、ものすごく少ないんです。

まあ、たしかに底上げはあると思います。昔だったら学校にすら行っていない子たちがたくさんいたけど、今はけっこう皆、学校に行っているし。

ただ、そこにも私立学校で、お金取って「イングリッシュ・ミディアム・スクール」とか名前つけて、英語で授業をやっていることにしているけど、誰も英語しゃべれない「なんちゃって英語学校」みたいなのが、ものすごい田舎にあったり......。

だから、教育に投資しようという気持ちは、貧しい人たちにもすごくありますけど、それが本当に変革につながるかは、ちょっとわからないですね。「教育を受けたけど仕事はない」という人たちがたくさん出てきているのは事実なので。そういう状態を「ジョブレス・グロース(雇用なき成長)」つまり、「雇用を生まずに経済だけが大きくなっている」と言うんですけど......。今後、そういう人たちが仕事を得ていくことができるのかどうか、わからない。

中国や、かつての日本では、いわゆる製造業で、皆、都会に出てきて工場で働き出して、大きな産業構造の変化がありました。でもインドでは、それがあまり起こっていません。ほとんどの人はまだ農村にいて。教育を受けても職がなくブラブラしている人が、ものすごい数いるんです。

*トリクルダウン:「裕福な人がより裕福になれば、貧しい人にも富が滴り落ちる」という理論

■パキスタンと紛争を起こす可能性も

内藤 ブラブラしてても、生きてはいける?

池亀 辛うじて。でも、そのフラストレーションたるや、ものすごいものがあって......。だからそういう人たちがモディ首相に期待するんですけど......。"内なる敵"が見つかった時、たとえば「ムスリム(イスラム教徒)が自分らよりいい物を持ってる」とか聞いたら、ブワーッと攻撃していく、という。

これは政治学者が言っていることですけど、「政治家が小さなコンフリクト(対立、紛争)というのを作っている」と。大きな暴動ではないけど、小さいところでそういうガス抜きが行われているというか。

内藤 なるほど。

池亀 そういうことはあると思います。今回、新型コロナの感染者が急速に増え、経済もうまくいっていない中で、モディ政権もかなりギリギリなので、もしかしたら、無理だとわかっていても、パキスタンとの戦争みたいなことが始まるかも......。

内藤 国外へ目を向けさせる?

池亀 はい、大きな敵を作って内側の不満を外に向けさせようとする。そうすると、インド国内にいるムスリムは、今以上に迫害を受けるかもしれないです。

内藤 インドは今や人口13億の大国だし、パキスタンと事を構えるなんてことは......たしかに過去には数回、インド・パキスタン戦争がありましたけど。たぶん今のパキスタンには、そんな力はないだろうと思うんです。ただ、モディさんは、それを利用するでしょうね、じりじり燃やすように。

池亀 可能性はあると思いますね。でも、中国との衝突は、たぶん避けたいだろうと思います。

内藤 避けるでしょうね。

池亀 インド・中国国境は世界一高いヒマラヤ山脈ですから、インド側から国境地帯に行くだけでも大変で、戦闘しにくい場所ですしね。


内藤正典(ないとう・まさのり)
1956年東京都生まれ。東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科卒業。博士(社会学)。
専門は多文化共生論、現代イスラム地域研究。同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。一橋大学名誉教授。『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』『プロパガンダ戦争 分断される世界とメディア』(集英社新書)、『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと?』(集英社)、『イスラームからヨーロッパを見る 社会の深層で何が起きているのか』(岩波新書)他著作多数

池亀 彩(いけがめ・あや)
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。1969年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科、ベルギー・ルーヴェン・カトリック大学、京都大学大学院人間・環境学研究科、インド国立言語研究所などで学び、英国エディンバラ大学にて博士号(社会人類学)取得。英国でリサーチ・アソシエイトなどを経験した後、2015年から東京大学東洋文化研究所准教授を経て、2021年10月より現職